朔太郎の「窓」
私の詩歌鑑賞法は、少し変わっていると思う。なるべく比喩とか象徴とかを排除する。ありのまま、言葉を立体に置き換える。詩人がリアリズムの方法を採っているかどうかに関係ない。私はリアリズムとして詩歌を読んできた。
逆にいうと、立体的な空間をよびおこさせるような詩歌がお気に入り、なんである。たから、空間そのものをテーマにした新古今和歌集は大好きである。なにしろ、私は師匠である塚本邦雄でさえリアリズムであると断言するほどの人間だ。
私は、昔から非常に生きにくさを感じてきた。だから詩歌の立体空間に逃避するのである。地理、といってもいい。地形、といってもいい。
では、今回テーマに選んだ「窓」は地形か。地形である。人工的な地形である。そして、重要だ。生死にも関係する。窓、といえば萩原朔太郎だ。朔太郎は窓の詩人である。だから今日は朔太郎の窓に逃避を決め込むことにする。まずは「雲雀料理」から。
ささげまつるゆふべの愛餐
燭に魚蝋のうれひを薫じ
いとしがりみどりの窓をひらきなむ。
あはれあれみ空をみれば、
さつきはるばると流るるものを
手にわれ雲雀の皿をささげ、
いとしがり君がひだりにすすみなむ。
「みどりの窓」であるから、洋館っぽい建物の一室。ヨーロッパには緑の窓は多いですね。というか、窓の枠がオシャレにできている。みどりの窓といっても、ガラスが緑色なわけはないので、枠が緑色なのである。
その点、日本の近代家屋の窓は(窓枠は)、オシャレに欠けている気がする。日本に窓を装飾するという考えがないのは、そもそも日本の家屋には窓そのものが無かったからである。窓という限られたスペースを外へ開放するのではなく、全面的に外部へ開放する。すなわち雨戸、である。雨戸の内側には障子が、ある。近代になってその中間にガラス戸が入った。今でも、マンションとベランダを遮るのは窓でなくて、全面サッシだ。これは、日本の建築が冬の寒さではなく、夏の湿度に適応しているからである。湿度のないヨーロッパでは、冬の寒さはもちろん、夏の暑さに対しても「窓」の方がありがたい。
だから朔太郎にも、窓ではなくて「雨戸」が登場する。「鶏」である。こちらはまた後ほど詳述することになる。
さて「雲雀料理」。時は「ゆふべ」。晩餐の時刻である。魚蝋(魚の油で作った蝋燭であろうか)を薫じなければならないほどの暗さ、がある。
しかし、おいおい。一方で窓から空を見ると、さつきがはるばると流れているのである。ここから何か薄暗い夕暮れをイメージすることは不可能だろう。日が西に傾いていたとしても、やはり薄緑色の明るい空がそこには、ある。
もちろん、洋館であるとすれば窓は小さいはずなので、夕方ともなれば蝋燭を薫じなければならないのかもしれない。だが、このギャップは大きすぎは、しまいか。
ヨーロッパは緯度が高いので、ディナーの時刻に空が明るいことは普通、だ。八時とか九時になっても、まだ空は薄緑色。だから、空が明るくてディナーが進行してもおかしくは、ない。おかしくはないが、魚蝋の「うれひ」とは対照的に、すぎる。
その晩餐、である。「われ」が運ぶ皿には、雲雀料理が載っている。え。雲雀料理。確かにヨーロッパはシビエの国だ。鳥獣ならなんでも、食べる。しかし、日本人であれば、雲雀料理と聞いて「え。」となるのがふつうだろう。私も、心斎橋でうさぎを食べた。阿寒湖で鹿を食べた。京都の伏見稲荷で雀を食べた。「すずめ」は食べたが、「ひばり」は食べたことがない。
朔太郎が日本人むけに「雲雀料理」を書いたからには、それは食べるものではない、ということだ。食べるためには作られていない料理。すなわち、おもちゃである。食堂のウィンドウにある模型にも似ているが、あれには本物が別にある。
