塚本邦雄 百首 3140

 

 

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軋みつつ背中の少女ゆすりゐる木馬、玩具の國にある危機

                           【水葬物語】

 

 木馬。「ゆすりゐる」とあるので回転木馬だろう。遊園地によくあるが、最初は単独で設置された遊戯だったらしい。ともあれ遊園地は、妖しい。ウルトラQのケムール人も、夜の遊園地に姿を現し、メリーゴーランドで佐原健二扮する万城目淳に化ける。巨大化したケムール人の後ろには観覧車が回っている。また、レイ・ブラッドベリにも遊園地を舞台にした短編があったはずだ。

 ここに登場する「少女」は、現実のリアルな人間だろう。そうであってこそ、木馬が「玩具の国」に危機感をもっている木馬とのミスマッチな手触りが生きてくる。この少女は何も知らない。ただ、純粋に楽しんでいる。外で手をふる母親、少女にカメラをむける父親もむろん、木馬の感情を知らない。さらに空間を延長すれば、ソフトクリームをなめているカップル、ジェットコースターに並んでいる高校生、そうしたすべての明るい人間たちは、気づいていない。

 そうした人間界と玩具の国との唯一の接点となるのが少女のお尻(いやらしく取らないでね)である。それと気づかない少女に、木馬は懸命に合図を送っている。SOS。お嬢さん。SOS。お嬢さん。いつもとちがう微妙な腰使い(いやらしく取らないでね)でそれとなく訴えているのだが、少女は笑ってはしゃぐばかり。

 このお尻の接点から、玩具の世界が急速に広がっていく。人間の少女が玩具の世界へ灰っていくお話に「くるみわり人形」がある。少女とくるみわり人形が、ネズミと戦うのね。これも一つの危機かもしれない。また、宇宙人が玩具を使って地球征服を企むのはウルトラセブン(アンドロイド0指令)。だが、この塚本の歌では、人間は玩具の世界に介入していかない。そこが余計リアリティにあふれていて、余計に危機感をあおる。この危機とはいったい、何なのだろうか。玩具の国とは、どのような広がりをもっているのだろうか。

 地球上のすべての玩具は、実は人間にはわからない表現手段を使って、コミュニケーションを取っているんである。人間の五感というのは、ある狭い範囲の現象だけをとらえるようになっている。その範囲がより狭くなると生活に支障をきたしてくるが、逆に広がっても困る。余計な知覚が多すぎると逆に煩わしい。その人間の知覚の範囲外でコミュニケーションを取るのが、こうもりであり、玩具である。これは例えばラジオやテレビと同じである。周波数を変えることで様々な放送が共存できる。おそらくこの玩具の周波数に他の生命が侵入を試みてきたのではなかろうか。例えばネズミの発する周波数と玩具のそれが一部重複すれば、玩具の情報がネズミにわかってしまう。その情報を元にネズミが玩具を来襲する::。

 お嬢さん、助けてください。あなたのリカちゃんもそう問いかけているかもしれません。

 

●浮き沈むさだめの風というなれど生きてほしいの回転木馬(きうい)

 

 

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陥穽を予知するゆびのなめらかなうごきに眩暈するチェスの騎士

【水葬物語】

 

 筆者は酔い症である。鉄道大好き、バス・飛行機・船すべて大好きなのに、乗り物酔いが激しい。もちろん既に克服した。克服はしたが、酔う感覚はいまだ体のどこかに残っている。この騎士も、酔ってしまったのだと思う。彼の眩暈を、筆者は同情する。

 速い。あまりにも速すぎる指の動き。筆者でもそんなに速く動かされたら、酔うであろう。チェスの場合はよく知らないが、将棋では数時間にわたる長考もまれではない。動いていない時間の方が、長い。その指が、なめらかに次へ次へと指しはじめる。

 異常事態発生。何かがおきたのだ。指は陥穽を予知、した。陥穽。すなわち、王を奪取される道筋。落とし穴。このまま進むと、かならずキングは奪取される。下り坂、といってもよい。棋士はキングを奪取するために、先の先を読む。先を読む能力に長けている。それだけに、奪取される道筋を読むこともできてしまうのだ。どうにもならん。はまってしまった。このままいくと、百手先で取られる。一度下りになった道を戻すのは、難しい。なされるがまま、だ。いきおい、指す手は速くなる。あがけばあがくほど、速くなる。

