数珠つなぎ短歌鑑賞 連鎖性ポエファクチュア

 

(第一歌集より続く)

50 塚本邦雄

●パウルクレー教授は遠き六月に死せり玉蟲の肘はる木乃伊

 

51 尾崎まゆみ

●足止めて雨打ち払ふ六月のだるいからだの海鳴りを抱く

 

 ああ。なんともやるせない歌だ。雨とは、身にまとわりつく「世界」にも似ている。それを打払ったあと、からだの中の海鳴りを抱くとゆーのである。きっとそれは、ぎゅっとぎゅっと、強くであろう。そうしなければ、雨が、世界が、私のからだをだるさで浸食してしまうだろう。海鳴りが確認できているうちはまだ、いい。海鳴りがなくなればそれで私は、おしまい。おしまいをおしまいでなくすために、私は私の中の海鳴りを、立ち止まりつつ、立ち止まりつつ、ぎゅっぎゅっと抱きしめなければならないのだ。

 

     海鳴りをどこかにおきわすれてきた。どこかな。雨があおい平野の                     

(きうい)

 

52 花村陽子

●八月は地層をへてしづまりぬミントの香する楕円つてあるの?

 

 この歌に出遭ったそのときから、楕円を見ただけでミントが口の中にあふれるようになる。いわゆる条件反射。疑問形の「あるの?」は、単に表現をやわらげているだけで、その実、もはや楕円にほかの香など、思いもつかない。

それで、「ミントの香する楕円」をリュックにしまい、私たちは旅に出るしかないわけだ。八月。すべてのものが眠りかえってしまう季節。あの、例の、疑問形が旅を浮遊感のあるものにしている。ふわふわ。背中からミントの香。私たちは谷を横断し、いくつかの地層にであうだろう。過去や、未来が、ミルフィーユのように積み重なっている。今日もひとつの地層の断面が、私たちの目の前をゆっくり通り過ぎていった。何もおこらない幸せ。「ミントの香する楕円」を携えた旅を終えるのは、谷に梨の実る秋になってからでも、遅くはない。

 

▼来し方の地層に幸を摘みにゆこうセージの香する篭をかかえて

                       (きうい)

 

53 明石海人

●シルレア紀の地層は杳きそのかみを海の蠍の我もすみけむ

 

 ある解釈は、この歌をこうくくっている。

(海の蠍である我)もすみけむ

 確かに意味の通りは良い。しかし、それではこの歌のもつ爆発的な迫力をそこねてしまわないか。私なら、こう読む。

 シルレア紀の地層に内蔵される

 広大な時間を

 海のごとくにたゆたいつつ

 蠍がたくましく生きるその横で

 我もまた

 ああ、生きているのだ

「すみけむ」と過去推量になってはいるが、これはまぎれもなく現在の自己の実存の絶唱である。その実存の在りかたを地層という時空の蠍に託しているのである。

 歌は詩の一種であるから、その断片断片が絶唱である。それを意味の通りが良いからといって、おとなしく括ってしまうのは、短歌の魅力を半減してしまう結果になりかねない。

 さて。地層である。地層は、いい。氷河もいい。カール・カルデラ・潟湖もいいが、なにしろ地層には「バヤリス・オレンジ層」などというふざけた名前があるのが、いい。色がバヤリス・オレンジに似ているのだろう。では、聞く。バヤリス・オレンジとファンタ・オレンジの色は、どうちがうのぢゃ。

 おなじように。みなさん、「あずき火山灰」は何色だと思いますか。

@むらさき  Aはいいろ  Bあか

 地形学特殊講義ではこう習う。ある夏のさかり。地形学者たちは、地層を調べていた。お。新しい地層はっけん!そこへ通りかかったのがアイスクリーム屋さん。みなで買う。一人がいう。

「このアズキアイスの色、新地層にそっくりやん」

 こうしてその地層は「あずき火山灰」と名づけられました。アズキアイスは、紫のアズキをアイスでコーティングしているので、色はグレー。答えはAなのでした。ほんまでっせ。私がハンカツーだからといって、これはほんまのことでっせ。疑っちゃ、いやよ。

 

     あのころは恋より化石だれもかも帽子のしたに発熱がある 

                       (きうい)

