白銀岩においてイジヌンジラー、、、と言ったのは幸地腹の美殿か根人腹の馬子か

 

金城善氏によると、両者ともつじつまが合わないと言う。

1,幸地腹の美殿の場合
 この伝説は島津の琉球入り(1609年)の後のはずだから、美殿が壮年の時代
 は1570年頃となり、つじつまが合わない。
 (幸地腹の墓が造られたのは1684年で、その時の上原掟親雲上は美殿から
  5代目。1684−(46+23×4)+25=1571)

2,根人腹の馬子の場合
 島津藩内には児玉姓の廻船問屋は志布志の児玉家以外にはおらず、現在、同町
 には町文化指定財の児玉伝左衛門の墓があるが、この伝左衛門が当人だとすれ
 ば当人は1743年生まれであり、球陽の編集年1745年とつじつまが合わない。
 
 

 

この伝説が島津の琉球入り以降のものとされやすい背景
  

 

 

 

 

  ・大和の商人(特に薩摩の船頭)が頻繁に来琉できるようになったのは島津の琉球入り後。

 

  ・平民にまで多く流通するようになった琉球貨幣(鳩目銭)が鋳造されたのは1656年。

 

    ・白銀岩にて刀を抜いた者が薩摩人だとするならば、いざという際には那覇に設置された自藩
   奉行所の擁護が受けやすい。

 

 

 

 

 

幸地腹説が成立する背景としては、少なくとも次の2点が必要不可欠であろう

 

 

 

 ・美殿の壮年時代、倭人が商売(金貸し)のため来琉していたことは異例ではないこと。
 ・銀貨や銅銭貨幣が流通していたこと。

 

 

 

結論 : 幸地腹説は、次ページの年表に示した時代背景からして成立できよう。
     
     なお、根人腹説は、児玉左衛門との関係で、つじつまが合わないとされている、が、これ以外に看過できない視点がある。   それは馬子が活躍した時代のことである。  馬子は根人腹の2代目で、現世代から21代も先の人物である、とのことで、一方の幸地腹の美殿は現世代から16代先である。すなわち、馬子は美殿に比べ、相当の年輩である、と される点である。  

 

1456

 

この頃那覇では市場が開かれていて、明、南蛮、大和の商船が交易に来ていた。

 

1469

 

島津の印判を得た堺、博多、坊津などの商人が交易のため頻繁に来航するようになる

 

1470

 

多良間島で船旅から帰った按司が唐の長者から授かった言葉 「キムンディバ、 ティピキ、
ティンディバ、キムピキ」 のお陰で男装した妻らを殺さずにすんだという

 

1534

 

冊封使が渡航して来たが、王府は那覇に日本人がいた気まずさからその対応に遅れた

 

1546

 

この頃幸地美殿誕生

 

1570

 

この頃使用されていた貨幣は、中国貨幣(明銭、宋銭)、私鋳銭が主流

 

1609

 

島津の琉球入り

 

1613

 

島津の許可無き者の琉球への渡航禁止

 

1643

 

幕府私鋳銭を禁止

 

1656

 

鳩目銭鋳造される

 

1684

 

幸地腹門中墓創建

 

1689

 

王府に系図奉行設置 (越前、京都、熊野、薩摩、豊後、奈良の出身者あり)

 

1719

 

蔡温の案内で白銀岩を訪れた冊封使徐保光がこの2年後に中山伝信録を著す

 

1743

 

児玉伝左衛門誕生

 

1745

 

「球陽」にて、白銀岩由来記書かれる
(イジヌンジラー、、、の当人は幸地腹の美殿。 金貸した者は倭人)

 

1822

 

根人腹による白銀岩由来記書かれる
(イジヌンジラー、、、の当人は根人腹の馬子。 金貸した者は児玉左衛門、 金借りた者は首里人で、借金額は2千貫文)