塚本邦雄 百首 7180

 

 

71

人は妬みに生くるものから 十月のひるのねむりに顯つ青石榴

【星餐図】

 

 ほんまにそのとおりですな。人は妬みに生きている。人はなぜ妬むのであろうか。まず妬みという感情は、比較という行為から出発する。比較しないで妬むことはできない。では、なぜ比較するのか。人はすべて平等であるべきという信念があって、それが遵守されているかどうかを見張るためか。いやいや。では、自分なりの価値基準というものを持たないからか。どうもこちらの方が近い気がする。日本人は、価値基準をヨソに求めるのである。もし価値基準が自分の中でつくられているとすれば、比較する必要がない。ところがそうでない人は、周囲をみわたして価値基準を探すものだから、常に人と自分を比べようとする。満足というのは、人によって異なるものだ。ある人は晩飯お茶漬けだけで満足しても、おやつにザッハトルテがないと我慢できひん。この満足の程度と形式を自分で測れない人が何にでも妬むんだと思うよ。

 で、妬みをもつだけなら本人が苦しむだけだから害はない。しかし、何にでも妬む人間というのは、人を蹴落として自分より下にもっていこうとするからね。そういう人はかなわん。あることがらが、一になってしまったAさんがいる。Bさんはたまたまそのとき二だった。これを妬んだAさんはそれを妬んで、さる人を動かし、Bさんも一にするよう迫る。しぶしぶ従ったBさん。しか〜し。その後事情がかわり、Aさんは四になった。Bさんは逆に零になった。Aさんが平気で四を行使していること、御察しのとおりである。さらにAさんには、かつてBさんの一をも邪魔しようとした前科があるに及んでは開いた口がふさがらぬ。こういう人間は、人の幸福を絶対に許すことができぬのであろう。

 だからといって、そんな奴に腹をたてていても、体がもたぬ。そんなレベルの低い奴らは相手にせぬことである。相手にはしないが、腹がおさまらぬときは、オブジェに頼るがよかろう。青石榴。いい響きですねえ。しかし、青い石榴ってほんとにあるのかなあ。赤い石榴しか見たことないよ。石榴はペルシア(イラン)原産だが、日本の都会でもよくみかける。塀のむこうから石榴の実が道路側に垂れていたりもする。ちょっと、いただこうかしら。とはいえ、筆者は小心者なのでそんなことはできかねる。田舎にいけば、安く手に入る。ハイキング道や観光散策路の脇の無人販売所、あるいは道の駅などの地場物産売場。ひとつ百円くらいで売っています。爽やかな味覚ですねえ。健康にも良いらしい。

 それが青いというんである。なにか不思議な宝石のような響き。それが眠りの中に起き上がってくるという。というか、そこに置かれている感じ。小さいが堂々たる存在。

 十月というのは午睡するにはもったいない季節。五月と並んで最も午睡に向かない季節。だからこそ、すばらしい。望みうる最高のぜいたく。その至福のなかに置かれた青い石榴にいたっては、妬み人間なんかにはとても真似のできない高価な幸福なのだった。

 

●深皿のザクロを黙って見ていたら瞬く間に冬 幸せよ来い(きうい)

 

 

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真夜硝子障子はとほき碧空のなごりをとどむ とほきあやまち

【星餐図】

 

 真夜中。ガラス障子に映える碧空。オー、ノー。怖いです。ウルトラQです。アンバランスゾ〜ン。今夜丑三つ時に、あなたも見てごらんなさい。居間と台所を隔てるガラス商事を・・・。そこに青空が。ひとつ、ふたつ雲が流れゆく青空をそこに確認するかもしれませんよ。(石坂浩二)。ってか。

「とほき」が二回でてくる。短歌の初心者がこんなことをすれば、たちどころに師匠に叱られるであろう。同じ言葉を二回使うなぞ、下品も下品。ちょー、恥ずかしい。しかし、ここでは「とほき」の意味が明らかに異なっている。最初の「とほき」は空間的な遠さである。とは言っても、大阪府東大阪市から一万キロ離れたシドニー、のような実際の距離ではなく、次元の違いを「遠い」と言っている。