野球のピッチャーは、ピンチになるほど、投球の間合いを短くしてしまう。「投げ急ぎ」と解説者の福本豊は指摘する。目の前にネガティブな現実がある。無死満塁。すると人間は早く結果を見たいという心理になる。カーブか、ストレートか、内角か、外角か。そんなことを考えたくないのね。焦っているときは。○でも×でもよい。とにかく結果が見たいのだ。しかしそのことは、打者に有利に働く。打者は何も考えずに打席に立った方が良い。無心、である。カーブか、ストレートか。あれこれ迷うより、来た珠をガ―ンと打つ。余計、打たれるわね。しかし、ピッチャーなら自分の意志でゆっくり投げることもできるのだ。

 騎士の眩暈。チェスの騎士は、自らの意志で動くことができない。ただ操られているだけだ。自分を操る手の動きが急に速くなった。おお。チェスの騎士とは、神に操られる人間の謂ではないか。私たちも、自らの意志で幸福になれるわけではない。よく聞く。成功者の記事。努力が花ひらいた。冗談ではない。筆者の見るかぎり、努力しない人の方が幸せである。運、でしかない。アダム・スミスではないが、神の見えざる手だ。

 神も急ぐ。そう思う。いったん陥穽を予知すると、神も不安になる。不安は雪崩のように次の手を生み出す。大きな雪崩が、人間を陥穽におとしいれ、人間に眩暈をおこさせる。私たちはチェスの騎士でしかない。

 急に「なめらか」になった指の動きを察知するチェスの騎士。下り坂を転げるように不幸へむかっていく運命を、眩暈でもって受け入れざるをえない。そんな騎士の絶望を、私たちは他人事と笑っては済ませられないのだった。

 

●神の手を払いのけては自家製の地図ほりすすむチェスの騎士らは(きうい)

 

 

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夫人への招待状の封蝋はとけたまま、馭者のゆくへが知れぬ

【水葬物語】

 

なにやら事件を予感させる怪しい歌です。馭者の行方が知れぬという。だが、そもそも。夫人あての招待状が開封されたまま放置されている、ということは夫人もまた行方不明なのではないか。夫人と馭者の関係はいかに。招待状を見たのは夫人か、馭者か、それとも第三者か。以前、筆者はこの歌をエッセーで取り上げたことがある。そのとき、解釈として三つの歌を自作してみた。今回はその三首をもとに、推理を展開しよう。

 

●愛とはそんなものであったか馭者ねむる薬草園に秋は来にけり(きうい)

 

 そうなのである。夫人は馭者と不倫関係にあったのだ。「愛してるわ。」夫人は俺にそう言った。しかし、その言葉は何だったのか。若い伯爵からの招待状が届くやいなや、夫人は俺を毒殺して埋めた。今、夫人は伯爵との逢瀬を楽しんでいるはずだ。はや秋。毒薬を採取した薬草園には、もう毒草の姿はない。

 

●馭者わらう黒い賭場にて死装束の白きマダムが袖の柚子の香(きうい)

 

 そうなのである。夫人の裏切りを察知した馭者が夫人を絞殺してしまったんである。だからもちろん、招待状を見たのは馭者である。夫人からの求愛に答えた伯爵が、夫人にウィの返答を返したのが招待状なのだ。怪しげな地下の黒い賭場に夫人の遺体を運ぶ馭者。さあ、これからたっぷり、可愛がってあげるからね。柚子の香りをそっとふりかける馭者なのであった。

 

●脚を組むマダムエマニュエルの体型に椅子なる馭者のよくなじむまで(きうい)

 

 そうなのである。招待状は伯爵からの横槍であった。不倫の告発を兼ねて主人に出したものが招待状だったのだ。見たのはこの家の主人である。あやうし。夫人と馭者。このままでは、二人の愛は終わってしまう。そこで二人は妙案を考えついた。馭者を椅子の中に閉じ込めるのだ。ご存知、江戸川乱歩の「人間椅子」。椅子の革の表と裏で、二人は愛を結ぶ。かれこれ、一年がたった。もうそろそろ、馭者の体型が椅子にフィットし、夫人の座り心地もよくなってきた。夫人は毎日背中で、馭者の皮膚からエクスタシーを感じているのであった。