私はここで、2.5次元という概念を使いたい。2.5次元は、私の造語である。3次元の現実世界ほどリアルでもないが、かといって2次元のメルヘンというわけでもない。一応立体を呈してはいるのだが、それは現実には役に立たない。玩具といってもいい。ミニアチュールといってもいい。メルヘンと現実の中間でポエジーとしてしか役に立たないものが、2.5次元の世界である。
雲雀料理は、2.5次元の玩具である、といっていい。だから食べるためのものでは、ない。もちろん湯気もたっていない。冷え切っている。
なぜ、食べられない料理を運ぶのか。それはおそらく、「君」に関係している。いったい、「君」はいるのか。この詩から「君」の息吹を感じることはできない。「君」については何の情報も、ない。しかし、この室内の暗さから、「君」の生命としての息吹は、まったくないと考えてさしつかえない。では、「ひだり」に進んだところに「君」はいてないのか。やはり、いる、と答えるしかない。ただし、そこにいる「君」もまた2.5次元の「君」なのである。木彫りか、蝋人形か。血の流れていない人形の、ただし等身大の大きさがある「君」が椅子に座っていること、まちがいない。
「われ」には、いとしがる「君」など、いない。朔太郎は、家庭人としては不幸だった。というより、家族を不幸に陥れたことは萩原葉子の本にもくわしい。
だから室内が暗く、笑い声も団欒もなく、料理が冷たい玩具であってもおかしくは、ない。虚ろな部屋の中の雲雀料理が虚、であるなら「君」の姿も虚、である。
ここで、窓が登場する。み空にはさつきが流れている。この明るさは、どうだ。
その窓から見える空を空想していると、私はヨーロッパの中世から近代の絵画を思わずにはいられない。宗教の絵にしても、神話の絵にしても、風景画にしても。その前景のなんと暗いことか。イエスは暗い馬小屋で頬を光らせている。牧人は頭上の暗雲に驚いている。
しかし、である。その片隅にわずかな面積をさいて描かれた遠景の、なんと明るいことか。空は萌黄いろに輝き、村は陽光を浴びて、丘の斜面には小麦の穂がゆれている。ここには紛うことなき幸福が、ある。思うに、ヨーロッパのかつての画家たちは、現実の変わることなき不幸・不運を嘆きながら、その一隅に明るい幸福を描くことで癒しを求めていたのではなかったか。
朔太郎もまた、わが身の不幸をいくばくかでも救済するために、窓の外に至福の空間を造りあげたのだと思う。それゆえ、雲雀料理も君も2.5次元として固く動かないのに対し、み空だけは3次元の空間として、「はるばると流」れているのである。
この詩篇で、「いとしがり」という言葉が二度、使われている。最初は「いとしがり」みどりの窓。もう一つが「いとしがり」君。君を思いたい、しかし君はいない。君への絶望が深ければ深いほど、窓を通したみ空への希求は、いかんともしがたいほど切ないものなのであった。
●まぼろしの村を遠目に見やりつつ君との距離の固い隔てを(きうい)
☆
「雲雀料理」では少なくとも窓は機能をはたしていた。窓を通して至福の空間に接続することに成功した。
「静物」で、室内にいるものの視線は、窓を越えることができない。
静物のこころは怒り
そのうはべは哀しむ
この器の白き瞳にうつる
窓ぎはのみどりはつめたし
「静物のこころは怒り」。私にとって、「静物とは作者の謂である」という議論はもってのほかである。実際に磁器が怒っているのだし、哀しんでいるのだし、窓ぎはを見ているのである。そうなると、これは「ウルトラQ」の世界ということになる。アンバランスゾーン。SF怪奇の現象である。そして、そう考えないと、この詩のよさはわからない。
磁器と書いたが、「白き」とあるからである。瞳とあるから、図柄が入った有田とか九谷とか、あるいはマイセンとか、そういう種類のものであろう。
