塚本邦雄 百首 4150

 

 

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冷えてゆく坩堝の金の溶液に沈みきらない魔術師のゆび

【水葬物語】

 

 坩堝。金属を溶かす鍋。すべてをゴッタ煮にしてしまう、という比喩にも使われる。その坩堝で、金がグツグツと煮えている。おいおい。そこに指をつっこむってか。熱いじゃん。火傷するでぇ。それとも、筆者は化学に弱いから知らんけど、金って溶点ひくいの?まさか五十度。それじゃあ、お風呂に金の指輪して入ったら、溶けちまうよ。

 というわけで、しかし、これは錬金術師のお話ではない。錬金術師なら、金でないものから金を生む。賢者の石とか、摩訶不思議な超能力を使う。すなわち化学、である。

 彼(彼女)は、魔術師である。トリックをお客さんに見せる商売だ。だからむろん、彼の前には大勢の観客がいる。彼の不思議なトリックを、今やおそしと待ち構えている。

「さあ、ではここに私の指があります。正真正銘の人間の指です。いいですか。お客さん、引っ張ってみてください。ほら、抜けません。私自身の指です。さて今ここに金を溶かしてあります。えっと。温度計ってください。三百二十度ですね。この中に私の指を沈めてみせます。」キャー、エー、ウソ―。

息を呑む音。静寂。その驚異のマジックの、一瞬を見逃してはならぬ。魔術師は、ひとつ間合いをとる。タイミングが難しい。一つのつもりが、二つになった。観客の息遣いが聞こえる。その息遣いを聞くうち、間合いが三つになり、四つになった。金は急速に冷え始める。魔術師は慌てて指をつっこむ。第一間接まで入ったところで、観客がどよめく。しかし、やんぬるかな。指につっかかりを感じた。急速にゲル状化する金を相手に、魔術師の指は進むことができない。再び沈黙する観客。

 俺の、さっきの逡巡はいったい、何だったのだろう。俺は今まで失敗などしたことがない。すべてタイミングよく、立ち回ってきた。今回は失敗だ。指は半分しか入ってない。

 人間は一つの疑いを際限もなく拡大してしまう動物だ。ひとつの間合いは予定通り。次の逡巡も、小さなミスにすぎない。小さな疑いは、ありのまま、小さな疑いだ。そのまま次へ進めば、何の問題もない。ところが、小さな疑いを大きな疑いにまで「見立て」ることから、強い引力が働きはじめる。魔術師としての全否定までしかねない力が、自分に働く。他の生命体は、本能という安全弁が備わっている。だから物事を小さくも大きくも見ることはない。人間だけは、物事をそのままに見ることをしない。いや、できないのかもしれない。人間は、他の生命にはない強い適応力を個々が身につけた。他の生命の適応力はその種全体の適応力だが、人間のそれは個人がもつ。個人の適応力が強く出すぎたとき、それは・・・。

 魔術師も観客も押し黙ったままだ。時間だけが過ぎてゆく。こうして俺は二つか三つの逡巡で、魔術師としての生命を断たれる。おい。何とか言ってくれ。

 

●夜逃げして旅また旅の魔術師が可愛がる猫 白い盆地へ(きうい)

 

 

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葦むらにつづく囚徒の列を見しそれからの骰子はいつも偶の目

【水葬物語】

 

 葦むら。大好きです。なぜこうも葦むらが大好きなのだろう。筆者は大河川の川べりで育った。川の氾濫原には、巨大な葦むらが広がっている。おそらく、その大きさが好きなのだろう。筆者は小心者だ。昔から、大きな人間になりたいと思ってきた。それはかなわず、ただ広い葦むらが好きなことだけが、今に残った。

 ただ多くの人は、葦むらに索漠とした印象をもつのではなかろうか。だから囚徒、なのである。囚徒の列は、葦むらの中を流刑地へと向かわねばならぬ。葦むらが桃源郷であふってはならないのだ。

