隣人の犬


私がまだ十代だった頃の話です。

隣人が犬を連れて引っ越してきたました。
毛が短くてテリアの血が入っているような黒のブチの入った犬でした。
その日から犬と共に私の苦しみが始まったのです。

「こいつ、すし屋から貰ってきたんだけど、
寿司ネタで贅沢に育ったから、メシ食わねえんだよ」隣人はそう言って、
その犬に与えた餌は白飯に梅干、それが水浸しになっていました。

その犬は来た時からやせ細っていました。
夜になると切なそうに遠吠えをするのです。
もとの飼い主が恋しくてたまらないのでしょうか。

毎夜の遠吠えは次第に苦しそうな響きに変わっていきました。
ほんとうに苦しそうでどこか体の具合でも悪いのでしょうか。

そのうち「こらぁ、ウルサイ!」
「なんでメシ食わねえんだよー!」
と腹を立てた隣人が犬を殴るようになったのです。
もうすでに遠吠えにも元気がなく苦しそうに唸る日々でしたが
時々「キャンキャンキャ〜ン キャンキャンキャン ギャンギャンギャン」
と断末魔のように響き渡る悲鳴。
また殴ってる!
「ギャンギャン ギャギャ〜ン」「クゥクゥ〜〜 グゥ〜〜〜」

日に日に絶望的な悲痛な叫びへと変わっていく。

何とかしたい、何とかしたい、でもどうすれば・・・
いつか隣が留守のときにちゃんとご飯をあげよう。
いつか、いつか、いつか・・・・・と隣を窺う日々でしたが
隣家は昼も夜も留守になることはなかったのです。
隣は男ばかり数人の家族・・・私にとってはちょっと恐い雰囲気でした。

とうとうある日、私は夜こっそりとご飯をあげたのです。
こっそりのつもりだったのですが、犬は大喜びでガツガツとして
大騒ぎをして大きな音をたててしまいました。
そして「何やってんだ!」と隣人に見つかってしまい、
私は隠れ損ねて気まずい雰囲気になってしまいました。

ちゃんとご飯を食べられたのは、この時だけ。
「なぁーんで、オレのやるメシ食わねえんだよ!メシ食えよ!」
「キャンキャンキャ〜ン キャンキャンキャン」
とますます響き渡る悲鳴。殴ってる!
「ギャンギャンギャン ギャギャ〜ン」
私がかってにご飯をあげて、いい加減なことをしたばかりに
もっと苦しめることになってしまったと思いました。

私の心は地獄 「神様、どうかお助けください」
毎日、手を合わせて祈ることだけしかできなくなりました。

どうすればいいんだろう、どうすればいいんだろう、、、、、
どこにも相談するところ、助けを求めるところがなかったのです。
思い切って大人の人にこのことを相談したら、
「他人のことに口をはさんではいけない」と言われました。

ひたすら「神様、お願いします、助けてあげてください」
と、毎日毎日、祈リ続けました。

そして、もし留守のときがあったら鎖を外そうと決心していました。

犬は飼い主を選べない、自分で自分の人生を切り開く事が出来ない。
与えられたものの中でしか生きていけない。
すべては、どんな飼い主に巡り合うかで決まってしまう。

いくら不幸な人間がいたとしても、人には自分で努力して
人生を切り開き、変えていくことが出来る可能性があるけれど、、、、、。
鎖で繋がれた犬にとっては、与えられたそれがすべて。

その子は半径1mにもならない地面がすべて。
散歩に行くのを見たこともありませんでした。

鎖をはずしてあげたら遠くへお行きなさい。
逃げるんだよ。
こんな飼い主のもとにいるより、野良の方がまだましだよね。
きっと外しに行ってあげるからね。

「神様、どうか、私にチャンスをお与えください」

でも私の願いは虚しく、チャンスは訪れなかったのです。

ある日、その子を見たら、
その子にとって、生きていること自体がが地獄であると分かり、
それがヒシヒシと感じられ、胸が苦しくなりました。

「神様、お願いします。もう十分に苦しみました。
どうか安らかに休めるところに連れて行ってあげてください。
お願いします、もう苦しみから解放してあげてください。
天国へお連れ下さい、お願いします」
泣きながら祈りました。

そしてまさにその翌朝、その子にダンボールが被せてあって、
死んだことが分かりました。
「神様、ありがとうございます。感謝します。」
感謝しながら、私は罪の意識でいっぱいでした。

私はその子のために祈ったんじゃない。
自分が苦しみから逃れたいから祈ってたんじゃないか。
本当はどんなことをしてでも、体を張って助けるべきだったんだ。
それをせずに、「犬のために」なんて言葉は虚しいだけ。

骨に皮が貼りついてるだけの姿になって
ようやく苦しむことから逃れられました。
越してきてから1ヵ月か2ヶ月か、
その間、何も食べずに苦しみぬいて死んで行ったのです。
誰からも愛されることなく、心も体もとことん傷ついて逝きました。

積極的に助けようとしなかった自分への罪悪感と後悔ともに
思い出すたびに未だにとっても苦しいのです。
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