4.不破の狼

   1

 「先生、やめてくださいよぉ…」
 会うなり、葵はそう苦言を呈した。
 「ん? 何が?」
 「何がじゃないですよ、もう」
 くにゃっと眉が下がり、今度は困った顔になった。
 「坂下先輩のことですよお、昨日の。あれ、先生なんでしょ?」
 「あれ? 知ってんの? おかしいなあ…」
 男が首を捻った。どうやら本気でおかしいと思っているらしい。
 葵が、はあっと大きく溜息をついた。
 「もう、わざわざ先輩怒らせてどうするんですか、もう…」
 「うーん…でも、普通に渡してもまず受け取ってくれなかっただろうし…」
 「まあそうかも知れないですけど…」
 それにしてもいい迷惑だと思った。ただでさえ強いのに、その上本気で怒らせたりなんかしたらどんなことになるか…。それに―
 「先輩はいいですよ、まだ―」
 「?」
 確証がないので口にするのは憚(はばか)られたが、おそらく、あのバンソーコーはそう言うことなんだろう。そしてその考えが正しければ…。
 はぁ…と、葵がまた深く息を吐き出した。男には、イマイチその葵の心配の理由が分からない。もちろん知る由もない。
 「……ま、とりあえず練習しよ」
 「はい、わかりました…」
 そう言うと、葵はいつも通りバッグを持って本堂の裏へ着替えに向かった。何だか元気のないその背中を、男はぼんやりと見送る。
 「よいしょ…」
 いつものように、男は葵が着替えるまでの間、本堂の階段に腰掛けてぼーっとしていた。裏では今まさに「ショータイム」が繰り広げられているのだろうが、なるべく考えないようにした。―制服からブルマへの着替えなんて、金だって取れるだろうが…。
 不覚だった。
 そんなヨコシマな事を考えていて、僅かな足音に気付くのが遅れた。
 「―あなたね。最近葵に入れ知恵してる怪しい男って言うのは」
 ガラスのようなメツォソプラノ。木々に囲まれた境内にとても美しく共鳴する。
 男は少し顔を向けて声の主を見た。少し驚く。
 一人はまぁ女だと思っていた。でも、もう一人はかなり大柄の男だと思っていた。足音がかなり重かったのだ。しかし現れたのは細い女二人だった。
 (長い脚だなー)
 それが第一印象だった。健康的な長い脚が、鮮やかな緑のミニスカートから流れるように伸びていた。
 多分、こちらが軽い方だろう。しなやかなスプリングのような弾力を体全体に秘めているのを感じる。しかしもう一人の方は…よく分からなかった。表情も気配も不思議と読み取れない。見た目は耳に妙ちくりんな物を付けている以外は普通だった。重いと感じたのは勘違いだったか…。
 立ち上がる、ゆっくりと。
 「一応ね」
 「そう。じゃあ―」
 女が―来栖川綾香が一歩踏み出した。呼応するように、男も一歩踏み出す。
 「―好恵の顔に傷を付けたのもあなたね」
 好恵? と一瞬考えて、すぐに坂下先輩のことだと思い当たった。
 大体の事情は察した。下手(したて)に出るのは得策でないと瞬時に判断する。
 「そうだ。正々堂々、正面からやり合って俺が勝った。まぁ、手加減はしたけどな」
 ぴくり、と綾香の眉が上がった。表情は殆ど変えなかったが、怒りが静かに爆発の時を待っているのが分かった。冷静でいられるのは場数を踏んでいる証拠だと男は感じる。
 「信じられないわね。とても強そうには見えないわ」
 「お互い様だろう。それに別に信じる信じないはそっちの勝手だ」
 二人は尚も進み続けた。そしてお互いの間合ギリギリにぴたりと立ち止まる。
 風が吹いた。
 枝が鳴り、葉がざわめいた。
 不意に、綾香の表情が変わった。…ゆらりと殺気が立ち上がる。
 「許さないわ…!」
 「随意に」
 ザッ、と二人は同時に右足を引いた。男は腰を落とし、綾香は前足を爪先立てた。
 ―左手を前へ伸ばし、右手を顎先へ引き付ける。
 ―両手を肩幅に開き、頭を挟むように差し上げる。
 ゴゴゴゴ…
 放たれる気がぶつかり合う地鳴りのような響きが、二人の皮膚をビリビリと震えさせた。
 「すいませーん、遅くなっちゃって…わっ!」
 黒い狼と金の豹が対峙していた。
 何が起きているのか一瞬分からなかった。
 (あ、綾香さんがどーしてここに…。しかも怒ってます。それにセリオさんまで…)
 どうしてよいものか分からず、葵はただただ立ち尽くすのみ。口元に両手を当てて、全くの役立たずになっている。
 やがて構える両者の間に張りつめた気が、熱を帯びて渦を巻き始めた。
