うんと若かった二十歳代のとき、私は一時期、もう一人の同僚(女性)とともに、
家から離れて仕事で地方へ行っていました。
夜になって電気を消すと漆黒の闇になるような場所に事務所はありました。
そこに、一匹の犬が住みついていました。
ごく普通の柴犬の雑種という感じの犬でした。
飼い主とは言えないまでも、飼育担当みたいな人がいたようでしたが、
現場の人たちが残飯で餌をやっているだけの野良犬のような雰囲気でした。
人が近づくとコソコソと事務所の床下に逃げ込み、顔先だけを床下から出して、
人から顔を背けて、唇をめくり上がらせ歯をむき出して威嚇する、
そのときの目は上目使いで「誰も信用できない!」って言っていました。
それまで、野良犬ともたくさん出会いましたが、
そんなにも人を恐れ、人を信用していない犬を見るのは初めての経験でした。
これが、私がマツと最初に会ったときの出会いの姿でした。
誰にも愛されていない、ただ餌をもらうだけの関係でそこにいる犬の姿でした。
きっと、それまで人から追い立てられ続けて生きてきたのでしょう。
そこで働くことになってから、毎日、私たちとマツとの交流が始まりました。
「咬みつかれるから危ない」と周りの人たちは心配しましたが
そのままにしていることはできません。マツと名づけたのも私たちでした。
「マツ、おはよう! マツ、ご飯だよ〜。 マツ、マツ〜、おいで〜」
「マツ、いい子だね〜〜 マツ、出ておいで〜 マツ、マツ、また明日ね」
でも、私たちがそこで働くのは数ヶ月間だけの予定でしたので、私は悩みました。
「マツが心を開いてくれて、私たちを信頼してくれたあと、
私たちはマツを裏切ることになりはしないか」
信じたあとに別れが来ること、マツに私たちの事情など分かるはずがありません。
さよならした後のマツの気持ちを想うと、
帰ってきてくれるのを待っていてくれるかもしれないマツの気持ちを想像すると切なく
「無責任な可愛がりはマツを不幸にするのではないだろうか」
「マツの信頼を裏切るくらいなら、仲良くしないほうがマツのためかもしれない」
でも、でも、人を信じないまま、人から疎まれ続けてきたマツ
あなたは一人ぼっちじゃないよ。
人を信じることの幸せを教えてあげたい。
だから私は決心をしました。 「マツと友達になる!」
でも、誰にも触らせないマツ 人が来ると床下に逃げ込む
餌もコソコソと食べる 嫌いな人には噛み付く
でも一応は事務所で面倒をみている犬
私の日課が始まりました。
「マツ、おはよ〜〜 マツ〜 マツ〜 おいで〜 今日は美味しいおやつあげるよ〜」
「マツ、出ておいでよ、大丈夫だよ。おやつ、ここに置いとくからね、わかった〜?」
「マツ、今日はね、そばに来てご覧、ほら、いい物あるよ、見える?」
「マツ、出てきてよ、こっちまでおいで、ほ〜らね、だいじょうぶだったでしょ〜」
「マツ、じっとしててあげるからね、そーーっと私の匂いかいでご覧ね、
大丈夫でしょ、良い子だね〜」
「マツ、今日は手から食べてみる? じっとしててあげるよ、びっくりさせないから、
ほらね〜 大丈夫でしょ〜」
「マツ 元気かな〜 マツね、もう分かったでしょ 怖くないんだよ 良い子だよね〜」
「マツ、今日はちょっと触ってもいいかな? うんうん、そうだよ、良い子」
「マツ、おいで〜おやつだよ〜 撫でてあげるね うんうん、気もち良いよね」
「マツ、おはよ〜〜 うわ〜元気いっぱいだね〜 そうそう良い子だね〜」
何日間かかったでしょうか。
とうとうマツと触れ合うことが出来ました。
白目で上目使いで、歯をむき出し唸っていた子はもういません。
そっと撫でると目を細める、良い子よ、良い子。
それからは、昼間のマツの居場所は、私たちのデスクのある部屋の中
足もとで寝そべって日長すごすようになりました。
二週間に一度帰宅できましたので、マツへのお土産にブラシや蚤取り、
可愛い首輪を買って持っていくことが楽しみの一つとなりました。
ブラッシングなんてしてもらったことなかったでしょうね。
体中にコロコロしたダニがたくさん。
犬用のダニ・ノミ避け粉なるものを降り掛けて退治するほかありませんでした。
汚れた首輪も取り替えようね。
