塚本邦雄 百首 (110

 

 はじめに

 

 塚本邦雄。

ウヘッ。

その名前だけ少し耳にしたことのある人は、こう思うに違いない。

 前衛短歌・・・だっけ。やめとこ。

 ちと待ってください。読んでみてください。と私は思うのである。歌人はみんな呼んでいる(ホンマかな)。カルト的読書人も、古本屋で高額な本を漁っている。ゲッと、のけぞりますね。あの値段は。

しかし、ふつうの読書好きな人に、もっと読んで欲しいんである。

 私は塚本邦雄が前衛だとは思わない。決して思わない。むかし小学生のころ、学研の『学習』の別冊で、『読み物特集号』というのがあった。ふしぎな物語が満載であった。座敷にねころんで、その日のうちに読み終えた。その流れで星新一、安部公房、稲垣足穂、塚本邦雄・・・とくる。塚本邦雄は『読み物特集号』の延長である。

 みんな本を読むことは楽しかったはずだ。しかめつらをして読んだのではなかったはずだ。それで塚本邦雄は、おもしろい。それなのに、なぜむつかしいことを言うんだろう。塚本邦雄に賛辞をおくる人でさえ、筆者には理解できない理論を述べておられる。それで、みんな腰が引ける。

 それは前衛という冠をかぶしてしまったからではないか。それは一見、神にたてまつるように見えていて、実はオモロサにフタをしてしまう結果となったのではないか。

 井上章一の『つくられた桂離宮神話』には桂離宮の評価が右往左往する様子が描かれている。モダニストたちがタウトを利用して世間に流布させた桂離宮=「簡素な日本美」という見方は、その後の多くの人の目を拘束した。今でこそ、凝りに凝ったマ二エリスムという逆の見方も提示されているが、それまでは流布された価値でしかものを見られなくなっていたのである。

 塚本のおっちゃんにフタをしてはいかんよ。

 フタをとった塚本のおっちゃんからは、小さい頃に読んだ寺村輝夫とか、ガリバー旅行記とか、あんな不思議なおもちゃ箱がいっぱい飛び出してくる。

 それで本書は塚本邦雄論ではない。塚本邦雄というオモチャで遊んでみたのである。塚本邦雄の短歌は、こんな好き勝手な読み方ができる上等なオモチャである。変な知識はもとより不要。おやつを食べながら、寝転んで読むものである。

 なかには本書をちらっと見て、まゆをひそめる方もあろう。塚本邦雄の代表作と言われる例の「皇帝ペンギン」「馬を洗はば」どちらも入ってない。筆者にとっては両者とも邦雄ベスト二百はおろか、ベスト千にも入らない。だって、おもしろくないんだもん。

 だが「馬を洗はば」は塚本本人も気に入っているではないか。そう言われても、仕方がない。講談社学術文庫『現代の短歌』に収録された本人自選百首と、筆者のベスト百を比べて、重なっているのはたった三つだけである。あちゃあ。先生の審美眼と、私のそれとは、だいぶ違うのね。

 そうして私はぞんぶん楽しんでこれを書き終えた。

あとは、できるだけ近い将来、安価な文庫本で塚本短歌が読めるようになることを祈るのみである。

 

01

オルガンと黒い毛布を賣りに出しあとからつぽの無~僧院

【透明文法】

 

 僧院。修道院といった方がイメージがわく。大きなものは、かなり大きい。スタンダールの小説では「僧院」と訳している。「パルムの僧院」は映画にもなった。ジェラ―ル・フィリップ主演のそれは、まるで一つの都市であるかのような巨大な坊さんの殿堂であった。ヨーロッパの古い都市は、基本的に防御集落だから、旧市街地はかなり小さい。城壁に囲まれた都市そのものが僧院、ということも充分に考えられる。

 日本にも、そんなのがあります。奈良の今井町。寺内町といって、真宗のお寺が町を囲ってしまったのね。塔や城壁なんかがあるヨーロッパのものに比べて平面的だが、これも防御集落のひとつである。

