塚本邦雄 百首 1120

 

 

11

地主らの凍死するころ壜詰の花キャベツが街にはこび去られき

【水葬物語】

 

 地主。農村であろう。いまだ地主かいな。アンシャンレジ―ム、ですな。その旧体制の地主らが凍死してしまったというのである。なぞ。地主が凍死するくらいの寒波なら、小作はいっそう、なおのこと、凍死してしまうではないか。凍死させられた、というのが真相に近いだろう。「地主ら」と「ら」がつく複数形なのだから、余計その可能性が高い。革命、である。バスチーユへ急げ、ってか。青年団が一揆をおこしたのやもしれぬ。

 ただし気をつけたいのは、凍死する「ころ」なんである。ここで上句と下句は明確に切れている。短歌や俳句では、上と下がひっついているよりも、途中で切った方が世界をより大きく見せることが可能になる。ここでは、上句の革命と、下句のいだに直接のつながりはない。まず上句で、革命がおこったであろう農村の空間が背景として提示されるにすぎない。

 壜詰の花キャベツ。一転してハイカラーなアイテムだ。今ネットで花キャベツの写真を探した。あれ。うちにも咲いてる。これって。葉牡丹じゃん。葉牡丹なんて食べられへんよ。いや菜の花も食べられるな。壜詰ということは、塩漬けか。鷹の爪といっしょに、ってか。パスタにしても、いい。にんにくとオリーブオイルで、さっとあえて。

 確かに革命は成功した。しかし、おそらく夢見たであろうハイカラーな物産は、それとは別のところで、街へと運び去られてしまったんである。「去られき」とあるので、「私」もしくは「私たち」が一緒に街へついていったのではないことが、わかる。

 文学は孤独に楽しむものであるから、主人公は「私」という個人に設定しよう。私もおそらく、革命の一端につながっていることは確かだ。しかしその結果としての実は、何者かに横取りされてしまった。せっかく地主を凍死させたというのに、青年団の若者たちはいまだ農村に取り残され、旧来とかわらぬ被支配的な生活を余儀なくされている。

 その一人である「私」は農村のはずれから街の方をみやって、ものを思うのである。革命とはいったい、何であったか。ボクも同意した。何かが変わると、思った。行動をおこさねば何も変わりはしない。そして絶対王政はくずれた。くずれたのに、何も変わらなかった。あまつさえ、精魂こめて開発した「壜詰花キャベツ」は、街のバブリーな連中に横取りされてしまった。ボクたちは行動してはいけなかったのか。

 目の前の体制を打破したところで何も変わらない、んである。世の中はもっと大きな、不条理なものによって動かされている。人間が社会というものをつくって以来の、根本的な構造だ。家族だけで生きていた旧石器時代が、なつかしい。だから私たちは、詩や芸術の中で旧石器時代に戻ってみたりするのだし、山に登るのも同じ希求である。

 高校の倫理社会で習った実存主義がでたらめであると、ボクは悟ったのであった。

 

●壜詰の葉牡丹ならぶ明治屋にテニス帰りのマダム立ち寄り(きうい)

 

 

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聖母像ばかりならべてある美術館の出口につづく火薬庫

【水葬物語】

 

 塚本邦雄の短歌は、57577にぴったりとあてはまるわけではない。ヘンなところに区切れが、ある。だとしても、やはり57577で読んでほしいのである。

  聖母像 ばかりならべて ある美術 館の出口に つづく火薬庫

 慣れてくるとこのリズムが病みつきに、なる。ぜひ試してください。

 さて、聖母像。マリア、ですな。聖母を描いた絵はかず限りなくある。たいていは、心癒されるものです。なぜ聖母はこんなに人気があるのか。神の教えを伝えたのは、イエスである。美術の世界ではイエスよりもマリア、といってよい。

筆者はこう思うのである。イエスも確かに「OK」と言ってくれる。しかし、イエス自身が生きにくい人間、なのだ。イエスは神ではない。悩める人間だ。聖書で、イエスの姿はあまりに痛々しい。生きることに辛さを覚えるイエスを見ていると、こちらまで辛くなってくる。「OK、OK」といっている人が、自らを「OK」とは納得していないのだ。これは形容矛盾である。ダブルバインド(二重拘束)だ。自らを「OK」とするならば、むざむざ刑に赴くことは、ない。人類に対して「OK」と言いながら、自己を否定したのがイエスなのだ。だからイエスに共感するということは、自分を認めることであると同時に自己を否認することでもある。