 夜。眠れないまま炬燵で生姜湯なんぞを飲んでいる。雑誌をパラパラめくってみるのだが、目がただグラビア写真を追うだけ。そんなとき、ふと目を上げるとガラス障子に青の破片が映っている。ちょうどその部分だけ、ガラス質ではなく、なにか突き抜けるような、かといって何もないわけではなく、ただそこに色があるのみ、になっている。まさしく、空。空以外のなにものでもない。なつかしい。デジャビュ。既視感。わけもなく、なつかしい。自分の過去の人生の中で、実際に見たことはない。なにより、こんな空が現実にあるとはとうてい思えない。では、これは何の空なのか。ここで筆者は、与謝野晶子の歌を思い出すのである。これは筆者の、与謝野晶子最高傑作である。

●あきかぜや弘法大師をさなくて見たる讃岐の碧瑠璃の空(与謝野晶子)

 与謝野晶子は、幼少の空海が仰いだであろう碧空を見ているわけである。むろん、ビジョンである。遠く隔たった空海の眼の中に映る空をイリュージョンしているのだ。だから塚本邦雄のこの碧空も、幾多の先人が、苦難を通り過ぎていった先人が見たところの碧空なのだと思いたい。例えばイエス。イエスは痛々しい。そのイエスがふと見上げた碧空。ガリラヤ湖のほとりで行く末の苦難を思いやって見上げた碧空。

 わたしたちはそんな碧空を想像しては、自らの苦難をなぐさめるのである。真夜中のガラス障子に、空海やイエスの見た碧空を映写してみるのである。思えば自分は幾多の過ちをおかしてきた。それが何より辛い。それほど辛いものはない。ここでの「とほき」は時間的な遠さだ。過去を思いやった遠さだ。夜の底でひとりぽつねんと座っていると、そのことばかり浮かんでくる。

 それを救ってくれるのが、碧空の破片なのだ。「なごりをとどむ」。何も大空すべてを欲しいと言っているのではない。まったくの晴れやかな空など望んではいない。ただ、欠片だけでよい。私に、先人の碧空を、少しだけ、わけてください。

 

●あす夜明あおい硝子をポケットに入れて祈りの旅に発とう(きうい)

 

 

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霜月と鴨跖草絶ゆる よこがほのイエスのむかうがはのもみあげ

【星餐図】

 

 霜月は十一月。鴨跖草は、つゆくさ。夏の花ですね。おっと。どんな関係あるねん。それが「絶える」ってんだから。わけわからん。すると「と」の解釈が問題なのか。「霜月となったので、つゆくさも絶えた」のか。強引だな。塚本のおっちゃんよ。こりゃ、わからんぜ。露草はアジアの花だからイエスとも関係ないし。

 もういいです。単純に考えましょう。霜月もつゆくさも、おしなべて、一切合財、絶えてしまったのであろう。亡んでしまったのであろう。もうそこに何もないのであろう。みわたす限り荒野になってしまったのであろう。(そんなむきにならんでも)

 昔の西洋画には、完全な横向きの人物画がけっこうある。ちょっと斜め、とかじゃなくて、まっすぐ正確に横をむいている。こうなると、反対側の頬はまったく見えない。ちなみに人物の写真では、やはり斜めが圧倒的に多いようである。左四五度とか(サッカーのフリーキックみたいやな)、自分の得意の角度を把握している女性もいるらしい。確かに斜めは良い。影が適当について、比較的よく映る。