 

54 築林歌子

●わが炎鎮めるほどの静けさをもちたる男に未だ出会はず

 

 ぼく、ぼく。は〜い。それはぼくですよ。と言いたいところだが、そんなに甘くはない。炎であおられたら、何か言い返してしまう。余計なことも、一つ二つ追加して。お。しまった。と思ってももう遅い。一度出た言葉は、取り返しがつかぬ。やっかいだ。こうして、男も女も生きていて、だから歌子さんよ。もう、好い加減あきらめなさい。そんな男は銀河系にはいないのでしゅ。

 

▼俺は言うなんだかんだと理屈こね君が炎に薪をくべつつ

                            (きうい)

 

55 室谷とよこ

●対の雛ながくねむらむ持ち主の逝きし屋敷の地下ふかき闇

 

 うひょう。なんか、ラドクリフ・ブラウンのせかい。

 いきなり「対の雛」とぶちかますのも、ホラー映画の形式にのっとっており、効果抜群である。おいら、腰がひけてしまったぞ。岩井志麻子ふうに言えば「ぼっけぇ、きょうてえ」だね。岩井志麻子は岡山の人だが、横溝正史の舞台も岡山が多い。金田一耕助が乗ってくる汽車は、ありゃ伯備線ぢゃろ?そういえば日本ホラー小説中興の祖と呼ばれる内田百閧煢ェ山だ。うむ。ワシはわかったぞ。室谷さんも、きっと岡山の人に相違ない。するってえと。ラドクリフ・ブラウンも岡山出身か?んなわけないな。

 とはいえ、やはりこれは洋館であろう。対の雛という視覚的形象から入ったこの歌は、やがてその事情の説明に入る。雛の持ち主が死んでしまった。おそらく、そこには何かの因縁が隠されている。その因縁を知っている唯一の証人「対の雛」は、知られては困る人たちによって地下深く眠らされてしまった。

 そして最後に地下の闇。実は、何が怖いといって、空間ほど怖いものはないのだよ。ラドクリフ・ブラウンだって、モンスターなんか怖くない。怖いのはあの、屋敷だ。何が潜んでいるか、わからぬ。それは物体だけではない。というより、物体以外のわからない何かが怖いのぢゃ。

 その点、最後に「地下の闇」をもってくる室谷氏の手法は冴えに冴え渡っている。焦点は「対の雛」から巧妙に「地下の闇」という秘密のいっぱいつまった空間へと移され、そしてフェイドアウトする。ぼくたちの後ろで鉄の扉が、しまる。

ぼくたちはもう、夜中にトイレにいくことはできぬ。

 

▼今はもう空地こどもら茜ぞら夕餉の横に対の雛ある

                         (きうい)

56 明野茉莉

●たとふれば有限カノン春深き窓の向かふにもうひとつ窓

 

 カノンと聞いて思いつくのはパッヘルベルのそれしかない。山下達郎のホワイトクリスマスの、あれだ。繰り返し。では、カノンとフーガではどう違うのぢゃ。「カッコー」はどっちぢゃ。と、音楽にくわしくない私は思ってしまう。そして「有限カノン」とは何か。繰り返しが途中でストップするのか。とすれば、この「有限」は「春深き」と緊密に呼応している。

 春が深まるに比例して家の中の翳りも深くなる。軽やかなさざめきは既になく客足も遠のいた。ふと窓を見やれば、その奥に更に屋内があって、そして又窓がある。それは入れ子のように永遠に続くかのようではあるが、もうその外では初夏の濃い緑がそよいでいるばかりだ。もうひとつの窓とは、春の行き着く最も深い終着点なのだろう。「初夏」とは大きな断絶がある「深き春」・・・。

 

▼降り注ぐカンタータ秋あしばやに塔をさらなる塔が凌いで

                           (きうい)

 

57 十谷あとり

●縹色のリボン撚れつつただよえり暁ガス田記す海図に

 

 56が深い春の最高傑作とすれば、これは浅い春の最高傑作である。ふつうガス田と聞けば、ひどく恐ろしいイメージをもつ。鉛色の海から赤黒い炎がそそり立ちそれは世界の終わりであるかのような(東シナ海には実際に春暁というガス田がある)。しかし、この歌から聞こえてくるのは、実に爽やかな早春のにおいである。