 そして、もし。ほんとに巨大な僧院というものが存在するとすれは、その言葉が登場しただけで、もうドキドキしてしまう。だって迷路でしょ。何が起きても不思議ではない。たとえば殺人事件なんかも、おこる。水上勉の「雁の寺」は巨刹でなければ起こり得ない殺人事件である。私はあの寺を図面におこそうとして失敗した。とにかく複雑なのである。

 その僧院が無神である、という。僧院が無神になったのはもとからだった、のか。だから売りに出したりする。あるいは、やむをえずオルガンと黒い毛布を売りに出したから無神になったのか。だとすれば、なぜ売りに出さねばならなかったのか。

さて、どちらでもかまわないのだが、「からっぽ」というキーワードから攻めてみよう。「からっぽ」はまず、オルガンや黒い毛布やおそらく家具とかもふくめて家財道具がなくなったことを示唆する。第二に神がいなくなったことを表す。日本は多神教なので、十月になると八百人の神さまが各地をからっぽにするという言い方が許される。キリスト教では神さまは一人なので、その一人がいないということになる。第三に、坊さんがいなくなる。おそらく、これらはすべてセットなのである。

 ゆえに。私たちの目にうつるのは、僧院をあとに遁走する坊さんたちの姿なのである。その数四、五十人。十台ほどのリヤカーにオルガンやら毛布やら、鐘もあるだろう。説経台もあるやもしれん。しこたま積み上げて走ってゆく。途中市場によって、売りさばかねばならない。砂埃が舞とぶ。これはまさに戦争、だ。なぜ逃げる、という言葉がふきとんでしまうほど、わたしたち人間の遁走についての情動は深いものがある。なぜ逃げるかという理由よりも、逃げることそのものにポエジーがあると考えた方がよい。

 そしてその列の最後尾を、すそをたくしあげ、血相を変えて皆におくれまいと必死になっている一人の姿がある。むふふふ。何を隠そう、そのお方こそ::あのお方なんであるよ。そのお方が砂埃とともに丘のむこうへ消えたとき、私たちは無神僧院のひんやりとした「からっぽ」の肌触りをゆっくりとかみしめるのであった。

 

●今日もまた一番人気スウィートに神の凹みのホテル「僧院」(きうい)

 

 

02

無花果をたべる二人のささやきの扉の外みかげ石つみかさね

【透明文法】

 

 無花果。二人。おお。アダムとイブか。しかし、アダムとイブが食べたのは林檎、だ。無花果ではない。「チンポ丸見えじゃん」と腰に巻きつけたのが無花果の葉、だよね。

 だがもちろん。無花果のほうが格段にいやらしい。豊穣とか、生殖とか、快楽とか、そんなイメージがある。林檎は知恵の実だったか知らんが、無花果は愛欲の実とでもいうべきか。めちゃ甘いし、ね。私も無花果は好き。甘い果物が好きな私は、桃・干し柿・無花果をベスト3にあげる。ありゃ、どれもエロティックだ。

 そんな二人である。あつあつ、だ。ヒュー、ヒュー。そんなやっかみにも動ぜぬほどの「ささやき」まで交わす。そんなアダムとイブはもちろん、林檎を食べる前の彼ら、に違いない。純粋。愛があれば、世間なんてどうでもよか。林檎という智恵は愛を規制するが、無花果という豊穣は愛に歯止めをかけない。こういうところも、筆者が無花果を好きな理由のひとつなのですよ。

 そこに扉、が登場する。二人は扉の内側にいるわけだ。部屋は純粋の楽園。人間関係とかを何も考えなくていい世界があったら、これほど幸福な居場所はないだろう。不幸とは、主に人間関係のそれ、からやってくる。だから、その部屋からベランダ側に続いているのは、熱帯植物園だ。二人は、青い空、羊歯おいしげる湖畔、赤や黄色の花を眺めながら、愛をささやくのである。

 しかし、玄関の扉の外では御影石を積み上げる工事が進行中、なのである。御影石。ちょっと高価な石だろうか。宮殿でも建てるのだろうか。その工事のおっちゃん達が、ひたすら御影石を「つみかさね」ている。

 ここに扉をはさんで同時進行する二つの世界が、出現する。この二つはいったい、対峙する謂なのであろうか。断じて、そうではない。立体的な多面世界の、ただ二つを抽出したにすぎない、と私は思うのである。