主人公の「私」は葦むらの外から、それを見ている。自分が葦むらにいるわけではない。村はずれ。狩りでもしていたのだろうか。畑仕事の帰りだろうか。葦むらには、よほどのことがない限り、入ることはない。その葦むらに向かって、囚徒が続いている。どこへ行くのだろう。筆者は、なぜかそんなことにも、ドキドキを感じる。葦むらの向こうにある流刑地。海の断崖に臨む堅牢。おお。モンテクリスト伯か。巌窟王だな。彼はどうやって脱獄したんだったかな。それとも内陸の厳寒地の収容所。ソルジェニーツィンか。いずれにしても、視線は葦むらに「つづく」その向こうの土地を目指している。

 さて「私」は村へ帰り、いつもと同じ日常の中にいる。たまには悪さもする。賭博だ。それも村人にとっては日常の風景なのだ。こうした日常は、数百年続いている。何の変化もない。これからも、ありえない。こうして生き、こうして死んでいく。それが村の掟だ。

 しかし、「私」は気づいてしまう。最近いやに「偶」の目が多い。いや、「偶」ばかりだ。一度もハンになったことがない。統計学的には奇と偶、五割前後の確立のはずだ。地球にエントロピーが働いているなら、より五割に近づく。そうだ。あれを見てからだ。葦に入っていく囚徒の列。あれから「偶」の目しか、出ない。「私」は愕然とする。

 むろん、ハンも出ているはずなのだ。しかし「私」の目には「偶」の目しか見えない。誰かに聞いてもらえば、ハンも出ていることがわかるだろう。だが、これは「私」の秘密だ。だれに話してもいけないような気がする。

 あの時、「私」はこのままの日常に疑問を感じたのである。何か変化を望んだのである。囚徒。犯罪人。それでもいいではないか。この村から出ていけるのなら。むろん囚徒に自由は、ない。それでも「私」は囚徒に自由の影を見たのである。囚徒に妬みを感じたのである。自分より囚徒の方が大きな人間である気がした。こんなことを村人に話すわけにはゆかぬ。袋叩きに合うだろう。お前は村の何が気にいらんのじゃ。「私」は「偶」の目だけを追いながら、それはとりもなおさず、囚徒の列をひたすら追いかけることにほかならないのだった。

 

●ある日ふと葦むらをかき分けてみる すると巨大なフィヨルドひとつ(きうい)

 

 

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君と浴みし森の夕日がやはらかく捕虫網につつまれて忘られ

【水葬物語】

 

 切ないっス。これは切ないっスよ。「君」は少年でも少女でもよい。つまり「私」が男であっても女であっても、かまわない。小さいころの、ワンダーな子ども。失われたワンダー・チャイルドを思って、私たちはこの歌を泣くこと、しきりなのである。

 夕日を「ゆあみ」するという表現がまた、哀しい。そうだった。夕日とは浴みするものだった。しかも、森の夕日である。木漏れ日、であろう。もちろん、やわらかいに決まっている。言葉は、ない。切り株に座って、ただ気持ちよく君と夕日のお風呂に入っている。恋という実感も、ない。いっしょにいてることが、ただ気持いい。何もしゃべらなくても、森をくぐりぬけてきた夕日だけで君とつながっている。これは恋ではない。ここから恋へは発展してゆかぬ。恋とは別のなにものか、である。純粋に原始の人間と、人間との触れ合い。大人になったら、ほとんど稀有になってしまう人のつながり。

 そして、このような感覚は大人になって亡くなるのではない。忘れ去られてしまう、んである。捕虫網。昔はだれもが持っていた。昨今、虫を捕ることにも神経をつかう。やれ環境保護だ、残酷だ、とうるさい。子どもが虫を捕ることは、環境保護には関係ない。虫取りを環境保護のために禁止している人が平気で合成洗剤を使っている。ちなみに筆者の家には合成洗剤は一滴も置いてない。だから堂々と言う。子どもが虫を捕るのは、生態系として普遍のことである。残酷だ。そのとおり。生態系とは残酷なものだ。その生態系に興味深く侵入していくことこそ、子どもが生きるということの本質であろう。そういう過程を経てこそ、生き物を愛することができるようになる。人間や他の生命を慈しむことができるようになる。