 その点、マリア像はちがう。マリアは微笑んでいるだけだ。あるいは悲しんでいるだけだ。ここにはダブルバインドはない、といってよい。「あなたOK」と表情で伝え、「あなたは悲しいのね」と表情で共感してくれる。これが理想の母、なんである。

 ドラえもんの「のび太」の母を見よ。がみがみ、うるさいね。あれはただ、のび太を自分の思い通りに動かしたがっているだけである。あんな母にはなりたくないね。筆者は男だからなられへんけども。

 しかし、こうして聖母像に癒されたあと、出口へむかう。美術館によっては、出口が変てこな場所にあったりして、おもしろい。ありゃ。ここはどこじゃ。京都市立美術館は横っ腹から出る場合がある。神戸市立博物館の出口は裏で、そのむかいに洋館を利用したレストランがあって、うまいですよ。奈良県立美術館も横から出る。そもそも美術館という場所は、現実を改変してつくられた迷路なのだから、裏に出るというトリックは正解なんである。だから美術館はもっと「ありゃ」という迷路をつくるべし。

 こうして裏口から外へ出ると、うってかわって淋しい空き地に出る。突風がふく。道はいったん折れてその先に見えてくるのは、殺風景な火薬庫だ。私たちは、何十年も生きていると、こうしたことに慣れっこになった。これが現実、である。私たちは火薬庫を前にして、ただ黙ってたたずむしかないのであった。

 

●火薬庫のなかに信仰すててみる されどみ空にかかる(はりがね)(きうい)

 

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盗賊のむれにまじりて若者らゆき果樹園にせまりくる雨季

【水葬物語】

 

 雨季、とくれば乾季もあるはずで、すなわちサバナ気候である。熱帯と乾燥帯のあいだ、あるいは熱帯と温帯とのあいだ。いずれにせよ、何かが移りゆく境界を思わせる。国境とか、平原と山地、緑野と砂漠など、地形的な境界かもしれない。

 境界とは、さまざまな支配体制から自由な地域でもある。民族は越境し、交じり合い、法律は弛緩する。すべてが流動する。無常の世界がベルト状に広がっている。魅力といえば魅力だが、厳しさもある。

 ある地に若者たちがいた。果樹園で働いている。まずは食べてゆける暮らしだ。そこそこの肥沃な平野だ。このすぐ向こうには乾燥した山地が連なっており、その奥は砂漠が広がっている。若者というのは、常に貪欲である。果樹園の生活には飽き足りないものを感じている。

 そして盗賊がいる。盗賊とは、越境する民族である。山地を越えて沃野から砂漠へ、砂漠から沃野へ、移動を繰り返している。こうして、ある日。若者たちは盗賊の群れについていってしまうのである。若者とは、現状破壊を旨とする人種のことだ。山地の向こうには何かがあるはずなのであり、それは日常を超えたものであるはずだった。

 さて、である。ここまではよくある話だ。この先、もう一人の人物に登場してもらわねばならない。それは「あなた」、読者である。「あなた」がいなければ、この物語は続いてゆかない。

 若者らは行ってしまった。その行方を「あなた」の視線は追うことになるだろう。なぜなら、「若者らゆき」と連用形で書かれているからだ。連用形からはさらに用言が続いているはずなのだ。しかし、「あなた」は裏切られることになる。「ゆき」という連用形の続きは実は、なかった。続きがあると見せかけて、実はそこで終わっていたのである。若者らの行く末を目で追いながら、あなたはそれを見失うしか、ない。

 そして、あなたは。果樹園にいる自分に気がつく。盗賊も、若者らも、みんな去ってしまった果樹園だ。やられた。あなたは、独りぽつんと取り残されてしまったのだ。もとから孤独ならまだ、よい。あなたはさっきまで、若者らの喧騒を追いかけていたのだから、孤独感もひときわだろう。

 雲がゆっくりとスピードを上げ始めた。いやに静かだ。果物がドサッと落ちる音も、静けさをより引き立てる。地平線の上に、黒い雷雲が発生している。雨季はゆっくり、だが確実にせまってきている。あなたを雨季という巨大な化物がおおいつくすのも、時間の問題である。