その磁器が怒り、また哀しんでいる。なにゆえか。もちろん、「窓ぎはのみどり」がつめたいからに決まっている。ここで、「つめたし」というのは、「冷たい」ではない。おそらく「よそよそしい」という意味ではないかと思う。「疎し」といってもよい。
ではいったい、「窓ぎはのみどり」とは何か。「際」というからには、窓に最も近い何物かであろう。少なくとも窓そのものでは、ない。植木鉢が置いてあるのだろうか。観葉植物でもあるのだろうか。
正解は「わからない」、である。わからない、んである。だれがわからないのか。もちろん、磁器がわからないのである。だから怒り、また哀しんでいるのだ。
窓があの辺にあるのは、わかる。光の加減だ。南むきの窓。しかし今は陽は西に傾いているので、この部屋はうす暗い。だが窓の外を西日が通過していくぐらいは、磁器にもよく感知するところだ。
その前に何か、ある。緑色だ。あれは何だ。植物か。ボールか。動かないから動物ではない。むろん人ではない。
磁器の思惟は、そこまで届かないのである。もちろんそれは自分の能力の限界のせいだ。しかし、磁器はこう考える。
「あの緑色の物体は、俺に対してよそよそしい。」
だから怒る。一方で、
「俺の思惟が届く範囲は、そんなにまで狭いのか。」
とも薄々感づいて、いる。だから哀しい。
正確には、「窓ぎはのみどり」を感知できないことに苛立っているのではない。本当は、その先。窓を越えてゆきたいというのが本音、だ。やんぬるかな。窓際さえ捉えることができない磁器の能力では、窓を越えて外を捉えるなぞ、無理のなかの無理なのであった。
さて、この部屋もまた洋館が似つかわしい。大きな洋館を見学したりすると、よくある。いったいこの部屋って、何に使うの?寝室には小さすぎるし、ダイニングでもない。応接間にしてはソファーもない。中央にポツリと丸いテーブルがあって、磁器がまたポツリと置かれている。
だから通常、人もいない。ところが、だ。ひょんなことから、ある人物が間違えて入ってきてしまったとする。
すると、この部屋のただならぬ雰囲気に圧倒される。え。確かに間違って入ったのが悪い。しかし何だ、この人を拒絶する意思は。一秒でもこの空間に存在することが憚られる。
もちろん、磁器の怨念が部屋中に満ち満ちているからである。そんなことは知らないある人物は早々に立ち退くことになる。そしてその夜のパーティーで話題になる。
「あの部屋、なにか秘密でもあるんかい?」
実は、日本家屋でもそんな座敷がある。何に使われているのかわからない座敷が。それはたいてい奥の方にある。この座敷に入るのはお母さんが掃除するときくらいだ。とてもよく片付いている。誰も使わないのだから当然、だ。ここにたまたま侵入するのは、子供だ。鬼ごっことか。かくれんぼ。その最中に偶然入ってきてしまうのである。
ぞっ、とする。案の定、高価なちゃぶ台があって、その上に伊万里だか何だか、磁器が乗っている。もちろん、子供はそんなことに興味はしめさない。にもかかわらず、ぞっとする。二度と子供は隠れない、のである。
この場合は「窓ぎはのみどり」は縁側に置かれている。窓とは、ガラス戸である。そのむこうには植栽がある。サツキなんかが、ある。しかし、やはり磁器の思惟はガラス戸を越えることはできない。むろん、「窓ぎはのみどり」にも及ばない。この怨念はお母さんが磁器を誤って割ってしまったりするまで続く。
「静物」とは、窓の外に思いをこらせなかった静物の怨念の物語だったのである。
●座敷には何もなかった百年後しらべてみたら葡萄という名の(きうい)
☆
一方で、窓を軽々と越えてしまったのが「掌上の種」である。
われは手のうへに土を盛り、
土のうへに種をまく、
いま白きぢようろもて土に水をそそぎしに、
水はせんせんとふりそそぎ、