 夕日だけで人とつながることができる関係。これもよく似ている。打算のない、生命と生命の接触。人間のワイルド性といってもよい。虫をつかまえて生命を直視する。君といっしょに夕日をゆあみする。人間のワイルド性は、年を経るにつれ捕虫網という儚い道具につつまれて、忘れられてしまう。何にでも興味をもっていた、あの頃。どんな野原や森にでも突き進んでいったあの頃。カブト虫の生態に夢中になったあの頃。

 人は社会の中で、適応過剰の生物になる。あるがままの生命体であることを徐々に放棄し、適応させられてゆく。適応しろ。適応しなければ生きていけないぞ。ウソである。適応しなくても、生きてゆけるのである。特に日本人は周囲への適応を重んじる。

 今からでも遅くない。私たちには、忘れていたはずのワイルドな生き方を取り戻す術が残されている。適応をしばし忘れて、私たちは一個の生命体としてのワイルドを取り戻そうよ。夕日を浴びてセミを追いかけた好奇心を取り戻そうよ。人に適応するのではなくて、原始のふれあいを人と交わそうよ。

 

●あの納屋の藁のにおいに置いてきたズル退けあとの君との午睡(きうい)

 

 

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卓上に芍薬、妻のくちびるはとほい鹹湖の暁の睡りを

【水葬物語】

 

 鹹湖とは塩水湖のこと。中央アジアや西アジアの乾燥帯、ステップ(草原)によく見られる。筆者はそんな鹹湖を訪れたことはない。だが、行ったつもりには、なっていた。子どものころ、大河川の氾濫原に巨大な葦原があった。葦をかきわけてゆくと、突然ぽっかり空の穴があいて、沼が姿を現す。それこそ、筆者の鹹湖なんであるよ。沼で遊ぶ時、筆者はシルクロードにいる気持になっている。おお。ロプノール湖よ(あれは鹹湖じゃなかったな)。さまよえる湖よ。おいおい君はヘディンか。

 さて、「私」の家は質素な洋館だ。だって、卓上ってテーブルじゃん。洋館が似合うよ。平屋建て。居間と寝室だけの。木造である。ほら、昔の小学校みたいな、木の洋館。ライトグリーンに塗装してある。庭は芝生。北側に百葉箱があり、中で風速計が回っている。

 そうして寝室、なのだ。小さなテーブルの上には、芍薬の花が花瓶に生けてある。芍薬が初句にどんとくるからには、それは自然光にやわらかく包まれたものでなければならない。つまり昼、である。午後、であろう。晴れてはいるが、寝室は北側なので直射日光はささない。窓から百葉箱が見える。「私」はベッドの側の椅子に腰掛け、妻の寝顔をながめている。おそらく妻は病気なのであろう。だからこそ、芍薬も生けてある。芍薬のほのかなにおいに誘われて、妻はいま午睡の中だ。

 妻の寝顔を見ていると、「私」は心安らかになる。もちろん病気のことは心配だ。もはや結核(おいおい。堀辰雄の時代じゃないんだぞ)が死にいたる病でないとはいえ、発作時の苦しさは目に余る。だが発作も間遠になりつつある。こうした午睡のひととき、「私」は少しだけ安心するのだ。芍薬の季節、さもあらばあれ、妻の額にはかすかな汗が。「私」はそっとタオルでぬぐいとる。

 と、そのとき。妻のくちびるに一瞬のあかつきが灯った。「私」はそれを見逃さない。もう四十年も連れ添っているのだ。妻は今、鹹湖にいる。たしかに、鹹湖のほとりで暁を見ている。鹹湖の夜明けが、妻のくちびるに映えているのである。