 

 

●秋空のピアッツァ街道ゆく馬車に夫人と御者は肩を抱き初め(きうい)

 

 

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割礼の前夜、霧ふる無花果樹の杜で少年同士ほほよせ

【水葬物語】

 

 割礼。チンポを包む皮を切るのである。おお。しかし、早いうちに切っておいた方が、いいかも。包茎のままやったら、何かとタイヘンだからね。

 さて、イスラム教やユダヤ教などで行われる割礼。衛生の面からとか、罪(けがれ)を取り除くためとか、いろいろ理由づけがなされる。しかし、やはりこれは通過儀礼(イニシエーション)とみて、さしつかえあるまい。理由なんて、ないのである。「今日からワシ達と同じ宗教の仲間じゃ」あるいは「今日からワシ達と同じ大人の仲間じゃ」という印であろう。そのために、痛い思いをしろ、という。

 さて、このようなイニシエーションは、日本にもいっぱいある。同じ共同体に入るときに、痛い思いをしろ、辛い思いをしろ、と先輩がいじめるのである。そこで確かに言えるのは、イニシエーションを経験してしまった人間は、それを必ず肯定的に捉えるということである。「あれは嫌やったなあ。後輩には、あんな目には合わせたくない」と考える人は、殊勝な、よくできた人間である。役に立っていなくても、いや役に立たないのが通過儀礼なのだが、役にたったと吹聴する。それはなぜか。

 まず第一に、辛いことを経てグループの成員になった自分を自慢したいからである。特に日本人というのは所属意識が強いから、難関をくぐりぬけて成員になれた、という自負をもちたがる。かつてのトップ高校に入学した人は、その後の入試システムの改変で母校の偏差値が下がることを極端にいやがる。マゾ、である。

 第二に、妬みである。日本人は楽をする人間を極端に妬む。楽をしてグループ成員になる人は「けしからぬ」奴なのである。自分が辛い思いをしたのだから、後輩も同じ目にあわんといかん。血を吐け。失神しろ。サド、である。

 だからイニシエーションは、決してなくならぬ。ただ、感性の豊かな人間だけが、もう止めたらいいのに::と思うし、後輩にもさせたくない::と思う。

 こうして明日、割礼で大人にならなければならない。もちろん大人になるのは、いやだ。めんどくさいもん。一方で、割礼というのは男になるための儀式である。男になる。それは単に自分が男という属性を備えて終わるものではない。女性という異文化と接触し、関係をもつ(やらしい意味じゃないよ)能力を備えなければならぬ。少年といえばギャングエイジ。男同士で遊ぶのが一番楽しい。すでに性交の意味は知っているが、遠い異文化の話、なのである。ハメッコなんて、めんどくせえ。と叫ぶのだ。

 こうして少年は、「霧ふる無花果樹の杜」でギャングとしての最後のノスタルジーを舐めあう。霧ふる無花果樹の杜。彼らが大切に守ってきた純潔の王国。あす瓦解する、それがわかっているからこそ、甘美な最後のふれあいにのぞむのであった。

 

●霧はれて儀式にむかう少年のほほの紅みが薄れゆきつつ(きうい)

 

 

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かりそめの恋をささやく玻璃窓にはるかな街の夜火事が映り

【水葬物語】

 

 火事。もちろん災難である、当事者にとっては。しかし、なぜこうも火事はエンターテインメントなのであろうか。フランスの哲学者ガストン・バシュラールは、炎は人間の癒しになることを説いた。ロウソクの火。私たちは寂しい夜に灯るキャンドルに幾度なぐさめられたことだろう。そして火事も、なのである。俳句では火事の名句がやたらに、多い。

●郷愁に似て遠火事を眺めけり(林翔)

 おいおい。火事とは郷愁、なのか。残酷なようだが、人類にとって偽らざる感慨だろう。人は火事が好きだ(自分の家でない限り)。大好きだ。火事を見ると心が和む。消防車のサイレンがなると、野次馬がくりだす。あれはだから、野次馬ではないのだ。人類の郷愁にかられて、心癒されにゆくのである。火を見たい、のである。キャンプファイアー、である。原始人、である。原始の人は火を炊いて、我がか弱き人類の行く末を哀しんだ。火は、人間が弱いことへの補償である。弱いから火を見る。火を見ると哀しくなる。火事は原始の暗黒への郷愁だったのである。

