短歌の「やわらかい地図」
地図。もとより大好きです。朝から夜明まで(おいおい、いつ寝るねん)見ていても飽きない。地図というのは現実のコピーではないので、地図によって空間の立ち上がりかたが異なる。今回は、その地図そのものをテーマに選ぼうと思う。まずは、この歌から読んでほしい。
●外套襟立てゝ見るGoode
homolosine図法けぶる渤海(高橋睦郎)
これはまさに正統派の地図の歌である。地図とは、このように使うものである。地図を歌った古典中の古典といってしかるべきだろう。正積図であるホモロサイン図法を航海図として使うだろうか、という疑問はさておいて、一点のくもりもなき緻密な構成をもつ、リアリズムの名作と言える。
渤海。鉛いろの恐ろしい荒波が、赤い測量船を縦に横にゆすぶっている。遠い戦争の昔に廃棄された駆逐艦を改造したものだろう。黙々と甲板で作業する船員たち。そして船長の「私」は伸び放題の髪を後ろへなびかせ、地図を片手に、幽玄の彼方へ双眼鏡をむける。
いいですねえ。アドリア海でもなく、カリブ海でもなく、渤海。その渤海がけぶっているのは、その先に異国の存在を感じさせるからである。むろん中国ではない。渤海という不思議な海は、人に知られることのない未知の国をいっぱい内包している。Goode homolosine図法。船長の「私」がこの地図をもっているのは、だから航海図としてではないことが、わかる。渤海というものの本質を探るためなのだ。それが内包する未知の島を探索するためなのだ。
ただし、この歌でイリュージョンは「けぶる」彼方に隠されている。「私」は紛れもない現実の3次元空間にきっちり根をおろして立っている。オーバーコートという道具が、そのことを確実にしている。「私」がデッキで強い風を受けている、その風の感触を私たち読者も感じないわけにはいかない。ゆえに当然、Goode homolosine図法の地図も、手にもって紙の感触確かな、ものなのである。紙というのは、けっこう硬い。へりで切ればたちどころに出血する。その出血可能な地図を高橋睦郎はもっているんである。
これが正真正銘の地図の歌というものだ。では、次から近年の作をみてほしい。最近地図を題材にする人がけっこう多い。
●嘘つぽさが鮮度を保つてゐる地図の折れ目に沿つて開く海溝(花村陽子)
地図というものは、そもそもが嘘である。地図はありのまま地形を写したもの、なんて信じている人は、地図を使いこなせない。虚構(デフォルメ)がきいていればいるほど、使いやすい地図だ。だから、「嘘つぽさが鮮度を保つてゐる」というのは、奇抜なレトリックではなくて、デフォルメがちゃんとわかる形で生きているということなのだ。それが通常の健康なありかたなのである。
しか〜し。そこに海溝が割れ目をのぞかせる。海溝とは嘘の反対。つまり現実だ。これはおそろしい。虚構のつもりで安心して地図を楽しんでいたら、いきなり等身大の現実が顔を出す。しかも海溝、だぜ。怖いなんてもんじゃない。「開く」という表現が、その割れ目の深遠で、暗くて、一度落ちたら二度と戻れないことを示唆している。
実は人の感覚も、現実をそのままでは受け取らないようになっている。あいまいな形でデフォルメして受け取っているのである。例えばここにテーブルのヘリがありますね。これをもし正確な現実として受け取るならば、フラクタルみたいな曲線になってしまう。そこを直線と「見立て」てしまうわけです。人間関係とかに拡大しても同じことがいえる。
現実そのままが、目や鼻から等身大で入ってきたら、これはもう生活がなりたたないのね。
そんな意味でこの地図は、ちょっとしたホラーなのだよ。花村陽子の地図は、これはもう本来の地図の役割は期待されていない。現実世界の中に、地図という機能的な物体があるのではなく、地図そのものが、何か人間の身体のように柔らかく、変幻自在な対象として扱われている。まさに地図は身体である。この海溝も、新鮮な肉体(それは私たちの目にはデフォルメされた滑らかな皮と映っているが)の表面に深く穿たれた傷なのである。その深い底に見えるのは、リンパ液や血管や肉の筋や、ふだん意識しない現実のナマの姿だ。
こうして花村陽子は、地図という媒介をつかって虚構と現実の反転を試みる。地図は、道具ではなくて、まさに世界そのものであり、世界を見るときの私たちの視線の真実をそのまま表現したのである。
●縹色のリボン撚れつつただよえり春暁ガス田記す海図に(十谷あとり)
ふつうガス田と聞けば、ひどく恐ろしいイメージをもつ。鉛色の海から赤黒い炎がそそり立ちそれは世界の終わりであるかのような(東シナ海には実際に春暁というガス田があるが、そんなものは考慮に入れない。なぜなら、百人中一人くらいしか知らないであろうから)。
しかし、この歌から聞こえてくるのは、実に爽やかな早春のにおいである。
