短歌に学ぶ恋愛研究
01 有田里絵
コーンより紙がいいよと言っていた君の金魚と冬を越します
コーンと紙の比較ですから、これはジェラートを食べるときの場面でしょう。
サーティワンかどこかでデートしているシーンを思い出しているのです。さて、重要なポイントは「言っていた」という過去形です。過去形が痛切な失恋の歌であることを示唆しているのです。その、別れた「君」が飼っていた金魚がなぜか「私」のところにいる。同居していたのかもしれません。「君」は金魚を置いて出ていったと考えられます。そして「君」の金魚とともに、「私」は一人で冬を越す。
ああ!ああ!なんて切ないのだろう。思い出のデート場面から始まってゆるやかに近未来へと接続していく歌の流れも見事というほかありません。そして最後に
「越します」と丁寧語でのエンディングが別れた恋人への微かなメッセージとなっているかのごとき響き。これから越す冬の淋しさと、金魚がいるゆえの痛酷!こんなに辛い失恋の歌にはめったに出会えません。すごい傑作です。なみだ、なみだ。
さて、サーティワン。コーンかカップかの選択を迫られます。なぜ君はカップを選択せよと言っているのでしょうか。それはこの女の子がきっとドジな面を持っているからに他ならないのです。舌でアイスを押しながら舐めた場合、コーンだと洩れ出てくる可能性が高い。きっと以前にも、「あちゃー」と服を汚してしまったことがあるに違いありません。それを気遣う優しい「君」。しかし「君」という呼称を使っているところからみて、私にとって「君」は対等な、というかポップな存在であるわけです。そのポップな存在からさえ気遣われてしまったという、「私」のひょうきんな像が浮かんできます。ポップVSひょうきん。その別れには、重々しいものは恐らくなかったでしょう。若さゆえに別れへの流れを食い止められなかった。単なる技術不足。そんな若さが感じられるからこそ、いったいこの冬を乗り越えられるのか、という危惧を読者に抱かせます。そこが泣かされるわけです。まるで浅田次郎の小説みたいです。そこに金魚がでてくる。この金魚の存在は、「君」を思い出してしまうというネガティブな側面と、冬を乗り越える伴侶としてのポジティブな側面の、両方があります。だからこそ余計泣けるわけですね。これが猫や犬では親近感が強過ぎて孤独を感じられない。一定の距離のある金魚には、孤独をいっそう募らせる作用があるかもしれません。
そして「越します」。これが「君」に言っているのだとすると悲壮感が、独り言だとすると孤独感が味わえます。いずれにしてもこの失恋は、冬の淋しさを味わうために格好の材料を提供してくれることになりました。
きっと春になってしまえば、もうただの絵画になってしまう。そんな軽い恋愛です。引きずりはしません。ただ、ひょっとして数十年後に金魚を見たときに、なにかなつかしいものを感じるかもしれません。ただし、そこから「君」への連想は沸き起こってこないでしょう。「ありゃ、なんで金魚を見てなつかしいんだ。」と思って、それっきりになるはずです。