塚本邦雄 百首 2130

 

 

21

夜会の燈とほく隔ててたそがるる野に黒蝶のゆくしるべせよ

【水葬物語】

 

 短歌は途中で一回切れます。五七五で切れるのを三句切れといい、最も多い。次に多いのが二句切れ、初句切れは新古今集に多い。四句切れはさらに少ない。そして、これは。なんと、四句の先の五句目の途中で切れている。「しるべせよ」だけが下句だ。幾千もの短歌を読んできた筆者であるが、五句の中間切れというのはほとんど例がない。実は次の22番も同様である。「森は冬」だけが下句である。

 さて、夜会。パーティですな。うまいものも、供されているのだろう。ダンスの音楽もいずれ始まるのだろう。カクテル、いかがですか。うむ、いただこうか。喧騒とライトアップ。華やかなドレスアップ。少し話は変わるが、ビスコンティの「山猫」という映画。あれ、夜会の場面ながすぎやしませんか。げんなり。筆者は短いのが好きです。俳句が一番好きです。長いのはやめてください。

 というわけで、映画さながらレンズがグーっと、引いてゆく。そうすると「夜会の燈」という表現になる。つまり、外から(庭もしくは葡萄園あたりから)夜会を撮っているのね。ゲストたちの会話も、人物は映しだされなくて、喧騒だけがマイクにひろわれる。

 そして。キャメラはさらにさらに引いていく。おいおい、どんな特撮してるんだ。夜会が開かれている屋敷はどんどん小さくなり、豆ほどの燈、になってしまう。そして森の中にその燈も、消える。

 一転、原野である。森の中の屋敷では気がつかなかったが、いまだ丸っきりの闇夜ではなかったのだ。西の地平近くにはかすかな茜が横に棚引いて、いる。ただし、上空は真っ暗だ。太陽はとっくに沈んでいる。筆者は夕暮れ大好きなので、よくわかる。まず空が真っ赤に燃え上がる夕焼けは、実はあれは太陽が沈んでしばらくしてからでないと、出現しない。赤がやがて急速にライトグリーンに変化する過程で、一瞬だけ朱がボッと燃え、そのあと茜が棚引くんである。

 その幽かな光の中を、黒蝶が低空飛行している。黒蝶、である。棚引く茜では見えるはずが、ない。萱の原野にまぎれてしまうではないか。「ゆく」であるから、その辺を周回しているのではない。ひたすら何かに向かって飛んでいる。そのダンディな姿。舞い上がって、高い場所を飛べば、おそらく茜の光にその姿を現すであろう。しかし黒蝶はあくまで低空飛行を淡々と続ける。

 しるべせよ。案内してくれ。誰が誰に言っているのか。黒蝶の激白であるか。そうではない。私(たち)が黒蝶に激白するんである。黒蝶が向かう場所。夜会とは別の、孤独な美の世界。金では買えないオシャレの世界。黒蝶よ、私をそこへ連れていっておくれ。

 筆者もついていきたいよお。

 

●喧騒のあとの臥処の暗闇と夢の境を越える黒蝶(きうい)

 

 

22

かへりこぬ牡の鵞鳥をにくみゐし少女も母となり森は冬

【水葬物語】

 

 少女は、牡の鵞鳥を飼っていたのだろう。少女が住んでいるのは、農業と牧畜と狩猟が隣接するような、起伏のある地域だ。丘で羊を飼い、盆地で麦を栽培し、森でうさぎを狩るような。だから、ひょんなことから鵞鳥が逃げてしまったとしても、不思議ではない。マンションで亀を飼うのとは、わけがちがう。筆者の実家も巨大なウサギを飼っていたが、ある日逃げられてしまった。かのウサギは近所の畑を荒らしまわったあと、ゆくさき知れず、になった。おおかた、村中の畑を転々したのだろう。今ごろ、幾百里も離れた山脈までたどりついて、老いを享受しているやもしれぬ。

 裏切られた、と少女は思った。少女も、「見立て」を生きている。少年が運転手になたつもりで自転車をこぐのと同様に、少女は母になったつもりで鵞鳥を育てる。「ママごと」という言葉の所以である。だから鵞鳥は我が子、なのだ。我が子はかならず出奔する。子は親を捨てなければ、生きてゆけぬからだ。親の価値観のなかで安住できる性格の子はよろしい。そうでない子は親の懐を出ねば、苦しくてしかたがない。