 だから二人は、もちろん承知の上である。外で工事が進行中であることを。それで良い、それは日常の見慣れた光景なのだ。そればかりか、扉側、さらに目をやると向こうの公園の噴水で別の二人が愛を交わしている。その向こうでは教会の建築が進んでいる。教会の裏庭からは熱帯植物園が続いていて、それは例の、アダムとイブのベランダへと繋がっている。教会の横ではパンが焼かれ、その横でカップルが愛を営む。

 ここに真の楽園がよこたわる。愛と建築、恋と生活。それぞれが何のしがらみももたずに共存する世界。工事のおっちゃんも、一転して休息日には愛を語る。一人一人の視線は独立したものなのであって、そこここで愛を営む、建築をする人たちはお互いに干渉しあわない。この歌は愛と建築のユートピアを一瞬の断面で切り取ったものなのであった。

 

●植物園カフェで無花果ジャムを買う人に恋して空を愛して(きうい)

 

 

03

骰子を振る女に考古學者らが贈るトレドの麥稈帽子

【透明文法】

 

 サイコロを振る女。かっこいい。ギャンブラーというと、男をイメージするので、それが女性だったりすると、ちょっとオシャレである。ダンプカーを女の子が運転していても、格好よい。同様に、男が洗濯もの干すのも、格好よい。性をちょっと逆転してみると、そこにオシャレが出現する。ただし、価値観はまちまちであろう。ダンプカーを運転する女の子が好きだという男もいれば、嫌だという男もいる。サイコロを振る女も同じだ。家で編物くらいせえ、と言われるかもしれない。

 しかし、ほれた一団がいる。「考古学者ら」である。「ら」がついている。一人では、ない。何人も、だ。おいおい。もしこれがイタリア人だったら、殺し合いになるね。こんなジョークがある。無人島に男二人女一人が流れ着いた。二人の男はどうしたか。イタリア人なら殺し合い。フランス人は夫と愛人で棲み分け。イギリス人は紹介がない限り手を出さない。日本人は東京の本社にファックスで指示を仰ぐ。

 殺しあわなかった、といってよい。なぜなら、みんなで一つの麦藁帽子をプレゼントしたのだ。まさか、全員が一人ずつ別の帽子を贈ったわけではないだろう。十個も二十個も帽子をもらって、どうする。それゆえ、「考古学者ら」はイタリア人ではない。

 ただし、考古学者の性格が問題にされている可能性もある。学者の常、特に考古学ともなれば現実社会の感覚からは遠く離れたところで思考しているわけだから恋愛べた、である。むろんそうでない考古学者もいる。インディ・ジョーンズならそんなことはないだろう。だが、浦沢直樹の漫画マスターキートンは妻にまで振られるのだぞ。

恋愛に疎いくらいだから、当然ギャンブルにも疎い。カジノに立ち寄ったのはガイドがなにかにそそのかされたのだろう。マドリッドの学会のさなか、である。

「だんな方、そんなお勉強ばかりしないで、ちょいと遊んだらどうかね」

 おそるおそる、入る。喧騒と緊張。賭けはしない。考古学者は貧乏、なのだ。だって自費で発掘することもあるんですよ。私は考古学はいやです。地理学、です。

 一同、目をみはる。女サイコロ師。美しい。唾を飲む。しかし、そこはそこ、みんな妻帯者だ。一夜をともに、なんてことは誰も考えない。そんなこと考えるくらいなら、考古学者にはならぬ。ホテルで一同、激白する。「ほれた」とは言わない。「エジプトの秘宝のごとく美しい」。

 衆議一致して、あすトレドの巡検の際にプレゼントを買うことに決める。むふふ。何が似合うか。トレドなら金細工、か。いやいや。イスラム都市の研究もそこそこにプレゼント選びに熱中する姿は感動的ですら、ある。そして「麦藁帽子」。

 人生にたった一度、恋に夢中になった考古学者らの輝ける一日なのであった。

 

●ラマンチャの絵葉書に書く一生で一度の恋文きみはピカソの::(きうい)

 

 

04

薔薇の木の積木で建てた尖塔のうしろの國につづく旱が

【透明文法】

 