 塚本邦雄は、読者を孤独の恐怖に陥れる天才なのであった。

 

●雨季きたるプランテーション雨の日は砂漠に逃げた女に文を(きうい)

 

 

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かの国に雨けむる朝、わが胸のふかき死海に浮くあかき百合

【水葬物語】

 

「わが」とあるので、まず「私」という主人公を設定しなければならない。私はどこにいるのか。「かの国」とある。こそあど言葉で言えば、「かの」は「彼の」であるから、私の今いてる場所からは遠いところである。したがって、私は「かの国」と隔たった場所に今いてることがわかる。「かの国」。私と何か深い因縁がある国。それは下句を読むうちに、おいおい明らかになるだろう。

 そして「わが胸」、である。心の中、だ。心の中の深い塩水を湛える死海に、赤い百合が浮いてくるというんでる。赤い百合。トラウマ、にちがいない。「ふかき」とあるので、心の奥の方、深く深く沈潜した部分から浮いてくる。それゆえ、トラウマの原因となったできごとは、近い過去ではないはずだ。時間が立てば立つほど、トラウマは心のおく深くもぐりこんでしまう。しかし死海、というのである。死海は塩水湖だから、強烈な浮力が働く。つまりトラウマは、強迫的に心の表面に蒸し返されるのである。

 いったい、何があったのだろう。場所は「かの国」に違いない。遠いむかし。「あかき百合」と表現される何かがおこったのだ。百合はヨーロッパでは処女性を示す。マリア、である。関西では根をよく食べますね。茶碗蒸とか。焼いて梅干であえたり。あの百合根。植えたら花が咲くんですよ。試してごらん。深く植えてくださいね。

 う〜む。百合ねえ。死海に百合。少し異質な感じがする。もちろんシリア・レバノン・ヨルダンというのは砂漠だけれども、実は百花繚乱である。特にハーブね。だが百合となると::。性愛、人間関係、家族、犯罪、職業、どれやろか。やはり性愛、か。しかも赤というキツイ色なので、同性愛をイメージする。よしっ。それでいこう。

 こうして下句から照射されたイメージが上句にもどってくる。「かの国」。もちろん、今は遠いところにいるので、かの国の朝が雨でけぶっているかどうか、わかるはずがない。そうではなく、トラウマが浮き上がるたびに「かの国」の朝に雨が煙る、と言った方が正確だ。トラウマの中の「かの国」はいつも雨で煙っているのである。

 おそらく死海とは逆の印象をもつ国だろう。石畳、北国、深い緑にかすむ森、湿潤気候。ドイツとか北欧、ロシア等であろう。「かの国」のある男性と深い関係になったか、なりかけたか。ゆきずりの恋、かもしれない。未遂におわったかもしれない。異国の恋は、傷を負いやすい。何がきっかけで亀裂が入ったのか。あるいは亀裂の前の段階で、どちらかが引いてしまったのか。自ら引いたことに、あるいは相手に拒否されたことに、後悔が残るのか。

 あれから五十年もたった。細かいことは、とうに忘れた。しかし、今でも時折あかい百合が浮上してくることがある。その度に「あの国」の朝は、雨で煙っている。

 

●九十をすぎて死海は遠ざかる あの国かの朝あの花かの暮(きうい)

 

 

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湖の夜明け、ピアノに水死者のゆびほぐれおちならすレクイエム

【水葬物語】

 

 湖。今度は漢字である。ファラオの妃が狙ったのは「みずうみ」だった。「みずうみ」と書くと草原や乾燥地帯のそれ、だ。ところが、「湖」はやはりアジアの湿潤気候のそれを連想する。十和田湖、とか。ブルーコメッツが歌った「ブルーシャトー」の世界ね。たとちすれば、その夜明けはかなり暗い。まさにブルーがかかっている。日本の湖の多くはカルデラ湖で、その周囲を深い森に囲まれているからだ。陽光が水面にさすのは、朝餉もとっくにすぎてから、ということになる。

 それゆえ、静謐でもある。湖の底にピアノが沈んでいるのであろう。そのピアノも夜明けにやっと鍵盤が黒からブルーになる。そして、水死者もながいながい夜を隔てて、ようやく指がピアノにかかる場所まで沈んできた。