 一方の親は、子は自分のものという感覚があるから、出ていくのは許しがたい。子は自分の圏内にいるべき、と思う。教師というものは、自分の教育の圏外で成績を伸ばす子どもを憎む。教師は、自分の「おかげ」で成績を伸ばしてほしいんである。だから、宿題をやってこないのに成績が上がる生徒は、教師に憎まれる。私は塾で教えていたから、これはホントの話です。同様に親の圏外で成長する子どもは、親に憎まれる。できない子ほど可愛い、というのは本当だ。親は自分の「おかげ」で成長してほしい、のである。親の圏外で、親以上に成長する子を、親は憎む。

 そうした機軸を少女は、はやくも少女時代に経験してしまった。憎しみは、その後もずっと胸の奥でくすぶった。くすぶりつつ、少女は大人になり、本当の親になる。

 ここで、「森は冬」という下句はほんとうに味わい深い。結論から言うなら、少女は穏やかな母になった。「森」も「冬」も穏やかさをイメージさせる。かつての憎しみは、人格全体のなかに包括されてしまった、と言ってよい。憎しみを捨てたのではない。それを含めて、少女は全体を見渡せる豊かな視線を獲得したのだ。

 彼女の子どもも、いずれは「かへりこぬ」運命にある。彼女も、かつての経験のなかでそれをよく知っている。知っていて、もはや慌てることはしない。森に夏が来て、また冬がきて、いくつもそれを繰り返す。彼女の心は、冬の森のように懐が深い。たとえ、我が子が出奔しようとも、冬の森が彼女のふるさとである限り、生きていけるに違いない。

 しんしんと雪はふる。生き物はゆったりと休息をとり、針葉樹がそれを大らかに見守る。苔の下で土は温かく体を丸める。少女の家の窓から、今年も森の冬が見える。

 

●母はいま笑顔で炊事ときとして背中でうずく牡の鵞鳥が(きうい)

 

 

23

雪の夜の浴室で愛されてゐた黒いたまごがゆくへふめいに

【水葬物語】

 

「行方不明」になる物語は、塚本邦雄にかなり多い。行方不明という言葉には触発される何かが、ある。なぜ人々は、「行方不明」にあこがれるのだろうか。行方不明は、人間の根本的な情動である可能性が強い。水上勉の『雁の寺』で、殺人犯は著者自身も知らぬという行方不明になる。それは続編でも続々編でも同じだ。あまつさえ最終編では「今度こそ絶対知らない」と強調している。安部公房も、行方不明に執着する作家だ。行方不明はそんなにも居心地がよいのか。自分が誰にも知られぬ「誰か」になること。安部公房はそれを「匿名」と言っている。それはあまりにも密になりすぎた人間関係に原因があるのではないか。「人は一人では生きていけない」ことがあまりにも強調されすぎていないか。その結果、他人によって自分を規定されてしまうような息苦しさがおこる。それでは行方不明になりたいと思うのも、むべなることであろう。

 さて。行方不明になったのは「卵」だという。おいおい。卵が歩けるか。もちろん誘拐、かもしれない。なにやら高価そうな「黒いたまご」だから盗まれても不思議ではない。黒い真珠こと、キャビアか。

 そうではない。「たまご」と仮名で書くからには、あのツルツルと滑るような楕円形のそれである。そして、「愛されてゐた」とあるからには、何者か第三者が誘拐したと考えるよりは、自発的に遁走した方がしっくりくる。なにより、誘拐は行方不明ではない。犯人が知っているじゃないか。「たまご」は何かの心理的葛藤の末に出奔したにちがいない。

 ではなぜ、たまごは行方をくらましたのか。「雪の夜の浴室で愛」する。フェテシズムのにおいプンプンですな。ものを愛すという心理。そこには絶えざる自己愛の反映が、ある。自己愛の強い人間は、自分で自分の肌をなでるわけにはゆかないので、自分を「もの」に置き換える。「もの」をなでることで、自分をなでる代わりにする。逆を考えてみる。自己愛がもてない人は、ものに執着できない。すぐものをなくす。ものをもっていたくないので、すぐ人にあげてしまう。むろん両者の葛藤で悩む人もいる。ものを大切にしたいのに、どうしてもできない人。それは先天的にもっていた自己愛を他人に破壊されてしまった人である。