 (はわわ〜、どうしたら…)
 もしかしたら綾香はもう自分がこの神社で練習してないと思ってここへは来ないかも…と淡い期待を抱いたりもした。しかし―嵐は来てしまった。もっとも、場所が例え地の果てであっても、調べ上げてやって来たのだろうが…。
 止めなきゃ、と思ったが、葵にはどうしていいか分からない。
 (はわ〜、困りました〜…)
 と、おもむろにバッグを開き、何か役に立ちそうなものはないかと中身を地面にぶちまけ始めた。もう、完全にパニックになっていた。
 ジリ…と、男が膝に力を込める。相手の構えがムエタイだとは気付いている。あの長い脚で蹴りを出された日にゃあ…。
 しかし首は細い。打たれ弱いはずだと男は読んだ。耳も擦れてないところを見ると、グラウンドも出来ないと見ていいだろう。
 ああ…やめてくださいぃ〜
 誰にも聞こえないような声で、葵が二人に訴えかけた。もう、声すら出せない状況だった。
 ぐっ、と綾香が左腰を突き出した。
 ふわっ、と男が流れるように動く。
 「ハッ!」
 不意に、綾香の右足が跳ね上がった。まるで引き絞られた弓が放たれるが如く―
 男が踏み込んだ。前蹴りなら受けて中へ、回し蹴りなら受けて急所―股間の天然孔へ渾身の一撃を―
 だ、だめですうぅ〜
 「おやめ下さいっ!!」
 びくうっ、と葵が飛び上がった。飛び出した心臓を慌てて口に押し込む。
 男は綾香のハイキックを沈んでかわし、そしてそのまま弾かれたように後ろへ跳び退(ずさ)った。攻撃はしなかった。
 「拳をお収め下さい、綾香様」
 きっちりと正装に身を包んだ長身の老人が、そこには立っていた。
 「長瀬っ!? どうしてここがっ?」
 長瀬と呼ばれた老人が、ちらとお付きの少女を見やった。
 「セリオ、あなたねっ?」
 「申し訳ありません。出過ぎた真似を―」
 「そちらの方も―」
 ふと、長瀬が目を細めた。風に、男の長い髪が揺れる。
 「―有り難うございます。よくぞ拳を収めて下さいました」
 そしてにっこりと笑った。年輪を刻んだ柔和な笑顔だったが、その首の筋肉は尋常ではなかった。強い―と男は直感する。
 「お陰で命拾い致しました。重ねがさね感謝致します」
 「長瀬っ、何言ってんのよ!? 命拾いしたのはあっちでしょっ?」
 まだ収まりのつかない綾香が男に飛び掛かろうとしたが、簡単に長瀬に取り押さえられた。
 「おやめ下さい綾香様。相手が悪うございます」
 「なっ!」
 綾香が目を瞠った。
 「この私が、あんな男に負けるって言うのっ!?」
 「はい―」
 即答。どうやらこの老人は、こちらのことを知っているらしい。
 「―今回ばかりは、相手が悪うございます」
 綾香はとうとうキーッとヒステリーを起こし始めた。しかし長瀬はそれを無視して深々と男に頭を下げる。
 いやいやと手を振り、男は執事に顔を上げるように促した。
 「それにしても―」
 長瀬老人が再び笑った。綾香は両腕をその背中でしっかり折り畳まれて身動きが取れないでいる。―軍隊式だと男は思った。
 「―立派なたてがみをお持ちだ。封拳様はまだお元気でいらっしゃいますか?」
 やはり思った通り先代の知人らしい。しかし―
 「いえ封拳は―師は二年前に亡くなりました。跡目は私が…」
 「そうですか…」
 「ちょっと、放しなさいよ長瀬っ!」
 もう何もかもが面白くない綾香は必死に長瀬に食ってかかったが、当の執事長は、いつものこととばかりに平穏そのものだった。
 「若い頃、封拳様には何度も稽古を付けてもらいました。機会があればぜひ墓参(ぼさん)でもさせて頂きたいものです。ですが今日はこれにて…」
 言うや、長瀬は綾香の腕を極めたまま、強引に頭を下げさせた。
 「それでは失礼致します。大変お騒がせ致しました。では―」
 そして長瀬老人は綾香の関節を制御して半ば強引に歩かせ、引きずるように石段を下りていった。
 「ちょ、ちょっと、放しなさい長瀬っ! ちょっと! —覚えてらっしゃい!!」
 「………………」
 何て古典的な捨てゼリフ…とか思いながら、男は老人に引きずられていく綾香を見送った。
 お付きの少女がその後に続いて石段を下りる―と、こちらをくるりと振り向いて一礼した。オレンジの髪がさらさらと流れ落ちる。そして、石段の下へと足早に姿を消した。
 「ふむ。礼儀正しくてよろしい」
 少し微笑んで、男はオレンジの頭が段々見えなくなるのを眺めていた。やっぱり勘違いではなく足音は相当重い。鉄で出来ているのだろうか?