 さて、イエス。もみあげというのは、一般的に左右対称である。横顔の左のもみあげが十センチなら、見えない右側のもみあげも十センチのはずだ。散髪屋は神経質にそういうところだけは、きちんとする。だから「むかうがはのもみあげ」と言われても、同じやんか。となってしまう。だからそれは、「もみあげ」ではない。見て欲しいのは、ほかの何物かなのだ。それは頬、である。頬を伝う涙、である。絶望の涙である。おいおい、右目から涙が流れているなら、見えている左からも流れているはずだぜ。違うんである。左は民衆に見える。だから決して泣いてはならぬのである。民衆に絶望の涙を見せれば、自分のカリスマ性が吹き飛ぶ。カリスマ性がなければ人は福音を信じないであろう。だからイエスは右目だけで泣く。だって体に触れただけで病気を治すんだぜ。片目だけで泣くくらい、わけもない。

イエスは半分絶望しているがゆえに、横顔をむけている。何に絶望しているのか。筆者は、「わかりあえない」ことに絶望しているとみる。教条主義のパリサイ人。人間臭いヒューマニストのイエス。これは対極に位置する考えだ。絶対にわかりあえっこない。筆者はパリサイ人を批判しているのではない。環境の苛酷な地域ではある程度の教条主義も必要だと思う。逆に考えるとイエスのヒューマニズムは、西アジアでは少数意見だとみることもできる。だからこそ、キリスト教は西へ向かって、温帯地域で爆発的な信者を得たんである。見よ。ヒンズー教は灼熱の荒野インドに根をはり、仏教は温帯へと逃げていった。

わかりあうことに絶望したイエスは、パリサイ人に肉体を引き渡すことを決意する。肉体と引き換えにヒューマニズムが遥かに道を伝っていくことを願って。

 

●馬小屋のイエスが声をおしころし唯もみあげにつたう泪は(きうい)

 

 

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赤き水湧く苗代にえらばれて稗植ゑらるる さらば赴け曽良

【星餐図】

 

 赤き水って、あなた。それ汚れているんちゃうの。まさか、仏様にお供えする水か。いや「湧く」のだからやはり汚い水だろう。そんな条件の悪い苗代に何を植えるか。稲か、小麦か、蕎麦か、粟か。幾多候補があれども、その中から稗が選ばれたというんである。

 稗。かつては雑穀と呼ばれ、米より一等下なるものとされていた。近年がぜん、脚光を浴びている。栄養がある。うまい。うまいと言ってもそれだけで炊いたらどうかわからんが、米に混ぜたら確かにうまい。ではなぜ、かつては不味いものとされていたのか。水分が足りないからなのね、きっと。日本のジャポニカ米には、もちもち感のもとになる水分がある。日本人はあれがないと嫌なのね。だからインディカ米をきらう。でもインディカ米はカレーとかスープに混ぜて食べるから、水分ないほうが美味しいんだよ。蕎麦も水分ないから麺にして汁と一緒に食べる。稗も、米というもちもちの中に入れると、プチプチした感覚が水分の中で浮き立って、見事な協奏をかなでる。

 さあ、その稗が栄光の選手としてえらばれた。といっても、条件の悪い場所へ派遣されるのだから、泣き笑いってところか。ま、栄光半分、愚痴半分でしょう。この上句は、そのまま下句の喩になっている。つまりこれは序詞の構成ですね。学校で習った序詞を頑として信じている人は「あれ」と思うかもしれないが、序詞というのは本来、上句と下句の隠喩構成なのです。【風景や物】・【心情】のパターンである。それがやがて間に比喩をあらわす「の」が入るようになる。【風景や物】の【心情】となる。さらに学校で習う【風景や物】→【一語】の形になる。すると曽良というのは、すなわち稗のような人ということになりますな。

 筆者は将来、こんな時代小説を書きたい。松尾芭蕉をリーダーとする悪をやっつけるヒーローもの。名づけて「芭蕉戦隊ソラ」。松尾芭蕉は、「太陽にほえろ」で言えば石原裕次郎である。座っているだけで、何もしない人。その下にソラ。これはいわば、アカレンジャーね。そしてほかに、キョライ・キカク・ランザン・サンプウがいるわけです。それで悪の手先ショッカーをやっつけるんです。場所は深川芭蕉庵。その地下に秘密基地がある。緊急時には扉が開いてポインターが出動する。例えば仙台藩がショッカーに襲われていると聞けば、芭蕉が指令を下す。「赴け、キョライ!」。「ハハア」。