土のつめたさはたんごころの上にぞしむ。
ああ、とほく五月の窓をおしひらきて、
われは手を日光のほとりにさしのべしが、
さわやかなる風景の中にしあれば、
皮膚かぐわしくぬくもりきたり、
手のうへの種はいとほしげにも呼吸づけり。
一読、とても健康な詩である。朔太郎とは思えない。生命の喜びに満ち溢れている。
ただ、やはりちょっと変、ではある。左手の上に土を盛り、右手で種をまいたのであろう。ふつうはそんなことは、せぬ。だって御飯食べられへんでしょ。寝るとき、不便でしょ。トイレ行かれへんわな。
種の方も困る。手の上に乗る土って、限られている。浅い。いったい根がはれるんか。植物によっては、種を数十センチも深く埋めなあかんものも、ある。
水をやるのはいい。だが、土の養分が指の隙間から流れ出すようでは、困る。では、指をぎゅっと閉じるか。それもまた、ダメだ。水が下へ流れでないと、根腐れをおこす。だから植木鉢の底には鉢底石をひくんである。容器はプラスチックよりも素焼きのテラコタがいいんである。素焼きなら水が外へ浸透する。手の上ではそもそも植物なんて、育ちません。
にもかかわらず、健康的だ。「皮膚かぐわしくぬくもりきたり」。
そんな中で、一つだけ気になるフレーズが、ある。
ああ、とほく五月の窓をおしひらきて、
なぜ「とほく」なのか。これはおかしい。「われ」は確かに、窓を越えて手を外へ差し出したはずである。差し出した手に日の光があたっているはずである。だから「われ」の肉体は間違いなく窓と交差している。足は内側にあり、腕から先は外にある。
なのに、なぜ「とほく」なのか。手に土を盛る一連の作業は、3次元の完全なリアリズムだ。手にとるように描写され、感覚も実体に即している。「とほく」という言葉だけが、「われ」の感情なのである。
つまり、実際には遠くないのに、「とほく」感じられる。窓の向こうは実際に手で感じているはずなのに、「われ」の心はそれを遠く感じる。
ということは、実際には窓の外は異質の世界が広がっている、と解釈せざるをえまい。手に土を盛る一連の作業は、3次元の世界で行われた。しかし、外側に広がっている「さわやかなる風景」とは3次元のそれではなかったのだ。
2次元である。メルヘン、である。お伽話の世界、である。2.5次元の世界は玩具なので、「皮膚かぐわしくぬくもりきたり」というわけには、いきにくい。そうではなく、平面の絵画の世界としてなら、感覚として「ぬくもる」ことができるに違いない。
おっと。これはマグリットの絵ではないか。だまし絵、である。窓をはさんで、こちら側は3次元、向こう側は絵の世界。立体的な人物の手が、平面の絵の中に突入しているんである。
そして、向こう側の絵の中身は、マグリットではない。こうのこのみ、なんである。パステル調のメルヘン世界。薄緑いろの明るい世界を観覧車が回り、花さきみだれる。まさに「さわやかなる風景の中」だ。
現実の健康的な窓の外を「われ」は希求したのだが、やはり所詮はかなわなかったのだろう。せっかく植えた種は、現実の窓の外へ伸びてゆくのではなく、そこから屈曲して自らが空想するメルヘンの中へと陥入していく。だから遠い。無限に遠い。
詩の全体が健康的であればあるほど、私たちは「われ」の絶望をいやがうえにも直視せざるをえないのであった。
●手の上の豆の芽が出て大空を破壊してのち神に平伏す(きうい)
☆
最後に「鶏」を読んでみよう。これは「窓」ではなく、「雨戸」である。
さきに述べたように日本家屋は窓より雨戸、である。筆者の実家の古い家も、木でできた雨戸で庭と遮断されていた。雨戸のこちら側が障子だったのか、ガラス戸だったのかは覚えていない。木の雨戸があると、朝になってもまっ暗だ。ただし、節とか隙間からは光がもれ出て、その中をほこりが乱舞しているのがよくわかる。もっとも、夜明けの弱いひかりでは、節から入ってくる力はない。