 この歌の「たまご」を愛していた人は、自己愛人間である。「たまご」は、自分が愛されていたのではないことを知っていた。あの人は私(たまご)を通じて自分を愛していたんだ。だから「たまご」は出奔した。「たまご」は、出奔することで自分の実存を確保したと言えるだろう。

 こうして初めてその人は、たまごが雪の中で凍えていないかを心配するのであった。

 

●誰のとも知れぬ或るとき浅草の広い野原に黒い卵が(きうい)

 

 

24

百合が港に売られある日日、溺死人見物につづくマダムも僧も

【水葬物語】

 

 百合。多いですな。塚本邦雄は百合を多用する。何かの象徴か。そうだとしても、筆者はそれに与しない。あくまでも、リアリズムでいく。

 港、が物語の現場である。港では百合が売られている。港をいくつも訪れた筆者も、百合が売られているのを見たことがない。港で売られているのは海産物、だろう。若狭の小浜港で飲んだ味噌汁は、うまかったなあ。魚のダシがめちゃ効いていて。ただ、島とかの場合は、島の特産物が売られていることも多い。地中海のある港では、海とは関係ないナッツを売っていた。だからこれは、港の物語というより、港をふくめた後背地まるごとの物語といえるだろう。港町、のお話なのである。

 だからこそ、街の方からマダムや僧が駆けつける。その街の中核になっているのが港、なのだ。百合が港で売られている風景は、とりもなおさず、港町全体を俯瞰してのことと、言える。私たちは、港のみならず、斜面にギューギュー建てられた緑や赤のアパート群を思い浮かべる必要があるし、市庁舎前の広場でソフトクームをなめるカップルも視野にとらえなければならない。

 その港町。百合が売られているというのだから、日常生活はつつがなく行われているのだろう。しかし、の溺死人だ。筆者は一度、溺死人に出くわしたことがある。大阪港、サントリー美術館。筆者は海遊館の側からではなくて、いつも海側、つまり海上警察の前を通ってサントリー美術館へ入る。そのとき!ポリスが「ちょっと待って」。溺死人が上がったのでここを通過するというのである。おお。足がすくんだよ。

 そんな日常と事件が交差する街。これはやはり、ラテンアメリカ文学を思わざるをえません。あの魔術的リアリズム。日常と事件が平気で混在する世界。たとえば、南米文学では、人間が二十センチ浮かび上がったとしても、特に驚きもせぬのであるよ。日常生活は平然と進行する。溺死人が上がっても、日常とのあいだに隔壁は築かれないから、それを見物しようとする人々が、でてくる。溺死人見物は日常の一環の中で、特殊ではなく普遍として扱われる。

 このような空間を、平和といってよいのか、戦場といってよいのか。おそらく、どちらでもない。あるがままの空間だ。人間が生活する場所には、日常の時間と、事件の時間がある。現代のほとんどの地域では、日常と事件の時空は、区別されて認識される。阪神大震災やテロでビルが破壊されれば、ああ、これは事件の時空だと認識されるのである。

 そうではなく、両者に認識の差がない時空。それがこの歌の港町なのであり、南米文学の姿なのだ。マダムにも僧にも「えらいこっちゃ」という感想はない。「いつものことだけど」まあ行ってみるか。それゆえ今日も明日も、百合は売られ続けるのである。

 

●マダムとて僧とて今日の退屈を港にはらす明日はわが身の(きうい)

 

 

25

水死者のゆびにまつはる一枚の荒地の地図にある私娼窟

【水葬物語】

 

 また水死者、ですか。こう続くといやになりますね。む、これは完全な事件です、はい。よくあるでしょ。えっと。ダイイング・メッセージやったかな。被害者が残した、いまわわの際に犯人指定暗号を示す。ダイイングメッセージの有名な作品に『Xの悲劇』がある。エラリー・クイーン作。もちろん『Yの悲劇』の方が傑作だし、クイーンを『Xの悲劇』で評価してはいけないのかもしれない。しかし、ですよ。何ですか。あのダイイングメッセージは。指でXの文字をつくる。そのXとは犯人の職業を示していたんですね。電車の車掌が犯人だったんです(ああ、ばらしちゃったよ、犯人)。けれど、これは現代っ子が読んだら、ワケわかりませんね。いまどきの電車の車掌は、切符切りのハサミは使いません。筆者の年代が最後ではないですか。あれを使っている車掌を見たのは。昔はXの形をしたこのハサミは、おもちゃにもなっていました。電車ごっこセットといってね。