 こうして史上最大の作戦が訪れる。月に宇宙人が攻めてくるというのである。おお、宇宙が舞台。これこそ「赤き水湧く苗代」であるぞ。今度こそ、命がけだ。いくらウルトラホーク一号を使うといっても、これはまさに特攻隊に近い。さて、だれを選ぶか。風格ならサンプウだ。実力ならキカク。まじめさならソラ。なんといっても師匠がうそはったりで奥の細道書いているのに、日記で真実をばらしてしまうのだから。実はその恨みもある。ソラなんか死んでもいいわい。さらば「赴け、ソラ!」。

 

●深川の基地を飛び立つ宇宙船燃料(ガス)は片道さらば恋人(きうい)

 

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晴天に男糶らるる市ありとわが牀上の黄の月球儀

【星餐図】

 

 おいおい。人身売買かあ。奴隷じゃん。しかも晴天って。まっぴるまからやってちゃ、だめだよ。やばいよ。こういう歌は。

 しかしこれは、奴隷の歌ではない。男が女性に品定めされるバザールというんである。つまり結婚相手とか、恋人を探すための市場なのね。三斎市といって、月に三日だけ開かれるのです。たとえば「六日市」だったら、六日、十六日、二十六日。この三斎市を起源にする都市はよく目にする。二日市(福岡)、三日市(大阪)、四日市(三重)、五日市(広島)、六日市(島根)、七日市(群馬他)、八日市(滋賀)、十日市(広島他)廿日市(広島)など。ありゃ。廿日市って、いつ開くの。これ三回開けないじゃ〜ん。三斎市じゃないよお。というわけで、市庁舎やドゥオーモなんかに面した広場に、檻に入れられた男がいっぱい陳列されるのね。それで質問とかして、品定めする。「趣味は?」「料理できる?」「年収は?」「デートはどこ連れてってくれるの?」::やっぱり奴隷の歌か。

「市ありと」の「と」。だれかが、こんなバザールありまっせ、と言っているわけである。だれか。月球儀に決まっている。お月様が、そんな男市のある惑星があるんですよ、と報告しているのだ。まるでアンデルセンの『絵のない絵本』だぜ。それでじゃあ、それはどこの惑星だいという話になる。むろん地球に決まっている。映画「猿の惑星」をみよ。ウルトラセブンの「第四惑星の悪夢」を見よ。みんな地球のお話なのである。

 こうしてやっと、「我」が登場する。もちろん床に月球儀をもちこんでいるのが、一番良い。だが、その前に検討に値する説がある。李白である。「牀前月光を看る/疑うらくは是れ地上の霜かと」。月球儀はふつう黄色くない。群青のような濃い色である。だからこの月球儀は実はほんものの月なのであって、李白のように月光が自分の床まで侵入している。ああ、しかし、こんな解釈はつまんないなあ。

 やはり蒲団の中に月球儀をもちこんで、撫でているのでなければならない。そんなフェテシズムなのだから、当然「我」は男である。女は観念を愛撫し、男は物を愛撫する。病気がちなのかもしれない。それで月球儀という、これは物といっても、限りなく観念に近いんだけど、辛さをなぐさめている。すると月球儀が、こんな市がありますよ、って教えてくれる。へえ。いいなあ。僕も競られてみたいよ。どんな人が僕を競ってくれるのかなあ。それとも、僕みたいな人間はだれも競ってくれないかなあ。いいえ、ご主人様。あなたのような優しい男のかたこそ、女性にもてるのでございますよ。ゴリラのように男を主張するかたは、それはそれは、その場だけのもてかたで、結局六十をすぎれば捨てられてしまうものでございますよ。ほら、持統天皇の息子の草壁さまも、強い女性(阿閉皇女)に愛されたではございませんか。弱くて、優しくて良いのでございますよ。