 なぜか。このガス田は海図という二次面の世界にある。それが「撚れつつ」立体的に立ち上がってくるのですな。だが、ガス田は完全な三次元(リアリティ)を獲得する途中でとまってしまう。私はこれを二.五次元の世界と呼ぶことにしたい。玩具(おもちゃ)といってもよい。二.五次元の宙ぶらりんな世界に、縹色の早春の風が吹き抜けるのである。

 

▼うきうきとなにやら予感エッシャーの奥の発電所からジャスミン

                        (きうい)

 


58 花村陽子

●嘘つぽさが鮮度を保つてゐる地の折れ目に沿つて開く

 

 わお。また地図ですか。どいつもこいつも地図の傑作ばかり書きやがって。昔、「三夕」というのがありましたな。藤原定家・西行と、あと誰でしたかな。それにならって、「三図」を認定しよう。すなわち、高橋睦郎・十谷あとり・花村陽子である。ならべてみよう。

 

@外套襟立てゝ見るGoode homolosine図法けぶる渤海  睦郎

A縹色のリボン撚れつつただよえり春暁ガス田記す海図に  あとり

B嘘つぽさが鮮度を保つてゐる地図の折れ目に沿つて開く海溝  陽子

 お、すげえ。しかし、「三図」の中にニセ理学者の蔦きういが入っていないのは、いったいどういうわけか。こら。責任者、出てこい。しかし。三夕を選んだのは後鳥羽院(?)。そして三図を選定したのは蔦きうい。うむ。まあ選定者であることでよしとするか。

 というわけで地図というものは、そもそもが嘘である。虚構(デフォルメ)がきいていればいるほど、使いやすい地図だ。だから、「嘘つぽさが鮮度を保つてゐる」というのは、奇抜なレトリックではなくて、デフォルメがちゃんとわかる形で生きているということなのだ。それが通常の健康なありかたなのである。

しか〜し。そこに海溝が割れ目をのぞかせる。海溝とは嘘の反対。つまり現実だ。これはおそろしい。虚構のつもりで安心して地図を楽しんでいたら、いきなり等身大の現実が顔を出す。人の感覚も、現実をそのままでは受け取らない。あいまいな形でデフォルメして受け取っているのである。現実そのままが、目や鼻から等身大で入ってきたら、これはもう生活がなりたたない。

そんな意味で、これはちょっとしたホラーなのだよ。

 

▼どこからかさくらただよいくる夕辺マリアナ海溝ビチアス海淵(きうい)

 

59 宮本玲子

●終末をいふとき深かりき燃ゆる都市にて逢はな、おとうと

 

「深かりき」で切れている三句切れである。また、「逢はな」で読点が打ってある。にもかかわらず、この歌は「逢はな、おとうと」が独立した存在として屹立している。どういうわけか。まずは内容から見ていこう。

 はじめに読んだとき、私は「燃ゆる都市」をソドムとゴモラだと思ってしまった。もしかすると違うのかもしれないが、最初に刷り込まれると容易には転じ得ない。しかし、ソドムとゴモラに弟はでてきたか?(ここでちゃんと確かめないところがハンカーツの所以である)。とすれば、この歌はまず先に「逢はな、おとうと」ありき、なんである。

 おとうとに逢いたい。

どのように逢いたいのか。終末の燃ゆる都市でしか逢えないのだから、通常の姉(兄)弟関係であるはずが、ない。とてつもない憎しみがそこには、ある。終末を告げるのは、おそらく神であろう。神の「眸深かり」し民への憎悪は、そのまま姉(兄)と弟へ、転写される。もはや許すこともあたわぬ。

しかし。姉(兄)弟であれば、憎しみの裏に愛がある。憎悪さえなければ逢いたいにはちがいないのだ。逢えばまた憎しみが増幅する。逢う場所は一つしか、ない。世界が滅びる瞬間である。逢うという思いを遂げた瞬間に、姉(兄)も弟も、そして憎悪もほろびさる。こうして、唯一の選択肢として「燃ゆる都市」がえらばれる。

「燃ゆる都市」であらばこそ、「逢はな、おとうと」と絶叫することが可能になるのである。

 ふーむ。すばらしい。こんなふうに、「ズバリ言いたいこと」+「その的確な映像」という構造の作品がもっといっぱいあって欲しいなあ。

「ぢゃ、おまえがやれよ!」ってか?