 ほう。鹹湖か。君は鹹湖にいるんだね。爽やかな朝かい。草原は露にまみれているかい。馬も羊もまだ目覚めてはいないだろう。君はもう起きているんだね。暁が見たかったのかい。僕ももうしばらく、朝焼けなんて見ていないよ。君のくちびるの夜明けが、久しぶりの暁だね。

 ふと妻の頬がゆるんだような気がした。君はきっと病気からやっと、自由になったんだね。ずいぶん長い戦いだったね。辛かっただろう。これから少しずつ、よくなっていくよ。無茶をしてはダメだが、もう病気に絡め捕られることはないだろう。自由になったんだよ。草原を走ってごらん。ゆっくりと。草の匂いが立ち昇るだろう。湖に映える希望のように。

 

●トマト入り冷やしスープとワッフルを草のにおいの妻の口へと(きうい)

 

 

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どこまでも坊やのさきへさきへ翔ぶ斑猫と慈善音楽会へ

【水葬物語】

 

 斑猫。ふわふわ、人の先を飛ぶあれだ。「みちおしえ」とも言う。畑道なんかによく、飛んでいます。だから都会のコンサートホールへの道なんかには、いてないはずなんだが。

 さて「坊や」である。「坊や」が斑猫につられて、あっちへ、そっちへ行ってしまう光景。さもありなん、である。うひははは。坊やは面白がる。なに、これ。つかまえようとすると、先へ先へよける。つかまえようとして、更に先へよける。おいおい。それじゃあ、亀に追いつけないアキレスのパラドックスだぜ。

 ここで問題がある。坊やは一人なのか。斑猫につられて、自然に「慈善音楽会」へ向かってしまうのか。それも面白いけどな。斑猫と一緒にコンサートホールへ入っていってしまうの。係員は一瞬とまどうけど、「あれ、ボク。おうちの人は?」坊やは斑猫を指差す。「ああ、もう中へ入ったのね。」それでベートーベン、聴くってか。

 そうではない。やはり坊やと慈善音楽会のあいだには、大きな隔絶がある。慈善音楽会。チャリティコンサートだね。今風にいうと。筆者も行きましたよ。亡き河島英五が阪神大震災のために毎年行っていたもの。だが、チャリティという意味は、坊やには決してわかろうはずがない。音楽はわかるだろう。筆者もソノシートで童謡やアニメソングなんかを聴いてましたよ。大杉久美子や堀江美津子。おお、アニソン歌手。口にするだに恥ずかしい名前。いかんせん、大杉久美子と寄付は結びつかんわね。

 だから慈善音楽会に行くのはパパとママ、である。パパとママは隣の集落の公会堂まで、慈善音楽会を聴きにゆくのである。ちょっと、おめかししてね。あれ。パパとママ、今日はオべべがちがいまちゅね。顔を赤らめるパパとママ。途中で近所の人に出会う。もちろん、慈善音楽会だ。だって回覧版で必ず行くようにって、載ってしまったんだもの。それでも、年に一度の楽しみだ。都会の歌手はチャリティでもなければ、なかなか来てくれない。だからホントは、慈善というより自分が楽しみたい。

 坊やは、そんな事情は知らない。外へ出るのはうれしい。畑の道をパパとママ一緒に歩くのは愉快だ。斑猫もいるしね。ふふ。今日は楽しくなりそうだ。でも、坊やは一抹の不安をおぼえる。パパとママの服がちがう。行く先はどこか。ボクは目的地でどう過ごせばよいの。以前、おじいちゃんにお寺へ連れて行ってもらったことがある。でも、おじいちゃんは坊さんと三時間も話をしていたんだよ。ボク、退屈しちゃった。知らない場所だし。あんな苦痛はなかったな。今度も、そうなるんじゃないか、って、ボクは思っている。だから斑猫について、どこまでもどこまでも行ってみたいんだ。