 

●お見舞いの同級生の女子たちに見せる月球儀「だれが好きなの」(きうい)

 

 

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鈍色に煮ゆるあはびの夕がれひ神は微風のごとよぎるなり

【青き菊の主題】

 

 アワビ!なんちゅう贅沢しとるんじゃ。とはいえ、アワビの煮付けというのは風情がある。贅沢という意味ではなくて、もっと、侘び寂びの世界。アワビは高価なものなのに、煮付けから連想する世界は、薄明かりの豆電球に、狭い茶の間。丸い卓袱台。そうそう、星一徹が投げるような、あれね。外は真っ赤な茜で、それを電柱と電線が黒い綾取りしていて。妙にもの悲しく、それはアワビのせいというより、煮付けのイメージなのであろうか。これが例えば、秋刀魚を焼く路地となると、貧しいけれども活気があって、元気な子どもたちが腹をすかせて帰ってくる予兆もあるのだが、煮付けが湿っぽくさせるのかなあ。

 そもそも、夕餉というものが物悲しい。いくらそこに沢山のご馳走が並べられようが、いくら大勢で食卓を囲もうが、いくら華やかな話題に盛り上がろうが、夕方と夜のあわいに食事の卓に向かうことそのものの中に、哀しさが包含されている。世界が終末に向かう時間帯。だから筆者は子どものころ、夕食の時間になると、「ああ、このコロッケを死ぬまでに幾つ食べられるのだろうか」ともの思いに耽った記憶がある。朝食や昼食ではそんなことは、おこらない。このトーストを死ぬまで・・・とか、このラーメンを死ぬまで・・・・とかは考えない。

 こうして夕餉の時刻になると、あの西の空の茜から発した微風が路地を伝って我が家へも到来し、茶の間の片隅のグレーゾーンをかすめながら、次の家へと去っていく。グレーゾーンとは、家族の意識に上らない空間である。つまり人は、よっぽどのことがない限り、この微風を感じることはできない。

 そして重要なのはその微風にこそ、神が搭乗なさっていることである。神というものは、明確な態度をしめさないものである。だから、「どうぞ何某高校に合格しますように」とか、そんな明確なお願いをしても、返答はない。それでもお願いして何某高校に合格したのは、本人の力と、運であろう。神が一人一人に明確な答えを出していたら大変だ。それゆえ、神は微風のようなそよぎしか、私たちに示してはくれないんである。大きな目につくような幸福。それは神の仕事ではない。ほんの小さな、気づくか気づかないかのような、極小の幸福こそ、神の仕事である。

 だから、豆電球の茶の間の卓袱台の上で煮付けをつついているとき、その微風を感じ取った人は幸せである。ああ、俺は幸せなんだ。そう思うべし。その微風には、遠い茜のにおいがするはずだ。わたしたちは、その茜のにおいを抱きしめて、寝床に入る。もうこれで世界が終わろうとも、自分には微風が運んでくれたこの茜がある。

 この歌は、本質的な哀しみの時空であるはずの夕餉に、かすかな、かすかな幸福をもたらしてくれるのであった。

 

●真夜中の厠の外の植え込みに潜んでいたのは神であったか(きうい)

 

 

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沖はひでりなさざる戀のなかぞらに星とよばるる火は流れたり

【青き菊の主題】

 

 沖ってのは、つまり海の奥のほうでしょ。手前がひでりじゃないのに、沖だけひでりということがありうるのか。ない、ない。変だよ。これはすなわち、「私」が沖を想像して、向こうは「ひでり」だろうなあ、と感じいっているわけだ。

 むむ。村上龍の『海の向こうで戦争がはじまる』みたいだな。ジリジリと灼ける海辺で、村上龍は沖合いにイリュージョンを映し出した。そのイリュージョンは、実は主人公の眼の中に実在するのである。塚本のこの歌も、「私」の眼の中にひでりが実在する。海のさなかに、円形に切り抜かれた砂地。海水が干上がり、アサリも息たえだえだ。