 「ふう……。結局何だったんだ?」
 まことにもっともな疑問を残し、こうして嵐は過ぎ去った。
 そうそう、と男が思い出したように振り返った。
 そこには体操服姿の葵が、靴を脱いで箸箱と手鏡を持って呆然と突っ立っていた。
 「…何やってんの?」
 「分かりません〜」
 「……………」
 そして葵は、今日家に帰ったらきっと、いざという時パニックにならないように、しっかりと非常持ち出し袋を用意しようと固く決意した。

   2

 「あの人が綾香さんです。色んな雑誌とかにも出てて、結構有名ですよ」
 ようやく平静を取り戻した葵は本堂の階段に腰掛けて、ちょっとした優越感を感じていた。先生の知らないことを自分が知っているというのは、ひょっとしたら初めてかも知れない。
 「…ふむ、言われてみれば知ってるような気もする。まぁとりあえず、大層な蹴りではあった。迅えの何の」
 男の言葉を受けて、葵がなぜか自慢げに頷いた。その目にいっぱいの星がキラキラと輝いている。
 「はい! 私、あんな凄いキック初めて見ました。とっても―キレイでした」
 「うん。流れるような重心移動、軸足のバランス、腰の回転、上半身の制御。―全部パーフェクトだった」
 男は石段の方へ目をやった。視線の先で時間が巻き戻り、「激闘」を演じたその瞬間を再生する。
 ―久しぶりに本物のムエタイを見た。あの長い脚が十分にしなって体に巻き付くように蹴ってくるのだ、当たれば只では済まないだろう。そしてあの迅さと巧さ―あれではそうそう避けきれる奴もいるとは思えない…。なるほど、綾香が秒殺の山を築いているというのも頷ける。
 ―心残りはパンツが見えなかったことくらいか…。
 最初から戦うつもりで来たのだろう。しっかりミニスカートの下にショートスパッツを穿いていた。全くガッカリさせる話だ。
 「先生―」
 「ん?」
 心地よい沈黙を破り、葵が物思いに耽る男に呼びかけた。返事を返し、顔を向ける。
 「―どうでした坂下先輩は?」
 「ああ―」
 今しがたの嵐の激しさに、先輩のことはすっかり忘れていた。その実力に差が無くとも二人を比べると、やはりインパクトの点で坂下先輩の印象は灰色に沈んでしまう。
 かちり、と男の頭が切り替わった。ムエタイの記憶から空手の記憶へ。
 「―いい空手家だった。動きは速いし技も切れる。その上クレバーで純粋で…」
 「……………」
 大した誉めようだと思った。対戦相手をそんなに誉められるとこっちの立場がない。
 「でも、空手の弱点までしっかり身に付いちゃってた」
 「え?」
 葵のイメージでは、坂下先輩は完全無欠の空手家だった。なのに…弱点?
 急に背筋を伸ばして目を丸くした葵に、男が笑顔を向けた。
 「うん。全部の空手がそうなのかは知らないけど、一つ一つの動きが区切られちゃってて固いんだよ。だから凄く動きが読みやすい。あとまっすぐ最短距離で進むフットワークもどうかと思うしね」
 「はあ…」
 よく分からなかった。坂下先輩のコンビネーションと言えばそれはそれは見事で、とても区切りがあるようには思えない。
 「―空手ってそうなのかな? 攻撃とか防御とかが一つの独立した動きなのね。それじゃだめだと思うわけよ。移動、攻撃、防御は三つで一つのもの、切り離して考えるべきじゃない。大体全部、重心移動の一形態でしかないわけだし…特別な一つのものと考えるのはどうかと」
 「……………」
 考えてみる。
 ―移動すると確かに重心が動く。
 ―攻撃は、重心を上手く移動して体重が乗せられれば威力が増す。
 ―防御はどっしりと重心を落とすのが基本だ。
と、フル回転していた葵の頭が、そこまで考えてはたと気付いた。
 つまり、その三つの要素を滑らかに連続できればいいということだ。なら、一番大事なのはその重心を支える―膝の力だ!