なぜか。このガス田は海図という二次面の世界にある。この時点でガス田は、恐ろしくもなく、また爽やかでもない。単なる記号だ。その記号を立体的に立ち上げていこうとするのが、上句の「縹色のリボン撚れつつただよえり」の表現だ。この「リボン」はおそらく、ガス田の地図記号であろう。筆者は地理学を学んだので地形図は飽きるほど見てきたが、海図は一度も見たことがない。歌会でこの歌を絶賛したところ、逆に海図のことを質問されて慌てた。地理屋は海図なんて知らんのよ。
ともかく、先にこの地図記号である「リボン」が二次面から立ち上がってくる。ここに早春の雰囲気が凝縮している。まさか実際に縹色しているわけではなかろう。作者の心が記号に投影している。そして撚れながら、漂っている。
するとその、後を追うように、ガス田もまた立ち上がってくるんである。飛び出す絵本を思い出していただきたい。あれも二次の平面が、パカッと起き上がってくるでしょ。しかし、さすがに本物のガス田、あの臭い匂いがたちこめ、鋼色の巨大な怪物から悪魔の舌のような炎を噴出している実物が想起されるわけではない。ガス田は完全な三次元を獲得する途中でとまってしまう。
そうです。筆者の提唱する2.5次元の世界。平面と立体空間の途中に築かれた空中楼閣。玩具。おもちゃ。ミニアチュールのガス田。二.五次元の宙ぶらりんな世界に、縹色の早春の風が吹き抜けるのである。つまりガス田のような、3次元の世界で恐ろしい建築物も、こうして2.5次元に変換することで豊かなポエジーを馥郁と香らせることができる。ただ、ふつう3次元から平面へと2.5次元化する場合が多いのに対して、この場合は2次平面から立ち上げているパターンとなっていることに注意したい。
このガス田の歌についても、海図という物質が現実のリアリティの中に存在するのではない。海図が世界そのものなのね。この歌の勢力範囲はただ、ただ、水平線まで海図の肺を出ない。つまり海図ははじめから、あの手触りのある海図ではない。私たちがどうやって海図とかかわるかといえば、「もつ」のではなく、海図のなかに「在る」としか言いようがない。しかもその海図は立体的に半分だけ起き上がることが可能な、柔らかい地図なのである。
●地図の道たどれば天気雨の辻へカテの脚に黒子はいくつ(大塚ミユキ)
ヘカテ。神様の名前か。いつもは調べ物なんかせぬ筆者であるが、今度ばかりは気がかりなので調べてみた。おお。三叉路の女神。筆者のためにあるような女神ぢゃん。私は三叉路が大好きなのであるよ。そうすると、歌中の「辻」というのも、これは三叉路のことにまちがいないんである。
地図の道。地図に載っている道。地図の中の道。むろん、後者である。地図に載っている道を辿るって、あたりまえぢゃん。これも自分が地図の中へ入りこんで、地図上の道を「私」が歩くという意味にまちがいない。そうなると、おいおい。「私」が小さくなるか、地図が大きくなるか、せにゃならんぞ。だから柔らかい地図だというんである。変幻自在の地図でなければ、そんなことはできぬ。だからこの場合も、世界の範囲イコール地図の範囲となっている。
そしてとある辻にさしかかったとき、それは三叉路であるのだが、爽やかに晴れ上がった空気の中を、横殴りに「私」の頬を打つものがある。雨。なぜこんなときに。おもえば、天気雨は地形のくびれの部分でおきやすい。気流が渦をなすのか、あるいは錯覚か。光と影の交差する天気雨の現象は、見慣れた地形さえをも私たちに馴染みのない、別世界へと飛翔させてくれる効果がある。
それゆえ、「私」の前を、あのヘカテが歩いていても、ちっともおかしくないのである。急な天気雨に慌てる「私」をよそに、ヘカテの周囲だけは雨が落ちていない。よく見ると、ヘカテの剥き出しのふくらはぎには、黒子が一つ。さらによく見ると、もう一つ。「私」は、ヘカテが歩いているという不思議さを忘れて、ヘカテの脚の行方を追ってしまうのであった。こうして数分。三叉路を過ぎるとうそのように雨が上がり、もとの晴天。いつの間にやら、へカテも消えている。
こうして「私」は三叉路のうち、下り坂になっている一本の石畳を歩きながら、いったいあのヘカテには、いくつの黒子があったんだろう。と考え込んでしまうのだった。
●白地図の尾根ゆきなづむ旅の窓吹かるる葦か闇動くなり(小林愛子)
ふつう、白地図では尾根はたどれない。尾根をたどるには、等高線がなければならぬ。等高線が低い方へ出っ張っていれば、それが尾根である。谷はその逆。だからこそ、「ゆきなづむ」のであろう。白地図で尾根をゆく、って。それは無謀というものです。近年、中高年の登山がさかんになり、それにつれて遭難も鰻のぼりであるが、尾根と谷の区別もつつかぬような地図をもっていては、やむをえませんなあ。それゆえこの地図も、最初から無用のものと認識されている。
というより、「旅」そのものが、白地図の尾根をゆくような得体の知れぬ、イリュージョンであると認識されている。だから「白地図の尾根ゆきなづむ」は「旅」の序詞になっているんである。こうして「旅」という一語を転換点として、下句はリアルな世界が提示される。汽車に乗っているのであろう。茫漠とした、どこを走っているのかもわからない、そんな旅の汽車の窓。外をみやれば、そこにザワザワっと揺れる影がある。風に吹かれている葦だろうか。それにしても、闇そのものが動いているようだ。