 こうして「私」は海辺にいる。沖のひでりが「私」の眼に映し出されている。その、灼熱の真昼間にもかかわらず、今は夜だ。沖のひでりは、「私」の眼の中にしか存在しない。その夜の、なかぞらをしきりに流れてゆくものがある。まるで火のように、オレンジ色の光芒を曳きながら。しかし流星というのは不思議なものです。だって、あんなに遠いものが、あんなスピードで落ちてゆくんだから。筆者も九十八年から九十九年にかけての冬に見ましたよ。流星群。そのときは奈良の郊外に住んでいたので、外は真っ暗だった。大阪の同僚は見えなかったと言っていた。筆者は存分楽しみました。方角が一定でないので、真上をずっと見ていましたね。西へ東へ南へ北へ。それはもう、原初の趣です。社会的な煩わしさなんて、ふっとんでしまいます。人間というのは、星を見るような、そういう裸の心で生きていって良いんじゃないか。どうして心に厚化粧しないといけないのか。当時はそんなことを考えました。

 さておき、その星が流れ去る「なかぞら」は、なさざる恋を抱えている空間だという。これはややこしくなってきました。眼の中には沖のひでりがあり、なかぞらには「なさざる恋」があふる。「なさざる恋」。片恋か。それとも両思いなのに擦違い、もしくは二人の間に障壁があるのか。筆者は、後者であると考える。片思いというのは、別段悲しくもなんともないのね。まず片思いの場合は相手のことを全然知らないといっても過言でない。知らない人への恋というのは、それがどんなにもの狂おしくても、たいした恋ではない。だから最も強い恋というのは、おそらく長年つれそった妻(夫)への恋だろう。茨木のり子は夫に先立たれたとき、本気であとを追おうとしたそうだ。

 そんなわけで何かの障壁がある二人。沖のひでりにいるのはパートナーである。「私」は、そでのさなかにいるパートナーを思いやって苦しいのである。その苦しい「私」のいる空間と、パートナーのいる沖合のひでりの空間を、赤い火の玉が引き裂くように通過してゆく。あの星は沖へむかって流れていくのか。それはわからない。ただこの苦しい引き裂かれ方を、流星よ、なんとかしてくれないか。ああ、流星よ。

 

●流れゆくなさざる恋を追いかけてバスは海辺を走りゆけども(きうい)

 

 

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幻視街まひる昏れつつ賣る薔薇の卵、雉子の芽、暗殺者の繭

【青き菊の主題】

 

 幻視する街。真昼なのに夜のように暗くなってきた。よくある話です。能楽なんかでも、幽霊かその類が登場する直前にわかに暗くなる。ピーヒョロロー笛ふきみだれ地謡が「さても不思議や暮れまじき、日にて候が、にわかにや、暮れるは何と、つかまつる::」ってか。

 その街で売られている(いや、「私」が売るのであろう)のが、薔薇の卵・・・って、おいおい。薔薇が卵なんぞ産むもんか。薔薇は卵生ではなくて、胎生だぞ・・・。ウソウソ。薔薇は種で増えます。種から育てるのは難しいので苗を買う。ウチにもあります。去年オールドローズという原種に近いものを枯らしたので、また四株植えた(むろん筆者が自分で植えたわけじゃないけど)。そのなかのミニ薔薇は一月だというのにもう咲いている。風呂の窓辺にハンギングで吊ったので、夜湯船からライトアップされてきれいですよ。

 さて薔薇の卵があるとしたら、もちろんそれは水栽培にするんである。口が大きな透明の壜を用意し、その中に卵を入れる。薄暗い場所に一ヶ月置いておくと、卵が割れて茎が伸びてくる。肥料はいりません。さらに一ヶ月すれば、花も咲きます。花が咲き終わったあとに、卵がなります。その卵は来年再び壜に入れて・・・。