 いやん。ワタシ、下手くそなんっス。

 

▼ふりかえる妻がおとがい凋落す燃ゆるソドムに想いたけき()

                         (きうい)

60 秋谷まゆみ

●抱くとき君は若けれそのむかし草市にはぐれたりし

 

 恋人と抱き合うとき、君はとても若く見える。

 ここで「若い」というのは年齢的、あるいは外見の若さではないだろう。とても純粋な無垢な存在。それゆえ余計いとおしくなる。守ってあげたくなるほどの・・・。もしかすると夫かもしれない。愛するときだけは、まるで年下のようにひたむきになってくる夫。

 しかし、その「かれ」には申し訳ないが、この歌で前面に出てくるのは、「おとうと」なのである。「かれ」と抱き合いつつ、私は「かれ」に「おとうと」の面影を見ている。ここで、すでに「かれ」のイメージは遠景に退く。

 草市。下町あたりで夏になると開かれる露店市のことだろう。その雑踏で弟とはぐれてしまったのである。私の意識は夫を離れて、二十年も前に遡っている。その様子を三つの場合にわけて、空想してみよう。

@弟とは実際にはぐれてしまい、その後、弟とは音信普通になってしまった。今ごろどうしているのか。生きているのか。生きているのならせめて、声だけでも聞きたい。おっと、これはドラマティックすぎるか。現代版「山椒大夫」。

A実際にはぐれたのではあるが、それは弟が、姉といつまでも連れ立つことをいやがったからなのである。「姉さん、おれ、伸介といっしょにいくから。先に帰っておいて。」弟は、もはや姉の庇護下には、いない。成長して友人との社会的関係の中へ飛び出していく。姉はそれを寂しく見送るしかない。「あ、ちょっと待って。」「なに?」「ううん。いいわ。行って。気をつけてね。」その弟も、去年就職し、今はニューヨーク支社で働いている。

B実際にははぐれていない。連れ立って草市を歩いている。時折、弟は姉を笑わせることを言って、とてもなごやかな雰囲気だ。しかし、姉がふと横を見ると、昨日の弟とは明らかに違う顔をしている。そうだ。もはや姉は気づいている。ずっと、ほのかに続いてきた姉弟のきずなが、すでに形だけのものになっていることを。昨日、弟は電話でクラスの女の子と話をしていた。草市を歩きながらも、弟の心の中は、女の子のことでいっぱいだろう。こうして、草市で弟は精神的な自立をしていったのである。

 三つのどれであるにしろ、草市という場面設定が効果的だ。弟が姉から自立するには最適の場所であろう。泉鏡花の最高傑作「龍潭譚」を思わせるではないか?

 こうして遠く過ぎ去った弟を想いだしながら、いよいよ、夫をいとおしく思う私なのであった。

 

▼世界中の問いが集まるあの龍の都めざしてボクはゆくんだ

                            (きうい)

 

60 秋谷まゆみ

●プロヴァンス持たざるがのぞきこむわが()の底の海峡の紺

 

 プロヴァンス。南仏の田舎。「君」は、そのような自然に恵まれた田舎をもたない。おそらくは都会の生まれで、親戚縁者も田舎にいないのであろう。そういう人の常識は、われわれ田舎出身者をたびたび驚かすことになる。以前、そのような人と高原に行ったら、「あれは何か?」という。指さす彼方にはとうもろこし畑。おいおい。とうもろこし、知らんのかい。という私も、千葉出身でありながら、落花生がなっているのを見たことがないのではあるが。

 そんな「彼」が、「私」の目の底の海峡がいやに青いのをびっくりしている。とうもろこしを見てびっくりするのと、同じだ。田舎出身者は、だれでも、地形を身体に隠し持っている。捨ててしまった田舎の、形だけは残しているのである。

 私で言えば、それは川。実家の東五百メートルに日本一の川。西五百メートルににも大河。ふたつは、北五百メートルで左右に分流している。秋谷まゆみが海峡というのと同じように、蔦きういは川、なんである。