女の子だから、赤が可愛いよね。
あんなに怖い形相だったマツが、優しい目つきでブラッシング中にウトウトするんですよ。
上目使いに目を細め、白目を剥くようにして、
「絶対に信用できない、来ないで!」って言ってたマツ。
マツ、本当に人間が怖かったんだね。
それまで、どんな怖い思いをしてきたのか。
でも、犬って、どんな犬でも、人との触れ合いを求めているんですね。
マツも心を許してくれました。
マツと仲良くなってから次第にマツのお腹が膨らみ始めました。
お腹に赤ちゃんが出来ていたのでした。
出産間際になって、床下で子犬が産まれては困るという理由からでしょう、
ある日、私が出勤するとそれまで自由に暮らしていたマツは鎖で繋がれていました。
ボロボロの古びた大きな木箱をひっくり返して、それが急ごしらえの犬小屋となっていました。
もっとちゃんと雨風がしのげるようにして欲しいなあ。
もっと清潔なところに繋いでほしいなあ。
いろいろと私なりに思いましたが、本来世話をしているのは私ではありません。
せめても、と、機械の掃除に使ったりするウェス(ボロ布)を分けてもらって、小屋の中に敷いてやりました。
そして、マツは数匹の子犬を産みました。
出産のときはちょうど帰宅している日だったので、本当に何匹産んだのか定かではありません。
事務所に帰ってきたら「産まれたよ」と聞きました。
でも、残されていた子犬は一匹だけ。
あとは全部山の中に捨ててきたという話でした。
私たちは、「・・・・・・・・・・」言葉もありませんでしたが、当時のことです。
不要な子犬は山に捨てるか、川に流すか、だったのでしょうか。
犬小屋の周りを見てみたら、死んだ子犬が転がっていました。
出産時に亡くなった子犬のようでした。
なぜか、ネズミの死骸も一緒に転がっていました。
一人で頑張ったんだなあ、壮絶な思いで産んだんだろうなあ、こんな所で。
子犬が一匹だけで、マツのオッパイはパンパンに腫れていました。
全くご飯も食べずに、一週間ほど小屋に篭もりっぱなしで、たいへん心配しました。
鎖はすでに解かれているにもかかわらず、呼んでも全く出てきません。
具合が悪いの? オッパイ痛いの?
ずっと奥の方にいて、様子が分かりません。
不潔な場所でしたから、産後の感染症も心配でした。
でも、マツは復活しました。ある日、私たちの目の前で、
突然小屋から飛び出してそこらじゅうを走り回ったのです。
マツの嬉しそうな顔、走っているときの得意そうな顔、ニコニコしながら体をくねらせ
尻尾をブンブン振り回して、私たちに挨拶しにきてくれました。
「きゃ〜、マツ、久しぶり〜 元気になって嬉しいよ〜」
私たちは仕事をほっぽり出して、外でマツと一緒に追いかけっこになりました。
遊んで遊んで、笑って笑って・・・・・・・マツと出会って一番楽しかったひと時。
・・・・でも、やっぱり別れはやってきました。
産後、わずかに二週間のことでした。
「マツ、元気でね。マツ、可愛がってもらうんだよ。マツ、さようなら」
今の私だったら、連れて帰ってきたと思いますが、当時の私にはできなかった。
それまでどおりに、そこの事務所に任せて帰るしかなかったのです。
子犬は飼ってくれる人が決まっていました。
真っ白な子犬でした。
飼い主さんも引き上げが決まって、一緒に連れて帰ることになりました。
マツ、ますます寂しいね。
本来の会社に戻ってからも、ときどき様子を聞いたり、ドッグフードを送ったりしていましたが、
そのうち現地の事務所の仕事も終了し解散したと聞きました。
マツはどうなったの?
誰か面倒みてくれてるの?
事務所が解散して、連絡が取れず、分かりません。
・・・・・・・そして、
「マツは車に撥ねられて死んだらしい」と聞かされました。
事務所が解散して、見捨てられたのでしょうか。
食べるものがなくなって、放浪に出たのでしょうか。
ごめんね、マツ
幸せにしてやれなかったね
私を含めて無責任な人間に翻弄された一生だったよね
でも一生懸命に生きたよね、マツ
ごめんね、マツ 本当にごめん、信頼を裏切って、、、、、
でも、ずーっと今まで、ずーっと忘れたことはなかったよ。
マツ、さようなら・・・・・・