 次に雉子の芽ねえ。雉子の種を植えると芽がでます。芽がふくらむと次第に左右両側へと羽が伸びてゆきます。中央の茎が最後にふくらんで顔になります。へその緒を切るように土から離れ、雉子は飛び立ちます。んなわけないな。

 暗殺者の繭。繭から人が生まれる。これはいいね。女性も産むのに苦労しなくていいし。あのウルトラQのカネゴンも繭から産まれたんだし。そうして死ぬときも繭にくるまれて死ぬのがいい。安部公房の「赤い繭」という短編小説で、自分が何者かわからなくなった主人公は糸にぐるぐるまきされて、最後に繭になってしまう。筆者も、晩年になって不治の病にかかったら、糸にぐるぐるまきされて繭になってしまいたいぞ。

 それにしても、こんなもの売る人は怪しい詐欺師か、地球侵略を目論む宇宙人か。神社の縁日や、お寺ののみの市。しかし、そうではない。ふつうの街が転じて昏れて幻の街となるんである。例えば駅舎とデパートの二階をつなぐ歩道橋兼広場。横でストリートアーティストがギターを弾いて歌っている。虚無僧、ティッシュ配布、宝石売りの外国人。彼らと並んで「私」は薔薇の卵を売る。すでに「私」の顔には黒い雲の翳りが射している。カップルが近寄ってきて、女の子が「薔薇の卵やて。いくら?」と聞いてくる。私は黙って薔薇の卵をさしだす。「だから、いくら?」「さしあげます」。「ほんまに薔薇でてくるう?」。「信じれば」。「信じなかったら?」「出てきません」。「どのくらいかかる?」。「一億年くらい」。「いいかげんにせい」。

 

●駅前のふいの夕立だれかこの俺を買ってはくれませんか(きうい)

 

 

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遠火事に言葉ひびかひあかときは地にころがる花花の燠

【青き菊の主題】

 

 「あかときは」とあるので、隠喩が構成される。「あかとき」イコール「地にころがる花花の燠」である。土地に転がっているのだから、この暁は地平間際の茜をさすのか。あるいは、広く台地に射し照らす曙光を言っているのか。確かに前者の方が「燠」らしく見えるが、後者の方がイメージが鮮烈である。また、花花と複数で語られていることも後者を推す理由になる。

 さて、今時の若い人は「燠」というものを見たことがあるだろうか。昨今はエネルギー革命の推進で石油・ガスが専らになった。薪や練炭が燃える場面は数少ない。わずかにキャンプファイヤーくらいであろうか。燠。木が燃えて、灰として燃え尽きる一歩手前。炎こそ出してないが、酸素呼吸はしている静かな燃焼。

 これはまさに滅びの美学であろう。この世の美の女王である花。その花に火が放たれ、燃え尽きようとする。その尽きる寸前に明滅する荒々しい呼吸。その赤い光こそ「燠」の美学の頂点である。その花花の赤い呼吸が、荒野に点々としている。きっと世界の終わりというのは、こうした鮮やかな色彩の元に進行するのだろうと思わせる。

 夕暮れに哀しみを見い出す人は多い。ただし夕暮れには、人を包み込む優しさがある。たとえ夕暮れがこの世の滅亡の予兆だとしても、私たちはちっとも慌てないに違いない。「ああ、もうそれで良い」と、カントみたいなことをつぶやくだろう。それに対して暁はどうだろうか。そもそも暁を見る機会はそれほど多くない。「花花の燠」と言わしめるような朝焼けは、太陽が地平に出る何十分も前のことなんである。すると夏などは四時くらいだ。起きているひとは少ない。それだけに偶々それを見てしまった人間は、焦燥感にかられる。実は朝焼けの滅亡感の方が逼迫している。優しくなど、ない。希望など根こそぎ毟り取られたような、引き裂かれた絶望がそこに、ある。それだけに、その美しさはギトギトしている。鋭利な美である。