●暗黒や関東平野に火事一つ(金子兜太)

 そして、かりそめの恋。今夜かぎりの。二度とは来ない、恋。人はどうして残酷な恋をやめられないのだろうか。幸せな恋ができないのだろうか。

 その、かりそめの恋と平行して、夜火事がおこる。夜火事は、恋人たちとは別世界のできごとだ。だからそれはガラス窓にただ、映るだけ。ガラス窓を隔てて、火事と恋は隔絶している。恋人たちも、火事を見つめているわけではない。火事とは、そういうものだ。ただ、そこにある。アクシデントでも、わが身に及ぶものでもない。そこにあって、ただ哀しい。

 恋人たちも、ただそこにいる。手をつないで。ときおり、ささやきを交わすが、それも二言で途切れる。恋人たちは、ただそこにいるだけで哀しい。出会わなければよかった、と思う。その横で、ガラスに火事が映える。火事は、人間の哀しみに、いつも寄り添ってきた。哀しいときには、いつも側に火事がいてくれた。火事は、存在を主張しない。ただ、燃えているだけである。ただ燃えていて、それで人類の哀しみを共感してくれる。

 こうして翌朝、二人は駅で別れる。一人はバスに、一人は汽車に。汽車に乗った男は、やがて街を離れ、原野をすぎゆく窓から遠い焼けぼっくいを目にとめる。微かなにたなびく煙。恋とはいったい何であったのか。火事とはいったい何であったのか。今はもう彼女の顔も思い出せない。ただ、あの人の頬に、赤い夜火事が映っていた、そのことだけが、思い出される。恋もまた、火事のなせる郷愁の業であったのか。

●椿散るああなまぬるき昼の火事(富澤赤黄男)

 

●あの日からどこへ行っても玻璃窓に映る夜火事をさがしてばかり(きうい)

 

 

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象牙のカスタネットに彫りし花文字の マリオ 父の名 ゆくさき知れず

【水葬物語】

 

 マリオ。イタリア人っぽい名前である。日本人なら、毬男か。どちらにしても、男の名前だ。なぜなら、マリオは「父の名」だからである。そのマリオという名前が、象牙のカスタネットに、花文字で彫られているという。

 ところが、だ。その肝心のマリオは、「ゆくさきしれず」なんである。おいおい。唯一の登場人物が行方不明って、どういうこっちゃ。では、われわれは何をイメージすればよいと、いうのだろう。

 象牙のカスタネットしか、ない。私たちの視線はマリオという花文字が彫られたカスタネットに注がれる。いったい、それを持っているのは誰か。マリオは「父の名」だという。すなわち、カスタネットを持っているのは「マリオの子ども」、にほかならない。

 08番を思い出してほしい。「國籍のなき恋人」から想起される「私」とは、恋人の相手であった。塚本邦雄は、対になった言葉からもう一方の人物を想起させる技法の、達人である。「子ども」とは、一文字も書いてない。にもかかわらず、マリオを父と呼ぶからには、子ども以外ではありえないでしょ。もし「マリオ 妻の名」だったら、カスタネットを持っているのは夫、である。「マリオ 兄の名」だったら、それは妹か弟である。相方を記すことによって、当事者が特定される仕組みになっているのである。おそるべし、塚本のおっちゃん。

 さて、子どもは男の子であろうか。女の子であろうか。むろん、男の子である。行方不明になった父を追い忍ぶのは、必ず男の子である。女の子にとって、いない父に用はない。想像力で父の像を思っても、何の役にも立たない。一緒にいて守ってくれないなら、もはやポイ、なんである。

 男の子はちがう。男の子にとって父とは、生きる鏡である。それゆえ、どこにいても、行方不明であっても、その像は男の子に生きる力を与える。父ならどうするか。むしろ遠くにいる方がよい。同居してたら、嫌な面も見えてしまうもんね。

 こうして男の子は、ふだんから父の名を彫ったカスタネットをもち歩くようになった。少し不安になると。級友の輪からはずれてカスタネットを見る。OK。父はそう言っている。「おーい」。級友の呼ぶ声がする。男の子は笑顔で遊びの輪に戻る。

