蔦きうい歌集 地形シリーズ

 

みさきぼっち 2006.1『玲瓏』63号)

 

兄さんの下宿ちかくの駄菓子屋でふしぎな岬を買ってもらった

 

ママの目を盗んで育む青い月が岬にひらく あとは野となれ

 

日毎ママに小言を浴びて萎える「あの巨大な岬は燃えたままかな」

 

竜飛崎風にし紛うタケの声「修治よ人に好かれすぎるな」

 

国境で初霜の夢いわくつき岬をミラノで競り負けた夜

 

かの敵とうに喪いエイハブよ密なす未来に岬は見えぬ

 

シルバーが岬の墓に額づくわけたけにもわからぬ明日がある

 

ゴルゴダの丘から彼の目に映る岬にカミツレ祭の人の出

 

僧正が庫裏に遺したみさきの絵「()が名をなせども恨み申さじ」

 

晩年のバッハが岬で弾くセロ無為無為無為無為なさざる幸せ

 

峠抄 (2006.5『玲瓏』64号)

 

姉さんの婚家近くの文具屋でふしぎな峠を買ってもらった

 

峠ゆきバスを待ちつつあの家に残したものを想ってもみる

 

売られゆく女工の頬に木霊する雲という名のあわい瞬

 

高安へ生駒を越える業平の頚根をつかむ硝子の手首

 

ブレンネル象の背中で空の香を臭ぐあの雲のもと死地ローマ

 

「霧の先カイバル峠」標識に目を細めつつ首をふる釈迦

 

広重のふるえる指に匂いたつ峠の茶屋の奥の異星が

 

いくたびも重い峠を足裏に乗せてはかえし君と会いたい

 

妻に手を引かれて登る木曽駒の果ての峠に叙事詩がひとつ

 

あきらめて尚あきらめて生き残る星との距離を青い滴に

 

海の山脈 2003.1『玲瓏』54号)

 

炭鉱の裏手の丘に飼う海をある朝まだき虚空へ放つ

 

受け容れることもできずに走り去る波止場はるさき遥はつこい

 

巴里の市を不安に思うこころ一つジャンが持ち帰りし桜貝

 

ほうらうみがみいんなすすきになっちまってこわくてこわくてとてもおられぬ

 

ゆき逢うて何かつぶやく女生徒の笛・風・岬それも忘れき

 

叔母の手に引かれて帰る泣き虫の本所深川やみのさ櫓の音

 

止まり木や夜更けの底のセイラーの異国の小言を聴く鳩時計

 

釈迦背負う旅があるらし遠つクニに牛追う朝もベンガルの沖

 

はま茄子の繁る砂浜くもりぞら神の棺が打ち寄せられて

 

また夏が身に逼るのに逆らうてみるのも悔し片こいの歌

 

外寇をむかし防げり城塁に棲む紫陽花の葉陰の野ばら

 

横顔が「おれ」と「おまえ」を諦めて空とみずとを分かつはつなつ

 

夏に読む「泣きたいときは泣けぬもの」龍か春樹か微風やまざる

 

秋がくる頃がこわくて都ゆき汽車もろともに傾ぶく入り江

 

次の間にすえおく廣野おりおりはカヌーを借りて河口へゆこう

 

上海の古書店主から薔薇町へとどく栞に「書山不見人」

 

押入れに秘めつつ覗くあおい罪を小耳にとどむ午後は曳ふね

 

大時化の捕鯨船団つれづれにめくる花札座布団に蝶

 

かわたれと黄昏のまに横たわる洋き魔物を昼とし怖れき

 

海峡の金子みすずが独りごつ恨む科白は渦にまかれよ

 

つぎつぎと夜汽車で到着する人が春捨てるため補陀落はある

 

手枕に夢ばかり見る海原の明鏡止水月を狩る海人

 

師と別れ最上をおりぬその先に曾良が見上げる剛きシベリア

 

階を降りるしじまの暗がりや海を手づくる哀しい少年

 

この先はもういかれへん断崖に西方楽都に芙蓉朽ちたり

 

囲炉裏辺で安西冬衛に浸るころ木戸洩る夜が夢を掠める