 坊やと両親のあいだに横たわるほろ苦い切なさ。誰にも思い出があるはずだ。こういう外部を不安として眺めつつ、坊やは大人になってゆくのであった。

 

●まだ僕が坊やであった頃の地図おとなの道に怖い伽藍が(きうい)

 

 

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夜更け地のどこか明るく風邪の子のしめりたる掌に肉桂匂ふ

                         【装飾楽句】

 

 夜更け。いいですねえ。と言うとまた、真面目な人から「早寝早起き!」と叱られる。かなわんですな。もちろん、早起きも素敵だ。なぜなら朝焼けが見られるから。しかし、夜更けも良い。夜更けには夜更けの良さがある。この歌は夜更けの詩情を見事に描ききっている。夜更け文学の最高峰といえるのではないか。

「どこか明るく」という言葉から、視点がかなり上空に設定されていることがわかる。夜更けの街を俯瞰しているのである。そして私たちの知らない街角の一角に、まだ燈がともっている家がある。むろんこの「明るく」というのを電灯というリアリティに還元しなくともよい。雰囲気が明るいととってもよい。

 そうして私たちの視線は、その家の一室にズームアップしていく。風邪の子が寝ているのである。風邪には睡眠が一番である。よく誤解されているが、風邪を治す薬というものはない。風邪の症状を抑える薬があるだけだ。だから総合感冒薬というのは、セキ・頭痛・鼻水などすべての症状に対応するという意味だ。風邪薬を発明したらノーベル賞と言われている所以である。ただし、誰もそんなものを発明する気はない。なぜなら風邪は寝ていれば治ってしまうからである。昨今、風邪に抗生物質を使うことが危険視されている。それはそうだ。抗生物質では治らないどころか、いらん耐性菌まで作ってしまう。

 こうして風邪を引くと、なるべく昼間でも眠った方がよい。だから逆に夜ねつかれぬことがある。そうして薄明かりをつけて熱を耐えている。おお。これだけでも、詩情あふるるではないか。風邪を引いたらもう、安心してよいのである。早く治らねばとか、人に迷惑かかるとか、考えなくてよいのである。風邪は免罪符だ。だから風邪には詩情がある。ここに本当の人生を垣間見る。では、いつもの日常は本当の人生ではないのか。ない。社会の規範に躍らされているだけだ。風邪を引いたときこそ、本当の人生が見える。

 だからこの歌の子には、幸福の影が見える。「しめりたる掌」。熱で湿っているのだろう。そんなときこそ人は肩の力が抜けて幸福になる。そこに肉桂が匂うとなれば、なおさらのことだ。シナモン。ああ、うっとりしますな。掌に匂うということは、浅田飴のニッキでも舐めたのか。それ以外にも様々な使い方がある。まず筆者がよくやるのはチャイ。鍋に牛乳と紅茶のパック、粗糖、シナモン、オールスパイス、クローブなどを入れて煮立てるだけ。妻がよく作ってくれるのは焼き林檎。シナモン、蜂蜜、レーズンが入っている。どちらも風邪のとき、ぐっとくる。

 そして再び、視点は夜更けの街へ戻ってくる。あの一つ、燈がともる部屋に、夜更けを味わう子どもがいる。夢うつつ。眠ってはいないが、熱のせいではっきり覚めてもいない。そんな子どもに、今後の幸福を祈ってあげたい気持になるのですよ。

 

●風邪の日はただ仰向けで聴く汽笛ボクを愛する人がどこかに(きうい)

 

 

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製粉所よりのびし電線、慈善病院と肉屋をつなぎ枯野へ

【装飾楽句】

 

 製粉所・慈善病院・肉屋。ほほう、建築物。村のアイテムですな。建築物には固有のポエジーがある。生活に密着したものと、生活からかけ離れたものでは、ポエジーには差がでてくる。