 さて。ではどのような経緯で「花花の燠」が出現したのか。遠火事である。今「私」はここから遠火事を遠望している。「言葉ひびかひ」とある。この言葉は、遠火事の現場でひひがっているのか。それとも、ここ「私」の周囲でひびかっているのか。筆者は、火事の現場ではないかと推察する。おいおい、そんな遠くの言葉が聞こえるものか。それはそうだが、「私」はその喧騒を想像してしまうんである。そして実はここに二重の隠喩が構成される。遠火事の喧騒は、滅亡寸前の引き裂かれた美なのである。「私」は遠火事を見て、暁の滅亡の美を想起する。そしてそれはすなわち、花花の燠である。逆に言うと、花花の燠の中にも、「私」は滅亡への引き裂かれた叫びを聴いてしまう。ただし、そんな「私」の眼だけは、異様に沈着で、諦観に満ちていて、それで余計に燠は悲しいんである。

 

●東雲の散歩がてらに隕石の燠を拾って妻の土産に(きうい)

 

 

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われの髪膚にこの夕まぐれ北海の海苔の香のこし 僕失踪

【青き菊の主題】

 

 髪膚って、なんて読むんかなあ。短歌の音数から言えば、一音やけど・・・。しゃあない、読めんでも。ともかく夕闇が「われ」の頭に迫ってきているんでしょ。

 そんな「我」の陰鬱をよそに、しもべが失踪したという。失踪。ああ、何という良い響きだろう。失踪には甘い御香の匂いがする。むろん、失踪したあとが大変だということは重々承知している。だから失踪なんか、したくはない。ただ、失踪という文字を見て、心躍る気持になるのは、筆者だけではないだろう。筆者は昨年会社をやめた。その時の開放感たるや、ああ、なんと清清しいことだろうか。会社という組織に所属することをやめるだけでも、充分に良い気持を味わったんであるよ。

 さて、しもべが残したのはたった海苔の香。しかも北海の、なんである。北海って、あのイギリスとデンマークとノルウェーに囲まれた海域のことか。おいおい、北海で海苔採れるの?だいいち、ヨーロッパの人って海苔食べるんかいな。スープに浮かべるってか。クルトンみたいに?サンドイッチにはさむってか。ハムみたいに?

 では北海とは日本の北国のことだろうか。いや、それではつまんない。やはりデンマーク、でなければならぬよ。おそらく、しもべはユトランド半島の出身なのであろう。それを知っているからこそ、「われ」はしもべが残していったこの潮のにおいを「北海」と判定したのだ。むろん、しもべはユトランドの荒涼とした台地を離れてから数十年になるので、北海の匂いを隠し持っているわけではない。「われ」の先入観である。海苔もそうだ。日本人は潮の香りをかぐと、それを海苔と判定してしまう傾向がある。パブロフである。

 しもべが失踪したことで、「われ」は彼の出身地ユトランド半島をすぐさま想起した。彼は・・・故郷へ帰ったのかもしれない。自分は彼を頼りにしていた。だが、彼も齢七十になろうとしている。一度は捨てた故郷に帰りたくなるのも道理だろう。一言、残していってほしかった。自分と彼は、固い信頼で結ばれていたはずなんだが。「われ」の頭にはユトランドの荒野でいっぱいになる。微かに潮風。そういえば彼はいつも潮の匂いを漂わせていたっけ(そんなはずないけどね)。

「われ」の周囲にうすい闇がたちこめはじめる。自分はもうこの仕事を続けるこはできぬ。彼の存在がなければ、やっていくことはできぬ。いったい自分に何の不満があったというのか。実は、失踪する者よりも残される者の方がより一層の孤独にさらされる。だから安部公房の「砂の女」で可哀相なのは、閉じ込められた男ではなく、残された妻の方なのだ。男はよい。脱出することに打ち込めるから。しかし、残された妻は為すすべなく途方に暮れるのみだ。だからこの歌は、残された者の哀しみを徹底してうたっている。「われ」を襲う夕まぐれは、「われ」の心にも深い闇をもたらすのであった。

 

●ユトランド海苔を土産に故郷の荒地の木戸をたたくしもべは(きうい)