 母はとっくに父をあきらめて、隣町に住む。男の子はほとんど会いにいかない。もう親がいなくても、自立してやっていける。来年は首都の高校へ進学するつもりだ。ただ、精神的には父の面影が頼りであることに、かわりはない。優しかったが、優柔不断で、ひとつのことをやり遂げられなかった弱い父。だから出奔した。母に愛想をつかされた。それでも男の子にとって、父の像は生き伸びるうえでの支柱なのであった。

 

●コサックの町から町へ恋を売り愛を失う詐欺師マリオは(きうい)

 

 

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亡命の旅にしたがふ妃らがえりに縫ひこみわすれし耳環

                         【水葬物語】

 

「したがふ」というところに妃らの不満がよく表れている。足利義政の妻の日野富子や、日本の古代の女帝たちとは異質な性格である。特に里中満智子の「天上の虹」描くところの持統女帝は凄いですね。天武に「戦友」と呼ばれ、壬申の乱の前に一旦吉野へ落ちるのだが、耳環なぞもっていくとは到底思えない。

 だからもちろん、この妃たちは亡命なんぞ嫌なわけである。筆者も嫌である。権力なんか要らぬ。自宅で耳環をいじくっていたい。旅は逃げ隠れせずに、おもしろく行きたい。筆者はこの妃らに共感するのである。

「え〜。亡命。いやや、かなわんわ。堪忍してえや。」

 それでも仕方がない。残っていたら革命軍に何をされるかわからん。そんな脅しもあったであろう。唯一の抵抗が耳環を隠しもっていくことである。革命軍に見つかったからえらいことなので、襟に縫いこんでしまう。えへへへ。これでわからないでしょ、さしもの革命軍も。

 さて耳環とはイヤリングとか、ピアスとかか。ふむ。筆者は宝石が好きである。だから店でよくピアスなんかを物色する。といっても、自分でつける柄ではないので、ただ見るだけだ。貧乏というのもあるけど。それでいつも疑問に思うのは、ダイヤモンドは美しいかということである。ダイヤは美しくないと思う。色がない。ダイヤを愛する人は金額を愛する人ではないか。筆者は色を愛するので、ガラス球であっても美しいものは美しい。それで筆者が最も愛する宝石はクリソプレーズである。店員でも知らぬ人が多い。それでよい。あまり知られてしまうと高くなるからね。

 だから筆者はこの妃らに同調する。襟がふくらむほど縫い付けていってほしい。おいおい。鞭打ち症になるってか。それでもよい。惨めな亡命生活の無聊に多少とも慰めを与えるだろう。異国の地下に潜伏し、食べ物も意のままにならぬ空腹を、心で満たすことができるだろう。

 しかし「わすれし」とある。これはどうしたことだ。筆者なら絶対に忘れたりするもんか。執念で覚えておいてやる。毎晩、一個一個、何を縫いこんだか思い出してやる。トルコ石、ブルートパーズ、ラビス、珊瑚::。なぜ忘れ去ったんだろう。

 旅の疲れか。いや、疲れているときほど、宝石は威力を発揮するものだ。あの美しさは。逆に亡命生活は楽しかったのか。異国のアンシャンレジームたちに饗応されて、その悦楽に酔い溺れたか。それも違うだろう。妃らは、時間の中に朽ちてしまったのである。邯鄲にいうと、亡命に慣れてしまったのね。旅から旅。それに抵抗があった時は片時も忘れなかった耳環。しかし亡命が日常と化してしまえば、そこに異質な耳環の入る余地はないのであった。ほんとうは哀しいことなのだが::。

 

●愛をなお信じられないお妃に僕が命と耳環を贈ろう(きうい)

 

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ギタールと麒麟と少女消え去りし曲馬団のあとにさす朝の月

【水葬物語】

 