 まず製粉所。生活との距離感という点では、これは中間。筆者の故郷は酪農の町なので、集乳所がある。農家にとっては密接なものだが、関係ない人には何か異国的な情緒を誘うものとなる。筆者にとって集乳所の庭は遊び場なので、内なる空間である。しかし製粉所は異国的情緒の対象だ。まず、どんなものか知らない。好奇心が発動される。同時に不安でもある。つまり異国的建築物とは、「逃げたいけれども引き寄せられる磁場」といってよい。製粉所は、工場とはいえないまでも、かなりそれに近い施設であろう。中で機械が動いているのであろう。機械は怖い。大きければ大きいほど、怖い。製粉所のそれはきっと小さい。少し親しみやすい。子どもであれば、「敵側の基地」に見立てるかもしれない。

 次に慈善病院。そもそも病院とは日常から離れた異国的な空間である。その構造が迷路に満ちているうえ、白衣を来た権力が闊歩している。病院の迷宮性については安部公房が『密会』で暴いている。筆者が思うに、病院が迷路なのは通路に秘密がある。病棟をつなぐ通路、つまり渡り廊下が複雑になっているのだ。わざわざそうしているとしか思えない。悪意に満ちた空間である。ただし、ここでも「慈善病院」ということで、その恐怖は幾分やわらぐ。中間的な存在である。

 さて、肉屋。肉屋も子どもにとっては奥の巨大な冷蔵庫に何かが隠されているようで怖い。ところが同時に「ママ、肉屋によってよ」とねだる空間でもある。筆者は隣町の中央亭が特別の存在だった。ここのコロッケ・メンチ(関西でいうミンチカツ)・肉団子は、それはそれは、うまかった。中央亭は商店街から離れた、県道が野原にかかる場所にポツネンと建っていたから、何か屹立した神話的趣があった。これも中間的建築物だ。

 製粉所・慈善病院・肉屋。それぞれ怖い空間でありながら、実際の生活空間に親和する建築物だ。それを電線がつないでいる。ここに想起されるのは、素朴なふつうの村。シャガールが描いたような村の、ちょっとだけ異国的なアイテムなのだ。

 そして、最後にやっと人物が登場する。「枯野へ」とあるからには、人が村のはずれに立って、枯野の方をみやっていなければなるまい。青年である。なぜ枯野へ、なのか。それはこの青年が村の親和性に目を背けたいからであろう。であればこそ、彼は村の建築の中でも、なかば異国的なものに惹かれている。人は多かれ少なかれ異邦人でありたいと願っている。そんな人は、神社・郵便局・駄菓子屋よりも、製粉所・慈善病院・肉屋を好む。ただし完全には背けられないので、中間的な存在に拠るしかないのであった。

 

●ふところに枯野を入れて自転車をこぐ村々の橋々のうえ(きうい)

 

 

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将軍の聞こえぬ耳に繰りかへし雅歌ひびききぬ古代都市より

【装飾楽句】

 

 将軍。とっくに引退した老将であろう。ひねもす日向ぼっこしているのに、それでね軍服を着る。勲章のワッペンをいくつもつけて。週に一度は孫が遊びにくる。孫がくると昔の話をする。いかにワシの作戦が、うまかったか。孫は引いてしまう。よりつかなくなる。気難しくなる。それで何も聞こえないようにした。「聞こえぬ」というのは、身体的な老化でもあるが、一方で聞きたくなくなった、のであろう。過去の栄光と隔絶する社会の越えは、聞きたくはない、よね。

 こんな戯画風の将軍像はラテンアメリカ文学にけっこう多い。ラテンアメリカでは将軍という栄光の虚像が尾を引いていて、しかもそれが実際の退役将軍にもズバリ当てはまってしまうのだろうか。マルケスの退役将軍ならば、孫をハンモックに揺れながら迎えるにちがいない。

 ともかく、この将軍はひねもす、耳をふさぎ、遠くを見つめている。その耳に聴こえるのは唯、古代都市からの雅歌だけだというのだ。将軍は回想する。しかし、その回想はおのれが活躍していた五十年前から、さらに溯って三千年前の古代へといってしまった。おお。しかも雅歌、だ。「勝ってくるぞと勇ましく〜」ではないのだよ。ここに将軍の精神性が伺われる。