 さて。指に一枚の地図がからんでいた、というのである。これもよくある推理ドラマだ。

「山さん、これ::。」「む。地図か。ボス、これは犯人の手がかりになるかと::」

 おいおい。よりによって「太陽にほえろ」かよ。というわけで、山村刑事の推理。

 被害者は男。地図を握っていた。地図の場所はほとんどが、荒地。都市でも農村でも山地でもない。およそ役に立たぬ地図だ。それゆえ、そこに記されている私娼窟は、いやがうえにも目を引く。私娼窟のために作られた地図といっても過言ではない。私娼窟を利用するための、一種の手引きになっている可能性もある。被害者の男は、この私娼窟に何らかの関係があるのか。利用者、主催者、店員、あるいは売春防止法で内偵を進めていた地元警察のデカ。あるいは娼婦を助け出そうとした元彼。とにかく、その私娼窟を探しださなければ。しかし、荒地だけでは見当もつかぬ。地図の下絵には国土地理院の地形図を使ったらしい。薄く等高線が見えている。この中に何か手がかりはないのか。

 どうやら鍾乳洞がいくつかある。とすれば石灰岩の丘陵地帯だ。荒地が多いのは、いったん開発が行われて、その後廃業したからにちがいない。石灰岩とくればセメントか。セメント工場のあとが、荒地として残っている。その中に、堅牢な洞窟があって、私娼窟として使われている。何の看板も掲げられてはいない。地図を読みながら訪ねあてるしかない。中へ入っても誰もいない。正規の契約を結んだ人が予約をした場合にのみ、営業を行うしくみになっている。こうして荒地の洞窟にふみこんだ山村刑事は、はたと困惑する。

「ひょっとして俺はもうここから現実世界には戻れないのではないか。」

 そうです。私娼窟にたたずむ山村刑事。露口茂。行方不明。13番であれほど注意したはずだ。塚本邦雄は読者を孤独に陥れる天才だと。水死者などもはや関係ない。糸のもつれから私娼窟を訪れた読者は、二度と戻れぬ幻想の地へ閉じ込められる。

 

●一枚の地図の荒地の鉱山の駅前案内係りの私(きうい)

 

 

26

くりかへし翔べぬ天使に読みきかす―白葡萄醋酸製法秘伝

【水葬物語】

 

 切ないです。悲しいです。天使が翔べぬことではありませぬ。翔べぬ天使にわけのわからぬ秘伝なんぞを「くりかへし」読みきかすことです。塚本邦雄の歌の中で、最も切ない一首です。

 翔べぬ天使。よいではないか。何があかんのですか。地上で、奢ることなく、地道に、目立たぬように、伝道する。そんな天使がいても、よいではないか。天使には天使なりの生き方があって、よい。人には人なりの生き方があってよいのと、同様に。天使は翔ぶべきだ、ってか。「べき」って、何なのさ。だれが決めたん。おっちゃんは怒るでぇ。

 しかも、だ。白葡萄醋酸製法秘伝って。何だ、そりゃ。ワインビネガーか。秘法だなんて、もったいぶるところを見ると、バルサミコ酢みたいな高級品か。そんな方法なんて、だれも望まない。まず、方法というのが嫌いだ。生き方に方法も糞も、ない。方法を伝授するという行為ほど、胡散臭いものはない。天使や人間に必要なのは、方法ではなく、ただ「在る」ということだ。生きているだけで、よい。翔べぬでもよい。

 読みきかす、おお。ノー。この説経くささ。たまらんね。説経する教師、説教する親。これほど御下劣なものはほかにない。学校にも塾にも説経する教師がいる。お前は生徒よりスゴイんか。自分の意に添わぬ子に説教する親がいる。あんたは子どもよりスゴイんか。俺はそうは思わんよ。教師や親は、自分の優越を確かめるために説経しているだけだ。自分の存在価値が危ういから、子どもを見下して「ほら、君はこんなにダメな人間なのだよ。しっかりしなさい。」と言うのだ。俺にはそれが物凄くよくわかるよ。それを聞いた子どもは、自分に自信がもてなくなるのだ。子どものワンダーな世界観は、無限の広がりをもつ。それを教師や親が、教師自身・親自身の利益のために、破壊しているのだ。