 ―大事なのは膝の力。
 そう言えば先生は何度もそう言っていた。ようやく、今その理由が理解できた。
 「だから―分かる?」
 「えっ?」
 男の声に、はっと我に返る。
 「坂下先輩、と言うか純空手の人には勝てるって俺が言ってた意味」
 「……………」
 そうだ。先生は「勝ち方がある」とも言っていた。それはつまり―
 「―カウンター、ですか?」
 「そ、正解。相手の攻撃は攻撃で終わる、そこにカウンターを合わせる。連続攻撃にしたって連続攻撃って言う名前の一つの攻撃に過ぎないわけだし。しっかり区切れるのを予想してそこに合わせりゃ、多分面白いように当たると思うなー」
 「……は…、はぁ…」
 口ではそう言うものの、実際に納得できるかと言えば疑問だった。やはり、あの坂下先輩に(綾香さん以外の)弱点があるだなんて…。
 「ピンと来ない?」
 先生はすぐにこっちの考えていることを読んで、適切に言葉を継いでくれる。それは、あれこれ質問したりするのが苦手な自分にとっては助かった。
 葵は小さく首を横に振った。しかし、男はその動きではなく目の表情に応えを読み取った。
 「―いいよ。それも別に理解する必要はないから。でも知ってさえおけば、必ず役に立つときが来る」
 よっ、と男が立ち上がった。
 「さて、やろうか」
 「はい!」
 そして葵も立ち上がり、いつもの立ち位置まで進んだ。―構える。そして感じた違和感に少し戸惑った。
 (―えっ?)
 軽い。体が羽根のように軽い。
 まるで上半身の重さを感じない。不思議なくらいに体が軽い。
 ぽよんぽよんと、膝のクッションの感触を確かめてみる。―凄いばね。何だか三メートルくらい跳び上がれそうな気すらする。
 ―昨日とは明らかに何かが違う。
 筋肉が付くときも、確かこんな風にある日突然筋肉痛が消えて動きがスムースになるが…。と言うことは、自分の体のどこかに必要な筋肉ができあがったと言うことだろうか…?
 これが、先生の言っていた「筋肉の付け換え」なのかも知れない。
 それに、今日は出された「宿題」をやって来ている。先生に勝つ方法を、模索してきている。
 考えがあり、そしてその通りに動いてくれる体が今やある。
 ―いけるかもです!
 そう思える自信も、葵の得た大きな成果だった。
 「―行きます!」
 「おう」
 そして男も構えた。しかし葵にもう待つ気はなかった。待っても勝てなかったんだから、それなら攻めた方がマシだ。
 ―突っ込んだ。一気に間合いを詰める。
 (軽い。大丈夫! できる!!)
 そして間合いに入った瞬間右足でステップして真横に跳ぶ!
 着地。そして右足を踏み込む。
 ピュン!
 風を切る左ストレート。拳を回転させ、正確に目標へ捻り込む―。
 (―やるようになった!)
 見切る。葵の拳が男の髪を巻き込んで抜けていく。左足を滑らせ、右脇へ鉤拳を打つ。
 くんっ、と葵の肘が下がった。
 (なにっ!?)
 同時に膝が上がり、男の拳を弾く。そして予想通りガードが下がっている左頬へ渾身の右フックを―
 ガッ!
 「あっ!」
 突如、葵がガクンとバランスを崩した。右膝への前蹴り。しかし咄嗟に出したのか、男も思わず後ろによろけた。
 (今です!)
 必死に体勢を立て直した葵は、しかし予想外に早く眼前に迫った男の右手を避けることが出来なかった。結局、分かっていて体(たい)を崩した方が復帰も早いと言うことか…。
 がし!
 「あううぅ…」
 そして葵は顔を掴まれた。そのままキリキリとこめかみに指が食い込んでくる。
 「ぬおおぉぉ…」
 男が更に手に力を込めた。加えて、体重を掛けて押し込んでくる。
 必死でその手を外そうともがきながらも、葵の体は徐々に後ろへとブリッジするように傾いていった。
 ぱんぱんぱん…と、そこでとうとうタップ。この瞬間、恐らく葵は初めてアイアンクローで負けたバーリトゥーダーとなった。
 どさ
 「あうぅ…痛いです〜」
 地面に倒れたまま、葵が両手でこめかみを押さえている。苦笑いしているのは、余りの格好悪さからだろう。
 はーっ、と男が息を吐いた。途端に全身の筋肉が弛緩し、それにつれて表情も緩む。
 ―正直驚いた。今日がレベルアップの日か…?