 長かった。死んでから幾日たつのだろう。もしかして、もう何年も過ぎたのだろうか。死者に時間の感覚は、ない。もう随分、待ったような気がする。底に沈むまで、こんなに長いとは思いもよらなかった。弱いブルーの光。夜明けが来たのだということは、わかる。人は湖で死ぬと、朝の光だけはわかるらしい。ただし、朝の回数なぞ数えることはできぬ。そこが哀しいゆえんだ。

 こうしてゆっくりと、指から先にピアノの上に落ちてゆく。指先が鍵盤に触れたとたん、五本の指がほぐれるように鍵盤を押す。

 レクイエム。ここはやはりモーツァルトのそれのような、激しいものであってはならぬ。せいぜいフォーレのそれくらい、静かでなければ。そう、フォーレのピエズスを超ゆっくり押してゆく感覚。それこそ「ほぐれおち」る触感なのだ。

 そして、ここが最も肝要なことなのだが、レクイエムを自分で弾かなければならない、んである。レクイエムは人に捧げてもらってこそ、挽歌なのだ。それを本人が自分のために奏でるという。史上ありとある死の中で、最も悲しい死ではないか。

 おそらく、残された人々もそれなりの挽歌は捧げたであろう。葬式では涙も流したであろう。お墓を花でいっぱいにしたであろう。残された人々も思いっきり無念であったろう。

 にもかかわらず、この人は自分でレクイエムを奏でる必要があった。自分で納得しなければならなかった。人に納得させてもらうのでは、満足できなかった。他人の説教は、身に沁むものではなかった。

 これは死者の実存、にほかならない。死ぬという行為を自ら選び取ること。それを自分で引き受けるしか、菩提の方法はない。教師や親がいくら説教をたれたところで、子どもはそれで生きていくわけではない。教師や親の説教は一文の役にもたたぬ。それと同じで、他人による挽歌は死者には何の役にも立たぬという、夜明けの湖である。

 

●鎮魂の長い憂愁もてあまし河口へくだり初めるピアノは(きうい)

 

 

16

禁猟のふれが解かれし鈍色の野に眸ふせる少年と蛾と

【水葬物語】

 

 禁猟。季節限定で猟は許可される。筆者は中毒的ハイカーであるが、山の中で鉄砲の音を耳にすることがある。うひょー。しかしおそらく禁猟が解かれたのであろう。何をしとめるのであろうか。確かに六甲の山でさえ、猪によく出会う。植物園から十分も歩かないうちに、猪の親子が登山道を横切ったりする。展望台の階段を猪が家族連れだって歩いていたこともある。ホントですよ。

 さて。鈍色の野。地理地形大好きの筆者はもう、これだけでドキドキしてしまうんである。鈍色って、いったい::。国語辞典には「濃いねずみ色」とある。野は、冬になったのか。そういえば鉄砲の音を聞くのは冬であったような・・・。

 冬がせまりくる原野。ところどころ小さな沼地がある。沼地のほとりに猟師小屋がある。道は細くつづき、枝道が小屋へ分かれているのみ。萱の荒地は、はるか水色の山脈まで広がっている。雲はないが、空は低く明るい灰色だ。人の気配はなく、遠くで鉄砲の音が空に上る。

 少年はこうした原野を遊び場にしている。道から萱の中へ入ってしまえば、もう誰にもみつからない秘密の隠れ家だ。萱を重ねて、基地らしきものも造る。多少の雨も平気だ。寒さもしのげる。少年は基地を十四個もっている。基地をわたり歩いて、自分の居場所を確保する。基地からは、空しか見えない。空が友だち。週に一度は学校や近所の友人を連れ込む。ただし、連れ込む基地は一つに決めている。あとの十三個は秘密のままだ。

 もうひとつ、少年には友人がある。蛾、である。萱の中で蛾の卵が育つ。蝶はいてないが、蛾の生長を少年は肌で知る。

 そうして、今年も猟が解禁になる日が近づいた。昨日、パパに確認したから間違いない。かばんを家に置くと、さっそく少年は原野に出る。走りながらおやつのコッペパンをかじり、耳を沼の鴨にほうりなげた。基地につくと、さっそく蛾がよってきた。ジャンパーのポケットの中に、しのばせてあげる。蛾が、よろこぶ。