 ギタールって、何だ。ギターのことか。まあ、そういうことにしよう。

 曲馬団。いわゆるサーカスだろう。そのうち、ギター・麒麟・少女という三点が具体的な形象として、とりあげられている。いずれも、哀しいアイテムだ。トランペット・シンバル・ドラムス。幾多の楽器の中からギターが選ばれたわけ。ギターは哀しいメロディを弾くのにぴったりの道具である。「アルファンブラ宮殿の思い出」のトレモロが哀しいのは当然として、アランフェス協奏曲というコンチェルトでさえ、有名な第二楽章はおろか、アップテンポの第一楽章にも哀しい楔が入る。どちらもスペインの曲だ。スペインは自爆する民族だ。司馬遼太郎はスペインを酷評している。植民地から暴力で奪い取った金銀財宝を気前良く英仏に流してしまった国。さらにスペインにはイスラムが浸透しきっている。私の好きな曲に「アラビア奇想曲」がある。これも確かスペイン人の曲だ。スペインという実体は空洞で、そこにアラビアの風が吹いている。ギターはその哀しさの謂なのだ。

 麒麟も哀しい。自分を襲う暴力者におびえるうちに首が長くなってしまった(こりゃダーウィンじゃなくてラマルクだな)。その目は小さく、涙が常にあふれている。愛を受けて生まれてきたかった。それは君のせいじゃない。麒麟は、豹に狙われるのは自分が悪いからだと思い込んでいる。それでただ、哀しい目をして遠くをみつめている。豹に狙われるということでしか、自分を確認できない哀しさに、麒麟は戸惑っている。

 少女も哀しい存在だ。空中ブランコか、はたまた象つかいか。少女は自分の実存をいつも疑う存在である。少年はちがう。少年はギャングであることに満足している。少女は永遠に満足することのできぬ生物なのだ。オバチャンに変容するまで、少女の疑問形は続く。自分は何者なのか、と。

 ギター・麒麟・少女。三者に共通するのは、実体のあいまいさだ。実体への疑義だ。それは曲馬団という流浪の性質からも増幅される。「消え去りし」から想像できるのは、もちろん次の公演への旅立ちである。昨晩の楽日が終わったあと、夜っぴての移動を始めたのだろう。しかし私たちは、そうは思わない。ギターと麒麟と少女は、何か大掛かりな手品によって消されてしまったのだと、思う。伊勢物語で藤原高子は役人に連れ戻される。しかし私たちは今でも、あれは雷神が消してしまったのだと、思っている。藤原高子が露のように儚い存在であったように、ギターも麒麟も少女も実体の危うい存在なのだ。

 だから、朝の月は実体ではなくて、空洞を照らすのである。射す場所には何も、ない。ただ曲馬団のテントの跡があるのみである。昨日の喧騒がうそのようだ。テントの跡も、風に消された。そこにあるものを哀しむのはまだたやすい。そうではなく、本当に実体があるのかどうか、という疑念にこそ、朝の月は淡く淡く射し込むのであった。

 

●曲芸の少女にもらった手鏡に朝の月なぞ映してもみる(きうい)

 

 

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迷路ゆく媚薬売りらも榲桲の果を舐めてまた睡りにかへり

【水葬物語】

 

 ここには不思議な二重空間がある。ちょっと油断すると、おいてけぼりを食いますから、気をつけて、読んでください。

 まず登場人物は「媚薬売りら」。「ら」と複数で表示されているので、主人公ではないことがわかる。するとやはり「私」を設定しなければならない。素直に読めば、「媚薬売り」たちが、榲桲(カリンですね。これは)の実を舐めて、再び睡ってしまった。私はそれを見ている。ということになる。

 ところが、この歌には多くの疑問点があるのだ。まず「も」という助詞。まさか詠嘆のも」ではないだろう。「媚薬売りら」も舐めるということは、他にも舐めている人間がいてるわけだ。それは誰か。「私」か。迷路ゆく様々な人々か。

 次に「また」。再び、である。睡りにつくのは、これが初めてではなく、以前も眠っていたことを想起させる。むろん、睡らない人はいない。人は毎日のように睡る。しかし、この睡りは、普通の夜の睡眠とは別種のものと考えた方がよさそうだ。睡りに「かへり」とあるからだ。

 まさに、これは荘子の胡蝶の夢なのである。あるとき荘子が、蝶々の夢を見た。はて。これは荘子という人間が胡蝶の夢を見ているのだろうか。あるいは、胡蝶が夢で荘子になった夢を見、その夢から覚めたのであろうか。これは切実な問題であるよ。