 

     腿に川を潜ませゆくわれに「むくんでるやん。もんだろか」ほっとけ 

                    (きうい)

 

61 魚村晋太郎

●長靴のにも月の射すやうな気がするぬるい失意のあとは

 

 特に名は伏すが某栗木京子さんに「宙ぶらりんに違和感。逃げるのでなく具体的に。意味を問い詰めてほしい。」と評されてしまった作である(『玲瓏五十八号』)。

 ここで栗木さんはこの歌にマイナス評価を与えているが、実は栗木コメントこそ、この作の成功を証明している。読者に宙ぶらりんの違和感をおこさせ、いらいらさせる。それこそ魚村の目指すところであり、栗木氏は、見事にはまってしまったわけだ。ただ栗木氏にその自覚は、ない。

 魚村のファンは、自覚的に魚村の策略にはまることを楽しむ人たちである。魚村の歌は、かっちりとした構成にもかかわらず、不思議な不安定感があり、その不安定の中へと自ら身を投げ出す。「いやん、墜ちるぅ。助けてぇ。」と叫びながら恍惚に至る。ジェットコースターにも似た感覚をファンたちは最初から自覚している。

 栗木氏の不満は短歌とは逆の方向をむいているとしか思えない。短歌や詩は、そもそも説明をしてくれない。具体性を直接書いて欲しい、意味を書いてほしいのであれば、随筆や小説を読むほかはない。今日の新聞で、画家の福田美蘭が盆栽について言っていた。盆栽の魅力は見る人が想像力によって風景を幻視するところにある、と。これは短歌も俳句も、そして日本の芸術はたいていそうである。森本哲郎がアラビア人に「古池や」を朗読したところ、「続きは?」と聞かれたらしい。「ない。これでおしまい。」「そんなわけはない!」怒るアラビア人ももっともだが、日本の文芸とはそんなもんである。

 と、ここまで言いたいことを言って、実は栗木氏の発言を直接聞いたのではなく、また聞きであるから責任はもてない。報告者の楠見さん、責任とってねえ。

 さて。この作。栗木氏は「ぬるい」を逃げたと評したが、この「ぬるい」が核心部分なのであって、これがなければ歌にはならない。創作過程を想像すると、まず「失意」の具体的な経験、もしくはイメージが先行してあり、それを「ぬるい」と断定することで歌の方向性が決まる。その感覚を具体的に言い切ったのが上句の「長靴の底にも月の射すやうな」である。

しかし、読む方から言えば、上句によって「ぬるい」の性質が逆に規定されてゆくことになる。なぜなら、「ぬるい失意」はやはり具象性に乏しいからである。「ぬるい」のイメージは一般的には、中途半端とか、どっちつかずとかであろう。煮えたぎる失意ほどではないが、さりとて水に流せるものではない。そんな失意とはどんな失意か。「長靴の底にも月の射すやうな」失意である。長靴の底といえば、とても奥深い。だれにも知られることのない空間であろう。さらに言えば、知られたくない空間である。だれが自分の長靴の底を人に見せたいと思うだろうか。そんな長靴の底を月に照らされるようだと言う。おお。恥ずかしい。こそばゆい。他人が自分のおしりの穴にすすきの穂をさしこんできたような気分と言えばよかろう。

では、そういう失意とはどういう失意か。いろいろ考えられるが、まず簡単に思いつくのは失恋である。相手は自分の意にかなう返事をしてこなかった。たしかにがっかりするが、といって死ぬほどでもない。だが、自分の気持ち、それも長靴の底に隠しておくような気持ちは相手に知られてしまった。これはこそばゆい。恥ずかしい。そういう恥ずかしさを、長靴の底に月がさすというのである。この場合、月とは相手の目線である。好きな人に長靴の底をのぞかれたときに詠う歌として、よいのではないか。(でも、私だったら好きな人に長靴の底を覗かれたいけどね、うっふん)。

ほかにもこんな例はあるだろう。ちょっと今は思いつかない。では、皆さんへの宿題。このような失意を具体的に栗木さんにわかるように例証しなさい。

 

▼あの底で人の匂いを耕していたいにしえの通園かばんは

(きうい)