 その日が突然来ることを、男は経験で知っている。しかしそれならそうと言っておいてくれないと…。危うくいいのをもらうところだった。
 ―空手の左順突きからムエタイ式のブロック、そしてボクシング流の右フック。見事にその体の中で、いくつもの流派が融和していた。
 見ることは大事だ。
 小さな頃から、二人の先輩の凄い技の応酬を熱心に見てきているのだ。自然と技が体の中に残っていても、何ら不思議なことではない。
 男が手を差し出した。葵は既に悶絶してはおらず、大の字になって紫に沈み始める夕空と笑い合っていた。
 とても満足げなその表情….完敗してその顔なのだ。きっと思った通りの動きが出来たのだろう。と、言う事は…やはり左頬のガードが下がるのには気付いていたのだろう。もちろん、それはそこに攻撃を誘うためにわざとやっていたことなのだが、それにしても大した観察眼だった。これなら「見取り稽古」も出来るかも知れない。
 「よいしょっ」
 葵が腹筋で上体を起こし、両手で男の手を握った。よっ、と男がそのまま葵を引っ張り起こす。
 はあっ、と葵が笑っている。誉められたい犬みたいに。
 「上手くなったな。びっくりした。今のは本当にびっくりした」
 「よかったです。やっと、誉めてもらえました」
 今までも誉めていたとは思うが、まぁ、技について誉めたのは初めてかも知れない。
 「うん、危なかった。あれが下段突きとかなら当たってただろうな。もっと攻撃は立体的に出していかなきゃ。上と下、右と左って」
 「はい!」
 「あと、攻撃と防御が一緒に出せたのがよかった。 あとは、同時にいくつかの攻撃が出せれば尚よかったかな? 防御してすぐに左の中段とかいけたでしょ? そしたら右フックと左下段で立体的にも打てた。何にせよ、単発では当たんないよ」
 言って、男は困った顔になった。そして苦笑。
 「でもなー、かといって手数の問題じゃないんだよなー」
 「精度、ですね」
 「うん、そう」
 葵は男の言葉を思い出した。パワーより精度を―。
 「ただ、その本命の一発を当てるために、山ほどのフェイントはいるんだよなー。狙ったってお互い動いてるとそうそう当たるもんじゃないしね」
 「分かります」
 確かに分かる。特に、動きの速い相手にはなかなか当てることすら出来ない。―綾香さんとか、坂下先輩とか…。
 「まぁ、難しいよ。その時その時の状況にもよるしね」
 葵が納得顔で頷いた。だから、どんな状況になっても対応出来るようになるまで、繰り返し練習するのだ。
 「あの…」
 初めてだった。自分から言い出すのは。でも、今日なら出来るような気がする。
 「ん?」
 「もう一本、お願いします!」
 何かを掴みかけている。今日このまま終わってしまうのはもったいない。暗くなりかけているけれど、何かを突き抜けるために!
 「―OK、いいよ」
 そして二人はまた歩いて距離を取り、対峙した。構える。
 「……………」
 明らかに、今までとは男の雰囲気が違った。鋭く全てを見通すような視線、叩き付けるような威圧感。それでいて敵意や殺気のようなものは殆ど感じさせなかった。思わず、こっちが動きを止めてしまうような自然さだ。
 ―遂にその気になったのだ。その気にさせたのだ。教える、ではなく戦う気に。
 睨み合う。全身に等しく意識を注ぎ、その鼓動までもを感じ取ろうとする。
 「―行きます」
 緊張のため乾き、しわがれた声―。
 全身を巡る血が熱を帯び、筋肉に力を蓄え続ける。
 と、すーっと男の気配が引いた。冷酷さがその目から消え去り、ただ冷静な本能だけが表情に表れていた。
 今までも、先生のことを死神だと思ったことはあった。でも、そこにいるのは今や死神なんかではなかった。美しい―獣だった。
 体が小刻みに震え出す。しかし不思議と恐怖心はなかった。むしろこれから起こるであろう出来事を楽しみに待つような、そんな気持ちだった。 
 ゆらり…と、男が動いた。そして一気に加速。―迅い!
 もしかしたら長い睨み合いになるかも知れないとも思っていたが、しかし葵は冷静だった。―見える。相手の全てが認識できる。
 ―風が迫る。
 あっさり入らせるわけにはいかない。葵は前蹴りを出して距離を保とうとした。
 風が巻いた。
 踏み込んだ右足を軸に、突然回転して蹴りをかわし、そしてこめかみに左肘を突き立てる。
 咄嗟に顔を逸らせて肘を避ける。そこへ首を折るような右鉤拳が迫った。それを左腕で防御。続けて放たれた右ローキックも攻撃された脚を持ち上げてブロックする。
 ―受け切った!
 それだけでまるで勝利したかのように、葵の体に感激が沸き立った。
 しかし攻撃は終わっていなかった。
 男はローキックを戻すや、その足で地面を蹴って―前転した!
 予想もしなかったその動き―
 (―あ、浴びせ蹴り!?)
 思って防御した瞬間、男の背中が逆さまに葵に激突した。
 「あっ!」
 絡み合って、どさりと落ちる二人。
 ―まだまだです!