 薔薇の木の積木で建てた尖塔。おいおい、ですよ。薔薇の木って見たことありますか。薔薇の木で積木が作れるだろうか。薔薇の木は細い。積木がカットできるほど太さが、ない。だからこれはもちろん、フィクションだ。

 そうなのだが、やはり玩具の尖塔が現実に「ここに」ある、と確信してみたい。そうでなければ、この歌の不思議なおもしろさは味わえない。ゆえに、ふたたび。

 薔薇の木の積木で建てた尖塔。ミニアチュール。ありえないとしても薔薇でできているのだから高価なものだろう。北欧からの直輸入か。小学生の「ボク」は机の上で組み立ててやっと完成にこぎつけた。ここまでは現実のお話。

 さて、ここからである。ここからボクの「見立て」が始まるのだ。子どもというのは、まさに「見立て」の世界に生きている。弱いけれど強くなりたい子どもは、自分がタイガーマスク=伊達直人なのだと「見立て」てしまう。いじめっ子はむろん虎の穴。居場所のない子どもは、裏庭が自由の王国であると見立てる。神経質だった私(筆者)は、大きな世界へ旅立ちたくて、あの山の向こうにはバイカル湖があるのだと見立てていた。その見立ての境界はどこにあったのか。小学校の校舎の裏にある焼却炉である。焼却炉の横に一人で立っていると、とつぜん風が吹いて、見渡す田んぼがすべてロシアの小麦畑に変容する。すると赤城山の向こうのバイカル湖がまざまざと姿を現すのだ。

この歌の「ボク」は、お父さんが出張先で買ってきた積木で尖塔を建てた。午後。お母さんはボクを生んですぐ離婚した。ひとりぼっちの真昼間に尖塔を見ている。もちろん目線を平行にする。そうすれば自分もその中にいる気分になる。そうしてその向こうに、見えてくるのである。平野が、尖塔のうしろの広大な平野が。

 ここに不思議な「ゆがみ」が生まれる。手前には玩具でできた「現実」の世界。その後ろにはリアルに再現された「見立て」の世界が広かる。シュールレアリスムの画家マグリットなら、こうしたゆがんだ世界も表現できるであろう。

 そしてボクは、やがて平野の国の異変に気がつく。小麦が実っていないのだ。ぎらつく太陽。農夫もなかば諦めた顔で、空を見上げている。干ばつ。太陽の王国のもとで、世界は動きをみせてくれない。

 にもかかわらず、ボクはその国になぐさめを見出す。しょせん幸福な国など想像もできない。ひでりであろうが、苦しみがあろうが、居場所がないよりはマシなのだ。ボクにとって、干ばつの国は「見立て」ることができる最高の居場所なのだろう。

 ボクは尖塔から一歩踏み出す。ゆるやかに伸びた農道に入る。一軒の農家がある。その納屋に軒を借り、ため息をつく農夫の横にすわる。柳のむこうに牛がいる。

 もはや帰りたくない自分がそこに、いる。

 

●焼却炉うらに広がるバイカルを友に内緒で机にしまう(きうい)

 

05

蝶類の都に飛火した火事の因は迷宮入りかたつむり

【透明文法】

 

 蝶類の都が大火であるという。大火とは書いてないが、都に飛火したからには、一戸や二戸で済むはずがない。えらいこっちゃ。上へ下への大騒ぎにちがいない。

 蝶、といえば華やかな世界であろう。白や黄色で彩られたアパートや、雑貨屋さん。とくれば、あまんきみこの童話を思わずにはいられない。タクシー運転手の松井さんが車においた夏みかんにひかれて蝶のお客さんが乗ってくる話である。きっと松井さんは蝶の都の中を走りぬけたのであろう。

 さて飛火の原因とは何であろうか。筆者は、まず隣の国に迷宮があり、そこに迷い込んだ「かたつむり」に原因があると考えた。だが、この考えでは血わき肉躍る感動は得られなかった。ドキドキしないのである。