 もちろん雅歌は聴こえない。孫にも聴こえない。嫁にも聴こえない。雅歌は古代都市から将軍の身体だけに「響いて」くる。将軍の老いた皮膚が全身でそれを感知している。そして将軍は今のこの状況に、いたく満足している。もう戦争もしなくて、すむ。だれも戦争など好んでするものは、いない。ただ、戦場へ行かない官僚や閣僚だけが、まるで将棋の駒を動かすように戦争をしむけたい。われわれは、官僚や閣僚の玩具ではないのだ。雅歌。安寧の境地だ。銃をとることも、銃を取れと命令することもない。ワシの求めていたのは、ただ一つ安寧の境地だ。

 そうして古代都市、なんである。とっくに滅びてしまった廃墟。終わってしまった廃墟に人が魅せられるのはなにゆえであろうか。あきらめたい心、と答えたい。いま、せっぱつまった状況に身を引き裂かれていることに、人は疲れてしまう。「今を生きる」。なんとも倫理的な響きがするが、それは「常に引き裂かれてあれ」と言っているに等しい。人間は今を走らなくても、よい。日本人は特に「頑張れ」という言葉を好む非常に珍しい人種である。「頑張れ」という倫理観は東アジア特有かもしれない。印度欧州、アフリカ、太平洋、アメリカネイティブどこをとってもそんなマゾ的な感覚はない。

 そうして将軍は、「もうあきらめてもええよ」という宣託を古代都市の神殿から受け取るのであった。

 

●将軍の見えぬ瞼にありありと映るアリストパネスの喜劇(きうい)

 

 

49

遁れ来し騎兵を容れて青蔦のからむ石扉を匂やかに鎖し

【装飾楽句】

 

 この歌に文字として登場するのは「騎兵」のみ。その騎兵が遁れきたというんである。

いったいどこから遁れ来たのか。戦場か、あるいは軍隊という陳腐な組織であろう。そうした過去の背景を一気に拡大してしまうのが塚本邦雄の語法である。五七五七七の枠外にまで、描写の範囲がひろがっていく。その、脱走兵という過去を背負う騎兵。彼は結局、石扉の中に閉じ込められてしまうのであるが、ここで一つの重要な問題が浮上する。

 石扉を鎖したのは、いったい誰やね〜ん。ということだ。だから、この歌にはもう一人の登場人物がいなければ成立しない物語なのだ。36番を覚えていますか。男の子と描いてなくても、男の子は確かに存在していた。そしてこの歌も、書かれてはいないが石扉を鎖した人物が必ずや、いる。仮に「私」としよう。

騎兵は石扉の向こうに消えた。今この瞬間にすでに騎兵は、いない。「私」には見えない。「私」はついさっき、両手で石扉を鎖し、なおかつ石扉のこちら側で、異界へと消えた騎兵を見送っているのでなければならない。

さて、青蔦のからむ石扉。その向こうには何があるのか。過去の領域を拡大すると同時に、塚本邦雄は未来の領域をも拡大してしまう。むろん「私」にはその騎兵の未来が見えるわけではない。想像するしかない。闇黒。何もない虚無。宇宙空間。死に限りなく近いが、死ではない虚空。その虚空の入り口を飾る青蔦。それは内部の美と、純粋性と、そして閉鎖性を暗示させる。

騎兵はおそらく自らの意志で石扉の中へ入ったに違いない。脱走兵としての罪悪感。そしてそれに劣らず、甘い矜持。俺は組織を否定したのだという。遁れるものには、いつも甘い矜持の情感がつきまとっている。それでなければ遁れる力が湧くはずもなかろう。