 じっと耳を傾けていると、聴こえてきた。一発、二発。遠い。しかし、遠さなど関係ない。生き物が殺されているのだ。もちろん、少年は知っている。人は食べるために猟をしなければならない。少年も昨日、ラムを食べた。

アイヌ人は、猟をこう合理化している。熊はあの世から人間に肉を土産としてもってくるのだ。だから丁寧に礼を言って肉を受け取るのだと。漫画『美味しんぼ』も、肉を食べないと生きていけない人間の業を繰り返し説いている。

わかってはいる。わかってはいるが、少年はいつまでたってもあの音に慣れることができない。眸をふせて、蛾と抱き合うしか少年になすすべは、ない。

 

●長じては猟師となった今もなお撃つ寸前にまみ伏せるくせ(きうい)

 

 

17

葦群に風鳴るゆふべ、黄色の母系家族はデルタを逐はれ

【水葬物語】

 

 葦群。16番と同様の原野を思わせる。葦。川の氾濫原や湿地帯に見られる。「デルタ」とあるので、川の氾濫原かもしれぬ。ただし、あなどるでないぞ。筆者は大河川のほとりで育ったので知っているが、大きな川の葦原というのは、とてつもなく広大である。日本はほとんどの河川が国土交通省によって管理されてしまっているから、堤防が葦原の伸張を抑えている。しかし世界を見渡せば、日本の国ほどもあるデルタ氾濫原なぞ、めずらしくもない。

 さてデルタ。三角州、である。日本で三角州を明確にイメージしようとすれば、広島を思い出すのがよかろう。原爆ドーム付近を散歩すると、川がいくつか流れている。やがて海に入る。広島市というのは、太田川の三角州の上にちょうど乗っかった都市だ。ただ都市におおわれると地形はよく見えない。では、滋賀県の比叡山や比良山地に上ってください。琵琶湖に流れ出る河川が三角州をつくっているのが、よくわかります。ああ、あれが三角州か。うなずかれること、間違いなしだ。

 黄色の、というからにはアジア系だろう。母系家族はより原始の色を残す素朴な集団を思わせる。これは筆者のカンなのだが、西日本の弥生系よりは東日本の縄文系の方に、より母系集団の色合いが残っているのではないか。筆者のルーツは会津なのだが、東北では女性の力が強い。男の人はたいてい、やさしい。その文化圏は「かかあ殿下」の群馬まで及んでいる。九州と比べると好対照である。私の知人の九州男児は目の前の新聞も奥さんに取ってもらう。皆がそうではあるまいが。

 デルタにもどろう。都市ではあるまい。集落が点在しているような。稲作が流入してくると、デルタは稲作文化人の席巻するところとなる。場所は、モンゴロイドとコーカソイドの境界付近。まだ国家という概念がおこる以前のものがたり。少数民族が混沌と移動をくりかえしていた時代。稲作文化をもつあるコーカソイド(欧印族)があっというまに、そのデルタを制圧した。家族単位で牧畜を営んでいた、あるモンゴロイドのマイノリティ。もちろん追われる運命になる。

 スーツケースや家具を馬車につみこみ、ある者は歩き、ある者は幼児を背負い、葦群の道をとぼとぼ歩いている。日も暮れよ、風よ鳴れ。私たちは、歩く。とりあえずは、デルタの源流の山脈をめざそう。もうすでに幾つ川を越えただろうか。夜になれば渡渉は困難だ。今のうちに一つでも川を渡っておきたい。まだあと二つや三つは、コーカソイドの部落を通過せねばなるまい。デルタを出れば、同じ牧畜民族と合流してもよい。とにかく、一刻も早くデルタを出ることだ。

 子どもの一人が空腹を訴えて、泣きはじめる。山脈はまだ、遠い。

 

●級友と別れも告げず汽車に乗る大人は文化の違いと言うけど(きうい)

 

 

18

葬送の曲いさましき列をぬけ湖にしづむる錆びし喇叭を

【水葬物語】

 

 いさましき列。やはり軍隊を思わせる。近代的な組織だった軍隊と考える必要はない。日本のような島国では想像もつかないが、大陸というところは小さな村ですら自警的な小

軍隊をもっていた可能性がある。いまだ国家という概念が形成される以前である。そうしなければ生きてゆけない地域や時代もあった。平和な時代に暮らせるのは、ホントにありがたい。平和こそ、何にも換え難い財産である(と思わない人々も中にはいるが)。