 まず「火事の因」と書かれているだけで少しドキドキする。しかしそれが平面上に位置する「かたつむり」の失火であったならば、ドキドキ感は減少してしまう。

 ゆえに、「蝶類の都の火事」と「迷宮入りかたつむり」のあいだには、次元の隔壁があるはずなのだ。「迷宮入り」とは、何なのか。立体的に考えるならば、迷宮という建築物に入り込んだという意味である。それではドキドキしないので、却下する。また、「解決が不可能になった」という意味で「迷宮入り」という熟語が使われる。その場合に、かたつむりの行方そのものが迷宮入りなのか、あるいは、かたつむりの思惟の中で何かがゆきづまってしまったことを暗示しているのか。

 飛火したというからには、「かたつむり」の側もしくは別の場所でも火事がおきていなければならない。その場所はどこか。う〜ん、むずかしいぞ。

 確実なのは、このかたつむりには一種の哀しみが漂っているということだ。かたつむりはなぜ、こんなにも哀しいのだろう。筆者は少し涙ぐんできた。蝶もたいへんたろうが、私はどうも蝶に同情するより、かたつむりに同情したいのだ。わけがわからない。しかし、このかたつむりは、宇宙の哀しみを一身に背負っているとしか思われない。存在を認められず、迷宮に追われてしまう。

 こうして、筆者は思うのである。かたつむりだけではない、私たちすべての哀しみこそが火事の原因であると。ある存在が迷宮入りしてしまう。そのことのもつ人類の普遍的な情動。その摩擦が延々、蝶の都にまで飛火してしまうのであった。

 つまり。この作品は読者がいなければ成立しない物語である。火事の原因、そこに読むものの情動もからんでくる。私たちが「かたつむり」の身の上に想像をめぐらせ、哀しめば哀しむほどに、火は燃え上がり、轟々と音を立てて燃え上がり、世界を焼き尽くしてしまうのであった。

 

●ペルシアの蝶の都の宮殿の風呂で戸惑い歩むマイマイ(きうい)

 

 

06

弟が継いだ遺産の古酒の名を遠國できくかぜのたよりに

【透明文法】

 

 遠国。よいですねえ。この響き。こういう言葉を聞くとしみじみしますね。この歌の鑑賞とは、すなわち遠国の鑑賞なんである。

 かぜのたよりに。これはもちろん、噂がはかなく漂ってくることを意味している。しかし、それだけではない。ほんとうの風もまた、吹いているのである。そうなると、ほら。漢詩です。

  何処秋風至  何処よりか秋風至る

  蕭蕭送雁群  蕭蕭として雁群を送る

  朝来入庭樹  朝来庭樹に入り

  孤客最先聞  孤客最も先に聞く

 孤客すなわち一人のさみしい旅人。兄、である。作者の劉禹錫が兄だったかどうかは知らないが、旅に出てしまうのは必ず兄、なんである。

 思えば小さいころから親の価値観を押し付けられてきた。弟は二人目の子どもなので、兄ほどには構われないで育つ。兄は親の価値観を一身に受けて育つのだが、哀しいかなそこに多くの疑問を感じてしまうのも兄、なのだ。弟は兄に対する親の接し方をそばで見て育つ。押し付けられていない分、柔軟性もある。

 しかし。その結果はどうなるか。兄は出奔するのだ。底に親の価値観をかかえこみながら、その価値観への大いなる疑義をはらすために旅に出るしか、ない。だから兄は詩人か哲学者か芸術家になるほかは、ない。不器用で、お金もうけもできぬ。もちろん、造り酒屋の経営をするなんぞ、思いもよらぬ。いずれ潰してしまうだけの話だ。こうして兄は親の期待に従うことも、また親を利用することもできずに、旅に出るしかない。

 だから一転、親の価値観を継ぐのは弟、なのである。親の価値観に逆らったら痛い目にあうことを暗黙に了解している。だって兄を見ているから。弟はうまく立ち回る。親に従うが、親を利用する方法も知っている。兄の反対をすればよい。それで弟はお金をもうけるのも、うまい。だから家業はたいてい、弟が継ぐ。それでうまく、ゆく。

 そうして兄は、流れ流れてこの旅館までやってきた。辺境。もうニ三日で畑は終わり、遊牧の国に入る。はや秋。雁さえもが、私を去ってしまう。今朝、たまたま早く起きて庭をのぞいた。まだ世界中の人々が寝静まるとき。私だけが秋の風を聞いてしまう。