 遮二無二立ち上がる葵。が、遅い!
 立ち上がるのに合わせて男の前蹴りが迫る。
 「くっ…!」
 それを必死に下がって避ける。はっと顔を上げる。
 ―ズシン!
 「!!」
 十分に踏み込んだ男が、胸を反らせて両手を高々と上げていた。そして全身のばねをも使って一気に打ち下ろす。
 それは死神の鎌か、それとも―
 ドスッ!
 「ぐぅっ!!」
 男の両手が、葵の胸に打ち付けられた。重さに、葵の膝が崩れる。衝撃が脊椎を揺るがす。目の前から色彩が消えていく…。
 「くっ!」
 しかし葵は、歯を食い縛って目をきつく瞑(つむ)り、胸を押さえて必死に跳び退った。
 ―逃げなきゃ!
 けれども、着地した足はもう葵を支えてはくれなかった。
 踏鞴(たたら)を踏み、遂に尻餅を付く葵。何とか細く開いた目に、高々と飛び掛かる男の姿が映る。
 そしてこの高さから足なり膝なりを落とされたらもう終わりだと、瞬時に葵は理解した。
 ゆっくりと倒れゆく葵。もう、体は動かない。戦って死ねることが唯一の救いと覚悟を決めた。
 ズシンッ…!
 一瞬地面が轟き、葵の背中に衝撃が走った。
 「……………」
 時が止まった。
 いつまで待っても葵の最期の瞬間は訪れなかった。
 ゆっくりと目を開く葵。その光景に、覚悟から希望へと瞳の色が変化する。
 男の右足が、仰向けの喉すれすれに突き立っていた。膝に両手を添え、全体重をもその足に込めている。
 「―飛騨大岡流〈震天〉。倒れた相手の喉を踏み折る技だ」
 そして男がふぅと息を吐いた。体を立て、右足を地面から引っこ抜く。
 葵も後ろに両手を着いて上体を起こした。もう、息も絶え絶えだった。
 「うぅ…」
 胸を押さえて立ち上がる。ひどく胸が痛む。骨までいっている感じではないが、まだ両胸に杭でも打ち込まれたかのように鈍痛が全身に響く。
 「〈虎撲〉をまともに喰らってそれでも逃げたのには驚いた。大した根性だ」
 そんな…、と葵が少し顔を伏せた。
 「結局やられちゃったら同じです。やっぱり―肝心なところで下見ちゃいました」
 はは、と力無く笑う。
 「そだね。でも、それはもう経験だから…。それより大丈夫?」
 手加減しなかった。一連の流れの中で、そんなことをしている余裕はなかったのだ。
 「とっても痛いです。おっぱいもげちゃうかと思いました」
 「……………」
 どう返したものか困り、男はとりあえず笑った。もげるようなものないだろうに、とは言わなかった。
 もしかしたら、もう一度もげたあとかも知れなかったが…。


 痛みに顔をしかめ、そろそろと体操服を脱ぐ。
 「うわぁ…」
 思わず、驚嘆の声が口を突いた。
 真っ赤に腫れた胸元に、青黒い手形がくっきりと二つ付いていた。しかしその手形は、自分の成長の証そのものだと思った。
 ―圧倒的な力の差だった、当たり前の事だけれども。でも…先生は本気だった。綾香さんを前にしても、あんなには本気じゃなかった。それに―
 それに、見えたのだ。初めて出会った時為す術もなく倒された、あの竜巻のような連撃、それが―見えた! その上全て受け切った。体が、自分の意志以上の動きをしてくれた。
 それは、かつて無いほどの自信を葵に与えてくれる。
 制服に首を通す。そして、胸に触れないように静かに袖を通した。
 ズキズキと、痛みはまだ規則的に襲いかかってくる。
 けれど自分は、この痛みを一生忘れないだろう。
 そしてこの痛みを負ったこの日も―。
 今日が変われた日だ。
 —狼に。

   3

 坂下先輩との再戦の日まで、既にあと二日となっていた。
 しかし先生は特別なことは一切せず、結局昨日もいつもと同じように、基本的な歩法や打法の練習をしていただけだった。
 最初に「教えない」とは確かに言っていた。けれど、ここまで来て本当に何も教えないこともないと思う。それにいつも自分も同じ事をしているだけで、一向に技も盗ませてはくれなかった。
 ―何日か前いつもと同じように神社に来ると、じっと座って目を閉じていることの多い先生が、その日に限って息を荒くしていたことがあった。
 ―時折練習してるに違いない。自分の来る前にこっそりと。 
 そう思った葵は、その日授業が終わるなり教室を飛び出し、大急ぎで神社へ直行した。そして石段を三段とばしで駆け上がり、途中で鎮守の森へ足を踏み入れる。森の中をそろりそろりと移動し、本堂の裏へ辿り着く。そしてこっそり表を覗き込んだ。
 (―?)
