謡曲短歌

 

行人   シテ=兄嫁の亡霊  ワキ=弟  ツレ=兄の亡霊

      典拠 夏目漱石

 

【ワキ】月かげも()みる手水の厠がりさは(あによめ)とのこるたちばな

 

【シテ】君な寄りそ今し黄泉ゆゑよそひとが()らむ軒よりうつせみの花

 

【ワキ】迷ひくる(えくぼ)ようたてあと百年待て年月にもゆる徒の果

 

【シテ】立ち枯れや(ひとみ)に映る時の群をたれしのべとて忘るものかは

 

【ワキ】恨み音をゆめか現かまぼろしにたれしのぶやは要らぬ執拗(しうね)

 

【シテ】心ことに()げる言葉もつらからめ見せぬ執拗(しうね)と推して思へば

 

【ワキ】すれちがふ(もだ)のよこがほ敢へてその暗号はせめぎはてるぞ

 

【シテ】知られじと風は吹き来よ馥郁の()()にしるき柏木の手跡()

 

【ワキ】ふたりしてあらし見やうね其れはそも翳す仄香(ほのか)にうがつ雨滴(あまだれ)

 

【シテ】雨に濡れて来りきもろき重箱の中のひみつをなぜ開けられぬ

 

【ワキ】(いとぐち)が見つむるあはひに触れかねてただよふひみつみづがくれけむ

 

【地謡】死はし充つる行く空かけて裁つ(きず)をたちまち(さら)す夜半の潮の音

 

【地謡】兄は夢路の旅枕 たびまくら 幸い住むと人の云ふ 山河跋渉

    ゆがむ地図 それはほんまか憎しみか ついぞわからぬわれもかも

    われもかも おもほえで

 

【ツレ】難破船団のゆくへは蠍すむ西よ自由かわれも還れぬ

 

【地謡】たい空を捉へどやみの蕪村かな

    ダテマサムネで切りつける

 

【地謡】木にほとけ埋もるとつひに運慶は語らざりにき旅に出でにき

 

【ツレ】足軽に追はれ遁れて沼へそのかきやる手にぞ(おもかげ)がゐる

 

【地謡】(うけ)がうてまた忌むべきや心にもあらで愁ひのそれも行人

 

【ツレ】偽といふ空漠を(きし)ませて(くら)き器に人は棲むなり

 

【ツレ】聴こゆるか昼と夜とのたゝかひに永遠(とは)のうそてふ嘘の(そら)てふ

 

【地謡】すぢ雲のすぢの御心たどりつゝ墓をたづねてゆく黄金虫

 

【ツレ】うとき身はいづれ妹背の厭ふればただ疑ひを愛の標べに

 

【地謡】罪と罰のはざまにあの真実(しんじち)をご覧なすったか 蒼いきりぎし

 

【ツレ】ゑまふとて酔ふばかりなる戯れはさすがだにえも触れぬ真実(しんじち)

 

【地謡】かくてありけりみちゆきの 背にはあによめ麦の畑 紅い

    守宮のかこみらい 荷はみづからの優柔の 果てに照らすは

    般若の面 慥かに其処よ杉の根よ 「あなたがあたしを殺め

    しは」

 

【シテ】屋敷森いま蛇になる深くなる(たらい)ひるすぎはだへの滴

 

【地謡】悟りはもやがて写しぬ軒の上にこよひ僧都の(わら)ふ屍

 

【ワキ】ねえさんのびんの重さがふかぶかとくづれおちたり。つひえたりけり

 

【地謡】亡き人の霞みさりゆくいにしへを瞬くすべぞどこの秋風

 

【ワキ】月もなおも森に往にけりつくばひのけふつくづくとひらくゆふがほ