 そういえば、昨日村の居酒屋で聞きなれた名を耳にした。親父の酒の名だ。なかなか手に入りにくいという。こんな辺境まで::。弟のやつ、成功したんだな。別に妬む感情もわかない。それでよい。俺はただ、生き延びるたけで精一杯なんだ。

 あす、もうそろそろこの村にも別れを告げねばなるまい::。

 

●うわさから逃げる足取りそれよりも速く国道駈ける古酒の名(きうい)

 

 

07

新しきファラオの過去の妃らが狙ふみづうみばかりの領地

【透明文法】

 

 ファラオ。エジプトの王である。ついに待ちのぞんだ国王の椅子を手に入れた。人事も一新、するんである。新しい体制のはじまりだ。

 過去の妃は、みな整理せねばなるまいよ。さて、どうやって納得させるか。土地でも与えるか。遠国の土地でも与えておけば安全第一、である。奴らの息子どもが反乱することもないやろ。できるだけ遠くへ追い払わねば::。

 さて、諸君。どこがよいかね。希望があれば、なるたけ適うようにはするが。

 ん?それでよいのかね。みずうみばかりの領地じゃあないか。

 ん?君もか。まあよい。そこなら空いている。しかし::。そんな場所とって、どうしようってんだ。

 ほんらい、封建制度で土地を与えるということは、つまり食いもんをいただくことに等しい。その土地から収穫される小麦が米が、税として領主の収入になるんである。ゆえに、みずうみばかりの領地では食うに、困る。食うだけならともかく、生活できない。

 しかし、妃らがこぞって狙っているのは、よりによって「みづうみばかりの領地」だというのだ。エジプトだから、小麦の税を期待するよりは湖からの淡水魚の税を期待する、ってか。ウナギ::わかさぎ::うまそう。ふむ。ねえ。ありうるかもしらんけど。現代のナセル大統領なみに、ダムで湖からの流水をせきとめて、水力発電でひとやま当てる、とか。おいおい。アスワンハイダムかよ。まさかね。

 では、なぜ妃らは「みづうみばかりの領地」を狙うのか。金や富でないとすれば、それはもう心の問題でしかあるまい。私たちはファラオに捨てられたんである。それは疑いのない事実である。その補償として何かくれるのであれば、それは心の癒しをおいてほかに、ない。

 もう今まで、おなかいっぱい食べた。寵愛も、受けた。宝石も限りなく、もっている。あと晩年を残すのみ。何もいらぬ。何もいらぬが一つだけ、欲しい。みずうみ。

この気持ち、筆者はものすごくよく理解できる。筆者が同じ立場なら、やっぱりみずうみを所望する。みずうみ。ほとりに小さな小屋を立てて、ひねもす、ながめて暮らしたい。夜はその冷たい湛えを感じながら、眠りにつきたい。朝には星の退場を映してほしい。夕暮れには深くなる闇を受け止めてほしい。

 そうして何より。「みづうみ」を欲しがる最大の理由は「空」、なんである。ほんとうは空が欲しかったのだ。「何が欲しい」「そら」「いいかげんにせい」。けれども、みずうみを手に入れれば、その水面に映る空は自分のものとなる。妃らはみずうみではなく、そこに映る空によって、反古にされた人生の癒しを得るのだった。

 

●みずうみを二十幾つと沼少々あおいラップで包んでください(きうい)

 

 

08

國籍のなき恋人がかくしもつ旅券のうらにあるただしがき

【透明文法】

 

 あやしい。めちゃ、あやしいぞ。だって国籍がないのにパスポートあるわけない、ぢゃん。しかも「かくしもつ」、だ。なぜ隠さねばならぬ。怪しいから、だろう。何かそこに秘密があるにちがいない。旅券は、そもそも国籍証明のようなものだ。それゆえ、国籍がないにもかかわらず、旅券には何らかの国名が書かれているはず、なんである。それは、どこか。M78星雲、という答えも可能だろう。君はモロボシ・ダンか。また、ナルニア国だとか、吉里吉里国だとかいう答えもある。