 さて。そうした軍隊の列が、村と村を結ぶ道を行進している。原野の中に畑もちらほら見える、そんな道である。ときおり丘を越え、またときおり湖沼を迂回する。兵士たちは、何の疑問ももたずに行進している。自分たちは村を守る存在なのであって、役に立つ人間なのだ。胸をはる。自分は体制側の人間なのだ、という誇りも芽生える。

 それゆえこれは、近代以前のものがたりである。兵士が組織の構成員にすぎない近代軍隊ではなく、兵士であることがアイデンティティでもあった遠い昔の。

 だから、その列の合間をぬって、葬送の曲が流れてきても、だれの耳にも入る由がない。兵士は弓を背負い、何の疑問ももたずに行進している。その自負ゆえに、葬送の曲が聞こえないんである。もし映画なら、葬送の曲は目にさえ見えるばかりに、丘を越え、タンポポを揺らし、兵士の服にまとわりつくであろう。それが兵士の目に見えないというところに、最も重大なポイントが置かれている。

 結局、自分たちを守るという感覚に慣れてしまえば、人を殺すかもしれないという想像力に鈍感になるほかはない。鋭敏であれば、自分が殺される。兵士の耳に葬送曲が聞こえないのは、むべなるかなであろう。

 そうした人類の歴史の無力さを葬送の曲は、ただ、ただ、流れゆくのみである。兵士の列が丘を通りぬけたあと、無人の淋しい原野を曲は湖へと降りてゆく。兵士の最後尾はすでに地平線を抜けようとしている。

 こうして下句へたどりつく。むずかしいですぞ、これは。「湖にしづむる錆びし喇叭を」どうするのか。上句とどう接続しているのか。主語は「葬送の曲」なのか。そうではない。上と下には明らかに断絶がある。「湖に」は上下に共通だろう。葬送の曲は確かに湖へと降りていったのである。ここまではリアリズムの映像である。その映像をバックに、「湖に沈んだ、錆びた喇叭を見てみよ」というアジテーションが飛ぶのである。喇叭は兵士のもちものだ。撃たれた兵士が手から落とした喇叭。それは幾星霜のもとで湖の底に沈み、兵士の死を悼んでいる。それを直視せよ、というんである。

 葬送の曲は、そのアジテーションへのガイドの役を果たしている。しかも、兵士が「いさましい」ことを暗に揶揄しながら、なのであった。

 

●いさましき列を飲み込み集落は祭りの支度 とおい炊煙(きうい)

 

 

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麦の花見えぬ日のくれ、麦芽糖仲買人が胸にともす燈

【水葬物語】

 

 麦の花。え。麦に花なんて、あるか〜。どれが花だ。麦は、稲ととてもよく似ているが、じゃあ、稲にも花があるのか。う〜ん。筆者は田舎の出身だから麦も稲もよく見て育ったが::。とりあえず、花があるとする。なくても、いい。その麦の花が見えない日暮れであるという。麦の花は、暮れだから見えないのか、ほかに原因があって見えないのか。「見えぬ」とあるからには、麦畑の近くにはいるのだろう。だって、街中の会社のオフィスにいたら、見えないの、あたりまえじゃん。

 だから麦の花があってもなくても、理由が何であっても、なくても、別にかまわないのだ。麦芽糖仲買人はかならず麦畑にいる。

 それでもやはり変、である。仲買人が麦の出来具合を調べに現地にいく。これは変ではない。見えぬ日のくれ、に行くのが変だ。それじゃあ。麦の出来具合なんかわかるわけないよ。だから、仲買人は麦の出来具合を調べにいったのでは、ない。

 では、なぜ仲買人は麦畑にいるのか。胸に燈をともすため、なのである。胸の燈とは、何であるか。恋、に決まっている。胸に恋以外の燈がともるなんて、聞いたことがない。断じて恋、なのだ。