 そうした説経を聞いていると、まるで白葡萄醋酸製法秘伝みたいだ。子どもには、何の役にも立たない。ただ、教師や親の目だけが輝いている。教師や親だけが、良い気持ちになっている。どうだ。私は子どものために生きる方法を教えてあげているのだ。しかし、それは違う。説経の言葉は、子どもには届かなくて、教師や親の耳にのみ還ってくる。自分の声を聞いた教師や親が、うっとりと酔う。しかも「くりかへし」だ。子どもは、「くりかへし」言ってあげないとわかりませんからね。うへっ。

 天使よ。翔べなくて良いのです。ありのままで、良いのです。君は教師や親の期待にこたえなくてよいのです。そのままで愛される価値があります。そのままで生きていく価値があります。特別な方法というものはありません。ただ、ただ、生きているだけで良いのです。ただ、ただ、生きのびてください。ああ、天使よ。生きてください。

 この歌は、御下劣な教師や親を歌ったものと考えると、驚くほどぴったりくる。

 

●死に際の教師が悟る天使だに人はもとより翔べぬということ(きうい)

 

 

27

円柱のかさなる翳をくぐり来て火口湖に昨夜の死蝶をながす

【水葬物語】

 

 円柱のかさなる翳。う〜ん。未来派か。キリコか。宮殿。黄色い円柱。伸びる翳。遠くで汽車が走っている。女の子が走っている。まさにキリコの世界だ。とすれば、「くぐり来」たのは少女にちがいない。

 キリコだとすれば、イタリアだ。イタリアには火山も多い。登山電車ができたので、ゆけるよ、ゆけるよ。行こう行こう火の山へフニクリフニクラ。ベスビオ火山ですな。今は登山電車は廃止されてしまったが、ローマの昔。プリニウスを直撃した爆発があった。火口湖があるかどうかは知らぬが、イタリアならあってもおかしくない。

 さて。円柱のかさなる不思議な街。「くぐり着て」という表現が、「逃げてくる」という印象をよびおこす。逃げてくる理由は下句からさぐるとして。走っても走っても追いかけてくる円柱を、ふりきるように少女は火山へと抜けだしてきた。

 そうして、火口湖。登山道から礫の多い稜線へ出る。おそらく生成浅い火口湖だろう。いまだ森も育たず、礫の上に草花がちらほら。そんな斜面が水面へと続いている。少女はバランスを取りながら降りてゆく。さざ波。風はないのに、静かな水紋がひろがる。手をひたすと冷たい。少女はポケットからそっと蝶をとりだす。命つきてはいるが、その美しさは相変わらずだ。蝶は蘇生するのではないか。湖に放そうとして、ためらう。美しさが蘇生への期待を芽生えさせる。いいえ、と少女は首をふる。過去の美しさにしがみついてはいけない。蝶は確かに死んだのだから。蝶を水面に浮かべる。さざ波に乗ってゆっくりと遠ざかる蝶。

 昨夜。いったい何があったのか。死んだ蝶を火口湖で告別しなければならなかった、何か。蝶は少女にとって、どんな意味があったのか。筆者は思う。蝶は、少女特有の美的価値観だったのではないかと。少年少女という人種は、見立てを駆使してさまざまな美的価値を創造する。大人にとって「つまらない」あるものが、少年少女にとっては宇宙の最高峰の価値をもっていたり、する。大人になってしまうと、多くの人は「見立て」ることをやめる。あるものは、あるもの以上でも以下でもない。そのものでしか、ない。青く塗った消しゴムがトルコ石に見えることなど、ありえない。

 そうしたあるものを、大人に捨てられた。壊された。その悲しみが少女を火口湖にむかわせた。だとすれば円柱のかさなる都市も「見立て」によって出現した世界かもしれない。少女の悲しみは巨大な古代の神殿都市をつくりあげた。よもすがら、少女は泣きながら古代都市を走り抜ける。朝、ようやっと火口湖まで上り詰め、もちろん火口湖も見立ての世界であろう。頬には乾いた涙の痕がかさぶたになり、風があたる。

 精霊流し、なんである。死蝶とは、亡くなった消しゴムの永遠の精霊なのであった。

 

●火口湖をおりてアパート探しましょう明日は画塾と花屋のバイト(きうい)

 

 

28

当方は二十五、銃器ブローカー、秘書求む。―桃色の踵の

【水葬物語】

 

