塚本邦雄 百首

 

 はじめに

 

 塚本邦雄。

ウヘッ。

その名前だけ少し耳にしたことのある人は、こう思うに違いない。

 前衛短歌・・・だっけ。やめとこ。

 ちと待ってください。読んでみてください。と私は思うのである。歌人はみんな呼んでいる(ホンマかな)。カルト的読書人も、古本屋で高額な本を漁っている。ゲッと、のけぞりますね。あの値段は。

しかし、ふつうの読書好きな人に、もっと読んで欲しいんである。

 私は塚本邦雄が前衛だとは思わない。決して思わない。むかし小学生のころ、学研の『学習』の別冊で、『読み物特集号』というのがあった。ふしぎな物語が満載であった。座敷にねころんで、その日のうちに読み終えた。その流れで星新一、安部公房、稲垣足穂、塚本邦雄・・・とくる。塚本邦雄は『読み物特集号』の延長である。

 みんな本を読むことは楽しかったはずだ。しかめつらをして読んだのではなかったはずだ。それで塚本邦雄は、おもしろい。それなのに、なぜむつかしいことを言うんだろう。塚本邦雄に賛辞をおくる人でさえ、筆者には理解できない理論を述べておられる。それで、みんな腰が引ける。

 それは前衛という冠をかぶしてしまったからではないか。それは一見、神にたてまつるように見えていて、実はオモロサにフタをしてしまう結果となったのではないか。

 井上章一の『つくられた桂離宮神話』には桂離宮の評価が右往左往する様子が描かれている。モダニストたちがタウトを利用して世間に流布させた桂離宮=「簡素な日本美」という見方は、その後の多くの人の目を拘束した。今でこそ、凝りに凝ったマ二エリスムという逆の見方も提示されているが、それまでは流布された価値でしかものを見られなくなっていたのである。

 塚本のおっちゃんにフタをしてはいかんよ。

 フタをとった塚本のおっちゃんからは、小さい頃に読んだ寺村輝夫とか、ガリバー旅行記とか、あんな不思議なおもちゃ箱がいっぱい飛び出してくる。

 それで本書は塚本邦雄論ではない。塚本邦雄というオモチャで遊んでみたのである。塚本邦雄の短歌は、こんな好き勝手な読み方ができる上等なオモチャである。変な知識はもとより不要。おやつを食べながら、寝転んで読むものである。

 なかには本書をちらっと見て、まゆをひそめる方もあろう。塚本邦雄の代表作と言われる例の「皇帝ペンギン」「馬を洗はば」どちらも入ってない。筆者にとっては両者とも邦雄ベスト二百はおろか、ベスト千にも入らない。だって、おもしろくないんだもん。

 だが「馬を洗はば」は塚本本人も気に入っているではないか。そう言われても、仕方がない。講談社学術文庫『現代の短歌』に収録された本人自選百首と、筆者のベスト百を比べて、重なっているのはたった三つだけである。あちゃあ。先生の審美眼と、私のそれとは、だいぶ違うのね。

 そうして私はぞんぶん楽しんでこれを書き終えた。

あとは、できるだけ近い将来、安価な文庫本で塚本短歌が読めるようになることを祈るのみである。