 どんな恋か。不器用な恋、である。告白もしてないし、デートにすら誘ってない。そんな不器用な恋の主役に抜擢されたのが麦芽糖仲買人なのである。仲買人というと、総合商社の輸入買い付け担当なんかを思わせる。世界のレートと需給を照らして、電話一本で億単位の金を動かす。しかし、ここではそんな大企業とは違う。地方の麦芽糖の卸問屋である。自分の能力で大もうけもしないかわり、大損もしない。堅実に良い商品を農家から工場へ売る。日々、淡々と仕事をこなす。麦芽糖の良し悪しを見抜く目さえあれば、失敗などしない。人との交渉も多くはない。出世はしないが会社には必要な存在だ。会社に女の子は数人。すぐに恋人ができてやめていく。自分には関係ない。今まで恋などしたこともない。こうして年も三十も越えた。結婚もそろそろ諦めへと傾いている。

 そんなとき、新しい麦農家を視察にいった。その農家の娘に、恋をした。客間でコーヒーを出してくれた。ニコっと笑って。ああ、うちの娘です。なかなか嫁にいかんので、困ってますのや。独身か。もちん、自分には無理、である。

 自分には無理、と思うとき人はどうするか。麦畑でもながめるしか、ない。麦の花が見えないのは、暮だからではない。見ていないからである。麦畑で途方にくれて、たたずんでいるからである。なぜ暮、なのか。暮なら自分の姿が目立たないからですよ。もう、消え入りたいのだ、この仲買人は。無理なのはわかっていて、どうしようもなく点る燈を、仲買人は麦畑でもてあそぶしかない、のであった。

 

●あの人の膚にうつろう饒舌の哀しみ蒼い小麦畑へ(きうい)

 

 

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鳥兜嚥みて古風に死ぬ司祭ひとり、孵りし千の白蟻

【水葬物語】

 

 トリカブト。毒なのは確か根っこ。花はきれいですよ。筆者がトリカブトをはじめて見たのは、滋賀県の伊吹山だったか、北アルプスの燕岳だったか。紫色です。山にいけばよく見られます。見るより先に猛毒なのを知っていたから、妻が「あ、トリカブト」と教えてくれた時には、びっくり仰天した。ト、ト、トリカブト!おお。危ないなんか。根っこだよ、毒は。ああ、そうか。ホっ。

 しかし、司祭が自殺してはいけませんな。キリスト教は自殺を禁じているはずじゃ。なぜか。神さまが生きることを望まれているからじゃ。司祭ならその辺、理解しているやろに。それゆえ、ここには大きな軋轢がある。異常事態発生、なんである。そうでなければ神学を叩き込まれた司祭が死に至るはずがない。

 そのあたりの事情に踏み込むには、下句を読み込む必要がある。司祭の死とともに千の白蟻が孵った、という。千というのは、もちろん数えたのではありません。「多くの」という意味である。白蟻を一匹二匹と数える馬鹿は、いない。「はっぴゃく」とか「ごまん」というのと、同じ使い方ですね。

 死ぬと同時に、巨万の生命がほとばしりでるように誕生したんである。おお。筆者はこれを司祭の情動、と捉えたい。司祭は古風であった。革新的な宗教の教義をあみだすような人間では、ない。保守派、である。にもかかわらず自殺したということは、自殺以上の、教義に触れる何かがおこったとしか考えられない。

 姦通、ではないか。もちろん実行などしてませんよ。古風、だからね。しかし聖書は「思う」ことすら禁じている。むろん普通のクリスチャンがそこまで自戒しているはずはなかろう。「思う」ことは、人間の基本的な自由である。「思う」ことに悪いも良いも、ない。人間は何を思っても自由だし、それが他人に漏れることは絶対にありえない。

 しかし古風、なんである。愚直、である。どこかの奥さんに対して芽生えた恋。司祭はそれに気づいたとき、呆然としただろう。まさか。自分に限って。ありえない。あってはならぬ。自分の感情をぎゅっ、ぎゅっと押し込めたであろう。ところが感情というものは、そううまく制御できません。押し込めようとすればするほど、浮上する。いわゆる強迫観念、ですな。だから強迫症はまじめな人に多い。禁じれば禁じるほど強迫される。だから森田療法が効く。ええねん。何思うてもええねん。

 司祭は自分を許すことができなかった。努力で押し込めることができなければ、死ぬしかない。死ぬことによって、自分の情動をホンマに封じ込めてしまった。けれども、やんぬるかな。禁じられた情動は白蟻として、死後に噴出しなければならなかったのである。

 教訓。感情を無理に押し込めてはいけません。あるがままで、良いのです。

 

●いくつもの蟻が廊下を通り抜けマダムの肩の朝の圏谷(カール)へ(きうい)