さて、全文の引用は避けるが、「鶏」でも雨戸の内外をめぐる攻防がくりひろげられる。
この雨戸の隙間からみれば
よもの景色はあかるくかがやゐているやうです
やはりここでも、雨戸の向こう側は明るい景色なのだ。「されども」〜と続く。
されどもしののめきたるまへ
私の臥床にしのびこむひとつの憂愁
けぶれる木木の梢をこえ
遠い田舎の自然からよびあげる鶏のこゑです
とをてくう、とをるもう、とをるもう。
雨戸の外側に明るい景色があるのは予感できるのだが、それを邪魔するものがある。鶏の声、である。雨戸であるから目に見える世界を感知することは、できぬ。そしてなお、邪悪な音の世界は、こちら側の臥床に侵入してきてしまう。
最悪、ですね。明るい世界は距離的には、近い。雨戸さえ開ければ、手が届く場所にある。一方、鶏の声は遠くから森を越え、雨戸を越えて聴こえてしまう。
あまつさえ。「私」に憂愁をもたらす鶏の声は、さらに雨戸の内側の空間さえも変容させるんである。何が怖いといって、ここが一番怖い。
有明のつめたい障子のかげに
私はかぐ ほのかなる菊のにほいを
朔太郎お得意のすえた菊、ですね。あるいはまた、
私の心は墓場のかげをさまよひあるく
のであり、あるいはまた、
私はきく 遠い地角のはてを吹く大風のひびきを
なんである。これらはすべて雨戸のすぐ内側で生じたイリュージョンだ。雨戸というスクリーンは穏やかな世界を遮断し、その内側を嵐ふきすさぶ劇場に見立ててしまう役割を担っている。
雨戸という遮断装置は、その内にいる人に万能なる空想力を与える、と考えることもできる。そのきっかけとなるのが、「とをてくう、とをるもう、とをるもう。」というとてあろう。「遠い」「田舎」「自然」「母」というキーワードから、これは人類すべてに底流する情感、といえる。触発されるやいなや、わけのわからない情動に、ゆすぶられる。遠い原始の声、に目を覚まされる。
ゆえに。これを聴いて明るい世界を空想できる人間もいる、はずなのである。朔太郎は違う。朔太郎は、すっぱい菊であり、墓場であり、吹き荒ぶ風を空想した。
筆者も十二歳まで古い雨戸の内側で寝ていた。そうすると、雨戸の外を容易に空想することができるようになった。筆者の空想では、我が家の外は広大な小麦畑になっていて、その向こうに山脈があり、山脈のむこうにはなんと、バイカル湖がある。バイカル湖から川をくだっていくと、ムーミン谷に出る。「雪ふりーつーむ、おさびし山よ」ってか。
もちろん、朔太郎の場合には雨戸を開ければすむ話である。そうすれば桃色のかぐわしいしののめが待ち受けているはずだ。しかし朔太郎はそうしなかった。したくなかった。彼にとっては、雨戸の内側で遠い村の地吹雪を夢想している方が楽だったのである。
結局、朔太郎は窓の外へ踏み込めない。外に至福の空が待ち受けていれば自らが2.5次元化してしまう(「雲雀料理」)。部屋がリアリズムであれば今度は思念が窓の外まで及ばない(「静物」)。やっと出たと思ったらそれは2次元の世界である(「掌上の種」)。雨戸を開ければ済むものを、開けようとはしない(「鶏」)。
窓の内側で右往左往しているのが朔太郎、なのである。しかし筆者はそういう朔太郎も好きである。実は筆者は地理学の学問には落ちこぼれた。筆者の地理は、畢竟「見立て」に過ぎない。フィンランドを研究することなんかできないので、ムーミン谷を夢想するしか、ない。朔太郎は自分で贋の地形を造り上げた詩人である。猫町しかり、沼澤地方しかり。フィンランドは研究できなかったが、筆者には朔太郎の造った地形を歩き回るという幸福がのこされた。
●
あの鶏の声を訪ねてゆく旅は峠を八つ谷を九つ(きうい)