 いずれにせよ、定住地のない旅人にかわりはない。空間的な旅人なら、いずれ無国籍であることはばれる。国境を避けて通るなぞ、しょせん無理な話だ。偽の旅券を提示したら出入国管理法に問われて拘置、される。ここで筆者はふと思うのである。タイムトラベラーなのではないか。時間を飛んでしまえば元の旅券はむろん無効、になる。だからこの旅券は、時間旅行の管理人が発行したタイムトラベラーのためのパスポートなのだ。ゆえに、そこに記されているのは国籍ではなく、オリジナルに生存していた時間、ということになろう。ゆえに「かくしも」たなければならないのだ。

 さて。「恋人」という言葉がある。これは塚本邦雄のスーバー技法なのだが、一つの言葉から書かれていないもう一人の人間を想起させる。「國籍のなき恋人」は、当然ある人物の「恋人」なわけだ。ある人物とは、だれか。読者が一番適当であろう。読者がある人物になりきって、この短歌を読むのである。

 さあ。タイムトラベラー、といえば筒井康隆の『時をかける少女』を思い出す。NHKがドラマにしたし、原田知世主演で映画にもなった。その中のユーミンの音楽が切ない。

  あなた 私のもとから/突然消えたりしないでね/二度とは会えない場所へ
ひとりで行かないと誓って/私は 私は さまよい人になる

「私」はここでは女性に設定しよう。「國籍のなき恋人」がケン・ソゴル、つまり未来からやってきた男だ。私が好きになってしまったあの人は、タイムトラベラー。私だけが知っている秘密。旅券も他人には、見せない。私はあの人といると、とても幸福になる。私が私でいられる。けれども、あの人はこの時間に住む人ではないから、いずれは元の仕官へと帰らなければならない。

 もう一つ謎がある。「ただしがき」。その内容は書かれていない。書かれていないのが、いい。それが詩歌の良いところだ。私たちで想像するしかない。おそらく、こうだ。

「半年以上元へ帰らなければ、すべて無効」つまり死ぬ。だから帰るほか、ない。こうして別れは必ずやってくる。あの人との出会いの記憶を消されてしまった私は、翌朝目覚めて理由のわからない涙で枕をぬらすのであった。

 

●はつ夏の庭の茂みに落ちていた旅券がひとつ誰のものとも(きうい)

 

 

09

別れぎは連隊旗手にくちづけをゆるしたあとのいたむあけぼの

【透明文法】

 

 連隊旗手。軍隊であろう。ということは、「私」も軍隊に何らかの関係をもつ人間と見て、よい。では、どんな関係か。その前に、「私」が男か女かを確定しておく必要があろう。もちろん、どちらでも味わえる。どちらが、よりときめくだろうか。連隊旗手は男だろうから、女ということになれば従軍看護婦か。男であれば、同じ兵士の一員。ただし、軍隊というのは階級関係が厳密だから、「私」が連隊旗手の上司なのか部下なのかは、とても重要な問題である。今回は男でいってみたいと思う。

 私は連隊旗手の上司、であろう。「ゆるす」という関係がそれを物語っている。なにより、上司が部下にキス、ではセクシャルハラスメントになる。セクハラにポエジーは、ない。逆でなければならぬ。「連隊長どの。接吻をゆるしていただけますか」と聞いたか。その場合でも、私は許可の言葉をかけるわけにはいかぬであろう。黙認、である。あるいはいきなりブチュ、か。

 それはいったい、どんな場面なのであろうか。「別れぎは」という言葉がすべてを物語っている。というより、この歌は「別れぎは」を味わうために作られたといっても過言ではない。その慟哭すべき、切なさ。もう二度と会えないことがわかりきっている、その命運の過酷さ。人間は、「別れぎは」を経験せずに人生を終えることなど、できない。悲しい生き物なんである。悲しみを湛えていない人間など、一人もいない。

さて夜明け前。かすかに原野の東が白んできている。司令官の作戦は、分隊。連隊長である私は鉄道で激戦地側面へ移動。連隊旗手はこの地に残って敵の前進を食い止める。まもなく出発。危険な場所に残される連隊旗手は、汽車に乗りこもうとする連隊長に歩み寄る。北方山脈から吹き降ろしてきた風が原野をびゅうびゅう唸る。