 榲桲の実を舐めている空間を、仮に空間Aと呼ぶことにしよう。媚薬売りらは今、迷路のある空間Aにいる。そして榲桲を舐めることによって別種の空間Bへワープするのだ。そのワープを「睡りにかへり」と表現している。本来は、現実に生活している空間がホンマの空間で、睡りの中の空間は擬似空間だ。しかし見よ、「また睡りにかへり」。これではまるで、睡りの向こうにある空間Bがホントの空間のごとし、ではないか。

 これはちょっと、恐ろしいですよ。今ここに見えている世界が、実はニセモノである。怪しげな迷路をゆきかう商人たち。モロッコのフェズなんかを想像してみるとよい。あるいはシルクロードのキャラバン都市か。鼻をつく香辛料。でも、でも。今ここに見えているじゃん。なぜこれがニセモノなのか。では、睡りの向こうにある本物の世界とは、いったいどんな世界か。いきなり戦国時代が出現する、とか。言葉の通じない国に放り出されるのはいいとして、それが火星であったりするのは、困る。

 しかし、もっと恐ろしいことがある。「媚薬売りらも」。「も」から、自分が抜けていたらどうなるか。迷宮都市の人々全員が、次々と榲桲を舐めて睡りの向こうに還ってしまう。すると、あれほどの喧騒はうそのように消えて、私だけが迷路に取り残されるのだ。私は慌てて榲桲を舐める。舐めても舐めても睡れない。こうして私は荘子の胡蝶になる。

 

●十字路でさっき見かけたバス停に向かう荘子のうしろ姿を(きうい)

 

 

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夕映の円塔からあとをつけて来た少女を見うしなふ環状路

【水葬物語】

 

 これも不思議な都市ですね。やはりキリコとか、バルテュスとかを思います。都市を見立てるのは楽しい。筆者は子どものころ、画用紙に都市の地図を描いて遊んだ。道路を交差させ、鉄道を敷き、建築物を加えてゆく。友人に好みの土地を分譲し、Y邸とか記入してもらう。昔から架空の都市が好きだったのね。だから架空の地理をえがいた絵画も偏愛する。ほかにデルボーとか。

 さて、円塔とか環状路がある架空の都市。デルボーの絵には、黒い服を来た画家自身がよく登場する。この歌も「私」の存在なしには物語を紡ぎえない。そしてここに、またしても謎の言葉がある。「あとをつけて来た」。おいおい。誰が誰のあとをつけるのか。「少女を見うしなふ」ところから考えると、私が少女のあとをつけてきた、に違いない。そして筆者は、十年以上そう読んできた。

 しかし、あとをつけて「来た」である。「来た」というのは、こちらへ向かってくることを意味する。もし私が少女のあとをつけるのなら、「つけてゆく」でなければならぬ。ゆえに、少女が私のあとをつけて「来た」ととるしかない。

 私は今日の午すぎから、円塔で開催中の未来派美術展を見にいった。その少女も、同じギャラリーにいた。平日のせいもあって客はまばらだったので、よく覚えている。閉館間際になって私はギャラリーをあとにした。ふと、何気なしに振り返ると、あの少女がついてくる。初めは偶然かと思った。しかし二十分も同じ道をとなると、いかにも不自然だ。しかも私が振り向くと彼女は隠れてしまうのだ。いったい何のために? 私はちょっと愉快な気持になった。人は害のない謎にたわむれたいのだ。美術館を訪れるという非日常的な時間にあっては、それがなおさらであろう。

 私は歩をゆるめたり、逆に急いだり、変化をつけて楽しむ余裕すらあった。家路を真直ぐたどらないで、迂回もしてみた。それでも少女はついてくる。ふふ。私は笑みを浮かべながら、歩いた。

 さて家路へと進路を修正したとたんであった。少女の姿が見えないのである。私は急に心配になった。暮もおしせまっている。ちょうど環状路にさしかかったところ。鉄道の駅もない。人影もまばらだ。迷ったのだろうか。彼女の家はどこなのだろう。私と歩いていて迷子になったのなら、可哀相なことをした。私はもう一度、今までのルートを溯ってみることにした。いない、のである。私は汗だくになって探し回った。そこの電柱の翳から、ひょっと出てきてくれることを切に祈った。

 終わらないゲームに、私ははまってしまった。迷子になったのは、私の方だった。私はもはや家に帰ることもできずに、永遠の環状路で少女を探しつづける。

 

●我とかの少女をつなぐ迂回路に攻めしのび寄る夕映えの翳(きうい)