 上句は、明らかに新聞の求人広告である。少ない字数でできるだけ多くの情報を盛り込む。「秘書求む」は、よくある。このあとに経験者給与優遇、各種社会保険完備、と続くんである。「銃器ブローカー」というのが、少し怪しい。一歩間違えれば銃砲刀剣類所持等取締法、にひっかかってしまうぜ。いわくありげな人物を想像してしまう。そして、なりより怪しいのが「当方は二十五」であろう。おいおい。自分の年齢を書くかあ。それに、ニ十五という若さ。ホリエモンのように若さを売りにしているのだろうか。商いなら信用第一のはずで、年齢も結構ものをいう。「銃器ブローカー」とて、同じことが言える。わざわざ怪しまれようとしている。「猟銃卸商」等いくらでも書きようがある。つまり、こいつは本気で秘書など求めてはおらぬ。「オレは若くて、こわもてやで〜」と威嚇しているのだ。

 ただし、全然威嚇にはなっていない。この広告から読み取れる心理、それはコンプレックスである。劣等感をもつ人間は、総じて「こわもて」の仮面をつける。黒い車にのりたがる人は、劣等感を隠すためであることが多い。「銃器ブローカー」とわざわざ示すのは、劣等感の裏返しなんである。本人は怖くて怖くて仕方がない。

 では、下句の「―桃色の踵の」とは何か。ふつうに考えると、「―桃色の踵の」秘書、と続く。新聞には秘書としか出ないが、本人が「できたら桃色の踵の人だったらええな。」と思っている。まさか、「当方、桃色の踵の銃器ブローカーです」ってか。

 ひとつだけ、言える。「当方」は広告の裏に隠れて、その人物像は見えてこない。そのかわり、「桃色の踵の」人物像だけがいやに目の前にちらついてくるのだ。これは一種の巧妙な強姦なのである。自分は正体を明かさない。それでいて、女性の(あるいは男性の)桃色の踵をニタニタしながら、舐めるように観察している。ブローカーを名乗る人物は劣等感をもつゆえ、正体を明かしたくない。相手が自分を認めるかどうかという場面を回避して一方的な関係をもとうとするのである。

 先日、京大アメフト部の学生が、集団強姦でつかまった。これも同じである。女性は酔って意識がない。一方的な性行為を行う。ここには「女性が男性を評価する」という視線が欠けている。ボクはあなたが好きです。あなたはボクをどう見ますか。という双方向の評価し合いが健全な関係であろう。京大でアメフト部。もてるはずだ。相手に評価してもらうということが、そんなに怖いんだろうか。双方向のやりとりの後で、いくらでも気持良いセックスができるはずなのに。

 「当方」はもちろん銃器ブローカーなどではない。隠れ蓑、である。強そうに見せかけているだけ。安部公房の『箱男』と同様、匿名性による強姦をブラックに仕上げたのが、この歌なんである。

 

●桃色の踵の秘書の田舎へと向かう列車で練るプロポーズ(きうい)

 

 

29

牝豹逐ひおひつきし森、樹の洞にとろりと林檎酒醸されゐ

【水葬物語】

 

 豹。サバナであろう。ライオンやキリンがいる熱帯草原。雨季と乾季があり、樹木はまばら。だから、手塚治虫の『ジャングル大帝レオ』というのはウソである。『サバンナ大帝レオ』でなければならぬ。ライオンはサバナの王様ですよ。

 さて、皮でもとるのであろうか。豹を追っているという。もちろん最初は草原を追っていたのだろう。やがて豹は森に逃げ込む。サバナにも、森が形成されている地域がある。主人公「私」を設定しよう。私は豹との距離を次第に詰めてゆき、やっと射程にとらえる。しめた。弓をかまえる。豹の後ろは巨大な樹木が立ちはだかっている。もはや、これまで。

 そのとき。私の視界に、豹の後ろの巨大な木が忍びこんでくる。うむ?不思議な樹だ。何の樹だろう。直径十メートルはあろうか。

 さて13番の歌を覚えているだろうか。若者が盗賊についていってしまう話である。気がついた時には自分だけ、孤独に取り残されている。そうです。これも同じです。豹に「おひつきし」と書かれているのに、その後、豹がどうなったかは書かれていない。いったい、豹はどこへいったのか。私の視線は豹の行方から取り残されてしまったのだ。

 こうして、あの樹をみつけた森、なのである。さっきまで豹と格闘していた喧騒はいまや、ない。樹の周りの空間だけが、ぽっかりと時の流れから取り残されている。はめられた。豹に誘い出された。はじめから豹の目論見だったのである。豹は、この時空を知っていた。知って私を誘導した。