 一瞬、神主さんかと思った。
 白い上着に紺色の袴を着け、腰には派手な紅白の帯を締めている。
 人影はじっと俯いて目を閉じ、一心に何かに集中していた。
 (あ…)
 葵はすぐに、それが自分の先生だと気付いた。長い髪は束ねず、背中に流れるがままになっている。
 ―正装…?
 それが流派の正装だと言うことを、そう言えば前に葵は聞いていた。白衣紺袴に、位を示す「飾り帯」。そして紅白の帯は最高位を示すのだ、とも…。
 思いの他和服の似合う人だった。先輩もそうだが、求道者にはどこかお侍のような雰囲気がある。
 すっ、と音もなく右足が引かれ、するりと腰が落ちた。微動だにしない綺麗な構え。―完璧な構えは完璧な盾になりうる、と先生は言っていた。
 ―動いた。
 黒い髪が波のように靡き、そして男は力強く舞い始めた。
 足を踏みしめる音と打撃の切る風の音だけが、辺りを満たしていた。
 肘が風を裂き、拳が空を砕いた。
 ドシン!
 ビュッ!
 そして大きく踏み込み、見えない壁を打ち砕くような渾身の力を込めた双手突きを出した。続けて後ろを―
 目を閉じたまま、男は次々と見えない相手を四方八方へ弾き飛ばしていく。
 型はない、と先生は言っていた。一撃で勝負が決するのに型はそもそも必要ないのだ、と。
 だとすれば、閉じた瞼の裏に、幾人もの襲い来る敵が見えているのだろう。
 全ての動きが、途切れることなく紡ぎ出されていく―。それは、全ての動きを完全に自分のものに出来て初めて可能となることだ。それが出来るのなら、確かに型は必要ない。
 技の一つ一つが、輝きを放つような眩しさだった。
 そこに無駄な動きは一切無かった。
 無駄な感情も一切無く、全ての欲望を断ち切ったその先に、男は舞い踊っていた。
 じわ…と葵の目に涙が滲んできた。
 ―何て気高く誇り高い姿なんだろう…。
 一切の飾りを廃した、ただひたすら中身だけの存在が、そこにはいた。目を閉じてたてがみを靡かせ、まるで自分自身に向かい続ける聖者のような…。
 ―こんな風になりたい。こんな風に…美しい獣になりたい。
 葵の頬に涙が伝った。熱く、何かを決意させる…。
 ―もう、強くなるなんてどうでもいい。そんなのは些細なことだ。この光景を見た今ならそう思える。
 上手くなりたい。
 ―優れた武術は、その動きの中に宇宙の法則を表しているという。
 宇宙を表現できるほど、そのことで人の心を動かせるほど、上手くなりたい。
 この人のように。
 この、心に獣を秘める美しい人のように…。
 「ふえぇぇ…」
 葵は声を上げて泣いた。あふれる感情の奔流に押し流されるままに。
 こっそり見ていたのを気付かれるかも知れなかったが、もう、堪えきれなかった。
 ―もちろん男は知っていた。初めから葵が見ていたことを。
 だから、大事な宝物のような技の数々を見せたのだ。大切な弟子に、それらを伝えるために…。
 それが「愛する」弟子に遺してやれる唯一のものなのだから。

   4

 葵は今日も神社へ来た。
 明日は来なくていいからゆっくり休めと先生に言われたが、結局来てしまった。
 しかし―静かだった。猫の子一匹いないようだった。風もなく、ただ陽射しと静寂だけが辺りに降り注いでいた。
 何となく予想はしていたが、やっぱり先生はいなかった。今日はもう来ないだろう。多分―明日も、あさっても。
 と、葵はいつも座って話を聞いていた階段の所に、何かが置かれているのに気が付いた。
 ?