だからこそ「匂やか」なのである。匂うのは鎖した人間の行動では、決してない。石扉の隙間から洩れ出てくる騎兵の矜持のむせかえるような甘さが、鎖した人間、つまり「私」に照射している。騎兵は、そんな粘液を私たちに浴びせかけて、幸福な暗闇へと滅び去ってしまった。

いったいどちらが罪人なのか。石扉の向こうへ追放された騎兵の心にはやましい一転の曇りもなく、そのプライドに満ち溢れている。一方の「私」は、どうか。石扉の前で死刑執行人としての苦い思いに揺すぶられなければならない。そこには明らかな妬みの感情がある。罪悪感と嫉妬に悶えながら、「私」は佇むしかない。

騎兵の遁れ来た「過去」と、騎兵の遁れ去った「未来」にはさまれて、「私」は永遠に続く現在で拷問を受けるのである。

 

●花香洩る石扉(いしど)を背負い平原(プレーンズ)へいつ果てるとも知れぬ巡礼(きうい)

 

 

50

火薬商たちの両掌はくつしたのやうにしづかに腐蝕してゆき

【装飾楽句】

 

 塚本邦雄は隠喩の名手であって、直喩を用いるのは(特に初期では)非常にめずらしい。ということは、直喩そのものに何か秘密が隠されているにちがいない。と読者を用心深くさせてしまうのは、彼がとてつもない魔術師で、怪しげな実験をしているオッチャンなのだから、仕方がない。

 そうなのである。この歌で比喩の部分はまちがいなく「くつしたのやうに」である。だから実際に「くつした」が存在するわけではない。リアルに存在するのは、「火薬商たちの両掌」の方であり、それを「くつした」が修飾している。では、修飾される語句は何か。「しづかに腐蝕してゆき」である。

 おいおい。てのひらが静かに腐蝕するか。そして何より、靴下が静かに腐蝕するか。「てのひら」も「くつした」も、静かに腐蝕する対象としては、妥当とは言いがたい。修飾するものと被修飾の側の隔絶以上に、両者の属性である「しづかに腐蝕してゆき」が不穏な響きをきかせている。

 こうなると、「火薬商たち」と「くつした」は、修飾・被修飾の従属関係ではなく、パラレルな対等の関係になってこよう。「やうに」は限りなく比喩の意味を剥奪されてしまうのだ。では、私たちは目の前に何を想起するか。くつした、であろう。この歌を読んですぐに、読者は自分のくつしたに手をやって、腐蝕が進んでいないかを確認するはずである。きっとあなたもそうしたにちがいない。おお。修飾節が主語をさしおいて、前面に登場するとは::。役者が入れ替わってしまったのですな。

 こうして私たちは、毎日、くつしたの腐蝕感を意識しながらでないと、歩けなくなる。意識過剰にもっていかれる。夕方、家に帰って靴下を脱ぐときの嫌な感じ。思わず匂いを嗅いでしまう。このにおいは腐蝕のせいであったのだな。洗濯機に放りこむのを確認して顔をしかめる娘。圧倒的に疎外されるくつしたの存在。

 そして遠くを見やれば、私たちを見やりつつ笑いをかみしめる一群がいる。そう、火薬商たちである。かつての主役であった火薬商たちは遠景から私たちを苦笑でもって、ながめている。ほら、とさしだす両掌は、確かに腐蝕している。だが彼らの目は余裕に満ちているではないか。なぜなのだ。こっちは真剣に悩んでいるというのに。腐食したくらいで、大騒ぎすることはない。人間はいつも何かを腐蝕させているではないか。

 そうだ。そういえば、くつしたにもポエジーがあるはずだった。いつのまに、私たちは靴下のポエジーを見捨ててしまったのだろうか。くつしたはクリスマスのプレゼントを容れる器であった。靴の縁を飾るインテリアであった。私たちは直喩という武器にだまされて、くつしたを疎外してしまった罪を償わなければならないのであった。

 

●くつしたが居間の方へと転がった唯それだけで生きる幸せ(きうい)