 呆然とする私の鼻に、甘い香りが漂ってくる。樹に近づいてみる。林檎酒、だ。「とろりと」しているので、かなりの年数がたっている。気がつけば、周りは鬱蒼と繁るジャングルに変容している。帰り道がわからない。そんなはずはない。この地域はすべて浅い森のと聞いている。しかし、大丈夫。この林檎酒を造っている人たちがいるはずだ。彼らに助けを求めよう。(サバナに林檎は育たないという苦情には目をつむってください)。

 私は腰をすえて待つことにする。林檎酒も味わってみる。おお芳醇。すっかり気持よくなって、居眠りしてしまう。はっと目を覚ますと、はや夕暮れだ。腹も減った。残り少ない食料をかじる。いずれ、林檎酒の持ち主に食べ物を分けてもらおう。夜は樹の洞で寝た。むろん林檎酒のない洞をみつけたのだ。

 こうして私は森で生活をはじめる。林檎酒の持ち主。必ず飲みにくるはずだ。確かに人の気配だけはする。気配だけはして姿は依然みえない。そうして半年が過ぎ、一年もすぎようとしている。ある日、私は気づく。最初の日、林檎酒が洞の縁いっぱいまで残っていたことを。林檎酒は、一滴も飲まれていなかったのである。

 気配はあるのに、人がいない。またしても絶望的孤独に私たちは追い込まれる。

 

●木の洞の天に瞬く星ふたつ遠いスモモの村を見下ろし(きうい)

 

 

30

嘘つきの聖母に会つて賽銭をとりかへすべくカテドラ―ルへ

【水葬物語】

 

 聖母とはマリアだが、マリアが今に生きているわけはないので、それに匹敵するものだろう。尼さんか。マリア像か。嘘をついたというのである。どんな嘘か。聖書を間違って教えたか。いやいや。問題は「賽銭」にある。嘘の代償として賽銭を返してもらう。ということは、かつて賽銭によって購ったものがあるのだ。賽銭によって何を買うのか。それはもちろん「願いごと」のほかにはなかろう。十六世紀にマルチン・ルターが九十五か条の論題で批判したのも免罪符を賽銭で買わねばならんことだった。日本でも、お寺や神社では賽銭で願いごとを買う。

 実は筆者もかなり頻繁に願い事をしている。世の中、どうにもならんことがある。そんなときは、しゃあない。寺社に頼むよりほかにない。それで助かったことも、ある。神仏が願いを聞いてくれることも、ある。

 しかし基本的にキリスト教も仏教もイスラム教も悲観的な宗教である。すなわち、「あきらめなさい」という教えが根本にある。どの宗教も幸福を保証してはいない。だから賽銭を支払ったからといって、幸運が転がり込むことはないと考えた方がいい。むろん、頼まないよりは頼んだ方がよいのだが。あとは運である。

 だから。聖母が何を請け負ったか知らんが、賽銭を取り返すというのはお門違いなのでる。お門違いなのに、カテドラルへ走っていく。これも、わからんではない。あんなにお願いしたのに。と思ってしまう。筆者も頻繁にそう思う。だからよく、わかる。もっとも、筆者の賽銭はいつも十円だから、別に取り返そうとは思わないが。

 そして。この人も、ホントに取り替えそうなんて、思ってやしないのだ。現に、「カテドラールへ」である。まだ、カテドラルに着いたわけではない。今、向かっている最中なのだ。走っている最中、なのだ。スポーツ新聞は「へ」という助詞を多用する。「内閣、解散へ」。実際には解散しないことが多い。「榊原郁恵、離婚へ」実際には離婚なんてしない。「へ」は可能性のほとんどない方向性を示す助詞なのである。

 ただ、走ってみたいのだ。走らずにはおれない、のだ。気持がおさまらないのだ。どうして不幸ばかりが重なるのか。むろん、不幸ばかり重なるのが人間なのである。そうだとしても、納得できないのである。

 こうして人類の誰もが、賽銭を取り返すべく、カテドラル(神社・寺院)へ走る。そうしてカテドラルには着かず、今もあの坂を、あの畑道を、あの路地を、あの商店街を、走り続けている。ほら、今あなたの横をすれ違ったランナー。彼もカテドラルへ急いでいるのですよ。永久に到着することのないカテドラルへ。すなわち、これは現代のシジフォスの悲劇ともいうべき人間の業なのであった。

 

●坂の上に大聖堂を捜しては行く先遠い千々の白雲(きうい)