 疑問を晴らすべく近付く。はっきり言ってこんな所他に誰も来ないのだ。と、言うことは―。
 きれいに畳んだ服? の上に、赤い帯と四つ折りの和紙が置いてあった。和紙の上には、飛ばないようにか丸い石が乗せてある。
 紙を手に取った。広げてみる。と、そこにはそう上手でない毛筆の文字が並んでいた。
 目にした途端、葵の目に涙が溢れた。
 『松原葵殿
 右に、飛騨大岡流体術切紙の位を与え、これを認ずる』
 そして宗主の―先生の署名と大きな流派のはんこが押してあった。
 ―認められたのだ。
 何をやってもだめだった自分が。
 あの、非力で気弱だった自分が、たったの一月で「最強の系譜」に名を連ねることを許されたのだ。
 嬉しかった。
 これで―ずっとあの人を追い続けることが出来る。
 「ありがとうございました!」
 今はもういない師に、葵は深々と頭を下げた。


 「あ、そだ…」
 おもむろに葵が、ごそごそとカバンを探りだした。
 そうは言ってもやはり明日のアドバイスは欲しいし、何より直接お礼を言いたい。
 「あった」
 そして携帯電話を取り出し、ぴこぴことコール。
 男は何かあった時のためにと、自分の電話番号を教えていた。
 ぷるるるるる…
 格好良く去った割には、今ひとつ詰めの甘いことであった。

   5

 結局、試合は前回と同じく緑葉高校の体育館で行われることとなった。前回と同じ条件でこその再試合、との先輩の配慮であったが、それを葵が知る由はない。
 そんな訳だったので、ルールその他も前回と同じだった。試合はエクストリームルールで行なわれ、ただ、主審が綾香でないことだけが前回と違っていた。
 その綾香は独り腕を組んで壁にもたれかかり、厳しい表情を青畳の上にじっと向けていた。
 坂下先輩はお付きの二人に守られるように行儀よく椅子に座り、静かに時がくるのを待っていた。その鋭い視線の先には、一人切りで、しかし悠然と構える葵がいる。
 「―前へ!」
 エクストリームの公式レフェリーが、二人に準備を促した。空手着の坂下と体操服の葵が同時に立ち上がり、ゆっくりと前へ進み出た。
 ザワ…と、前回よりも格段に減った観客が、その姿を目にして一斉にざわめいた。
 葵は体操服の上に帯を締めていた。流派での位である「切紙」を示す、赤い「飾り帯」を。
 (人が何を思おうと、私は大岡流の拳士ですから…)
 泰然自若。葵の心には、今や一点の曇りもなかった。迷いもなく、怖れもない。あまつさえ、淡く微笑すら浮かべている。
 (―これでいいんですよね、先生)
 ふ…と、葵の目の前に男の姿が浮かんだ。葵のイメージの中の師は袴を着け、なぜか葵の赤いグローブを着けている。
 男が振り向いた。自信に満ちたその微笑み―。
 (うん。怖がらないで、体の好きなようにさせてやんな。その体には偉大な流派が流れている。何も怖れるものはない)
 「はい…」
 葵は小さくうそぶいた。
 (心配しなくていい。先輩はきっと分かってくれるよ…。だから、怖がらないで心の中の獣を―狼を解放しておやり―)
 「はい」
 葵がうなじに手をやった。そして服の中に隠していた長い付け髪の一房を、ぱらりと背中で自由にした。―たてがみのない狼なんて半人前なのだ。せめてポーズだけでも一人前でいたいではないか。
 「……………」
 坂下先輩はじっと黙ってこちらを睨んでいる。―恐い恐い。
 「始め!」
 坂下が両手を胸の辺りに構え、ステップを踏んだ。
 すっと葵は腰を落とし、構えた。
 坂下は目を瞠った。
 微動だにせず笑みすら浮かべるその姿―。その迷いのなさは、或いは神聖なものすら感じさせる。
 「く……っ」
 坂下が思わず呻きを漏らした。前に、この目は見たことがあった。 
 ヒュッ
 しかし一瞬で気を取り直し、短く気を吐いて体を引き締める。そして一気に行く!
 「!」
急ブレーキ。咄嗟に横に飛び退(の)く。
 葵は全く動かない。しかし、一瞬その体から爆発的に威圧感が噴き出した。
 坂下の体に戦慄が走る。
 呼吸が荒くなり、背中を嫌な汗が伝った。
 近付けない。
 ―葵が目を閉じた。途端にその存在感が坂下に覆い被さってくる。
 「くう…っ」
 苦しい息を吐く。こんなことは初めてだった。本能が、危険だと警告を発しているかのようだ。
 ―ゆっくり目を開いた。そして、空気の流れるように動いた。
 一瞬で空いた間合いを滑り、そして頭を下げる―。
 「くっ!」
 坂下も咄嗟に右正拳を出して接近を防ぐ。
 が、葵はその下に流れるように潜り込み、そして坂下の体に肉薄した。
 坂下の表情が驚愕に凍り付く。
 葵が顔を上げた。そして―笑った。
 瞬間、坂下の背筋をゾクッと悪寒が這い上がった。
 限りなく冷たいその笑み。無慈悲で、冷酷な凍えるような紫の炎が、その瞳の奥にチロチロと揺れていた。
 ―この目! 葵―あなたは!!
 ドォン!
 踏み込みが、畳を貫いて建物全体を揺るがした。
 松原葵の全人格を込めたその一撃―。
 ―先生…。
 そして拳が唸りを上げる。


                《End…?》