くちづけ。長い沈黙が二人をだきしめる。ここでホモセクシャルとかを思ってはならぬぞ。ホモはホモで味わい深いものだが、ここでは意味が大きく異なる。「くちづけ」というのは性愛のみならず、人間の根源的な人間関係の欲求なんである。だから「今までアリガトウ。生き延びてください。」という強烈なメッセージを伝えたいときこそ、言葉ではなくて、くちづけで表現する。そのへん日本人より欧米人の方が理解が深い。

 汽車はゆっくりと車輪を動かしはじめる。私はもちろん、外をみやりはせぬ。おそらく旗手がこちらに手を振っていることだろう。ただ窓の外を荒涼たる山脈が、そしてやっと茜をさしはじめた東の空が、うしろへうしろへと遠ざかってゆく。私のくちびるには、あの連隊旗手の、あたたかい温もりがわずかに残されている。汽車は轟音をたてて盆地を下っていった。

 私の目からゆっくりと、涙が落ちていった。その後、旗手には会っていない。

 

●ありあけの満州鉄道人はなぜ人の温さを奪うのだろう(きうい)

 

 

10

婦人科の医師去りてよりさはやかに秋のあめふる奴隷海岸

【透明文法】

 

 奴隷海岸。おお。ギニア湾。ギニア湾のどのへんだったか。ナイジェリアか、ガーナか、コートジボアールか。とにかく、アフリカの熱帯地方である。

 婦人科の医師が関係してくるのだから、「私」は女性であろう。ネイティブである黒人か。インド系・アジア系などの移住者か。あるいはヨーロッパからの植民地統治者の一族か。筆者なら、アジア系移住者を選ぶ。それが最もこの歌を味わいやすいものにしてくれるだろう。ギニア湾に本当にアジア系移住者がいるかどうかは、この際無視する。

 私は、アジアの貧しい国から仕事を探して流れ流れてきた。あるいは裕福な国から弾きとばされたのかもしれない。いずれにせよ異邦人、である。やっと言葉を覚えたが、少し訛りがある。はじめは仲間がいたが、流れている最中にはぐれてしまった。そのうち一人からは年に一度、便りがある。今、私は奴隷海岸に面したゴム畑で働いている。

 孤独。だが、仕方がない。人生とはそんなもんだ。感想もなにも、ない。ただ働いて、ただ与えられたものを食べるだけ。

 そんな私も、今年の夏に病気にかかった。熱にうなされた。マラリヤか。七月に一度、農園のフランス人と関係をもったことがある。何か病気をうつされたか。また、生理もきてない。妊娠の可能性もある。私は自分の小屋に寝たきりになった。農園の人に医者を呼んでもらった。いつ来るか、わからないと言う。蓄えも減りつつある。私は一人きりのこの国で死を覚悟した。ただ、妊娠しているなら、子どもをまきぞえにするのは哀れだと思う。そのことだけが、私をやきもきさせた。はっきりさせたい。死ぬなら死ぬでもよいが、一人で何も残さずに死にたい。

 そんな時、やっと首都から医師が到着した。妊娠はしていない。薬だけ、もらった。私は薬を飲んでひたすら眠りつづけた。そのあいだも外は太陽が照りつづけていた。幾日過ぎたことだろう。目を覚ますと、医師はもう帰ったという。

 久しぶりに外にでてみる。明るい雲が流れている。生きていた。なにごともなく、生きていた。生きているという実感を、生まれて初めてもったような気がする。そのとき、海をたたく音が近づいてきた。雨だ。木立が大きくゆれて、あの岬までの海岸一体が雨に打たれている。このとき、私はこの海岸をとても身近なものに感じた。ここは異邦の土地なのではなく、私という生命を受け入れてくれる海岸なのである。ここに故郷がある。

 私は何の根拠もない希望をもった。そもそも希望には何の根拠もないのである。ただ、生きている、だけ。それ以外の希望は、人間には必要ない。余計な属性を切り落とした希望に気づくとき、雨のふる異邦の海岸は自分の中で故郷として再生される、その一瞬を切り取ったのがこの歌なのである。

 

●婦人科の医師の言づて休息という幸いの奴隷たれとの(きうい)