闇の中を走る汽車。葦か、化物か。何かがそよいでいる。葦だとすれば、この汽車は川沿いの、あるいは湖沼沿いの湿原地帯を走っているのだろう。今どこなのか。行き先もわからない。汽車は轟音とともに虚空のなかへと突っ込んでゆく。
そのとき、どうですか。汽車が虚空へ突っ込むほど、私たちの頭にはなぜか上句の「白地図の尾根ゆきなづむ」のイメージが踊り出てくる。リアルな実体であるはずの汽車の風景。それは限りなく鈍磨され、質量が希薄になってゆく。一方で比喩であるはずの、そして実体をもたないはずの白地図の尾根が、実体としてせりだしてくる。ここでも、白地図の2.5次元化が進んでいるのだろうか。そうではない。2.5で留まっているならこの歌はこうも迫力がなかっただろう。この歌の迫力は、比喩であるはずの2次平面が、2.5次元を乗り越えて、リアルな3次元へと越境しようとする摩擦からきている。白地図が盛り上がって、尾根をせりあげる。さらに私たちはその箱庭のような模型を越えて、真っ白な、つるんつるんの尾根の現実に立たされるんである。白地図の白から、吹雪を連想してもよい。現実が闇に溶け入るかわりに、私たちは比喩の空間へと投げ出されたわけである。ここに立体化した歪んだ白地図が立ち上がる。もうお気づきのように、この場合も世界イコール地図の等式がなりたつ。だって、もともと私たちがいた現実空間は、汽車ごと紛失してしまったんだもの。
●地図上にかつては在つた島の名を眉墨鉛筆折れるまで塗る(辰巳愛)
「地図上にかつては在つた」とあるからには、今はその島の名は地図上にないわけである。この地図は現実のリアルな地図ですね。しか〜し。おいおい。今はすでに無い、その島の名前をどうやって眉墨鉛筆で塗ることができるんた。しかも「折れるまで」。こわ〜い。執念ぶか〜い。いったい何があったというのだ。島に恨みでもあるのか。振られた恋人がその島の出身だったとか。え〜い、消してやる。こんなもん。ごしごし。ってか。
ともかく、「私」はどこを塗りたくっているのだろう。地図上とありなから、地図上でないことだけは、確かだ。だって、地図上にないって断言しているんだもの。
では、どこか。それはもう、現実の島をぬりつぶすしか、ありえないでしょ。きっと小さな島だな。南鳥島とか。あとひといきで、沈んじまう奴。そんな島が立体的に起き上がってきて、2.5次元を越えて、さらに3次元のつぶさなリアルを帯びるまで着色して。そうして出来上がった島を、ギュッ、ギュッて、眉墨鉛筆(あれ、小さいよね。ふつうの鉛筆より。なんか、おそろしい事態が発生しているなあ)で消去していく。二度と見えないように。だからこの歌は、最初2次平面から出発したものが、作者の執念で次第に立ち上がっていくお話なのね。ここでは世界イコール地図ではない。地図は想起のきっかにすぎず、実際のリアルな地図も、柔らかな異次元の地図も、現れてはこない。ただ局地的な現実の地理(島)のみが想起されて、それが強い力で否定されてゆく。単純ではあるが、まことに変な、と言っては失礼だが、へんてこりんな(同じか)力強さをもった作品なのてある。
さて整理しよう。古典的な地図の歌では、リアルな空間があってリアルな人間がリアルな地図を使っていた。ここには地図というオブジェ、少なくとも機能が期待されている詩情豊かな「モノ」としての地図がくっきりと浮かび出ていた。
しかし花村・十谷・大塚の歌では、前提となるリアルな背景がまず存在しない。地図イコール世界、すなわち地図という物体を見る視点(次元)が消失し、主人公や読者はいきなり地図の中に立たされていることになる。これらの歌では、地図は見るものではなくて、人間や風景やそのたの事態を乗入れる空間そのものなのだ。だから、地図という言葉が発せられた瞬間から、地平線まで地図がグワッーと広がってしまう。
ただしそこからの展開はそれぞれに違っている。花村の歌は、背景として虚構の世界があり、その中にリアルの裂け目を見た。十谷の歌は、平面的な2次元の世界から2.5次元の世界が起き上がってきた。大塚の歌は、地図の中そのものがすでに3次元として成り立っていた。
この三人は少なくとも地図という概念を利用して一つの世界を構築しようとしていた店で一致している。だが、次の小林と辰巳の歌は、確かに初めオブジェとしてあった地図が、複数の世界の転換を試みるようになっている。小林の歌は、単に比喩でしかなかったはずの地図が、いつのまにか、リアルな現実世界をさしおいて、3次元を獲得してしまうお話だった。一方辰巳の歌では、地図上で否定された記号をきっかけに、記号がさししめす現実の法がリアルに立ち上がってしまう。
このように、現代短歌が扱う地図は、リアルな機能的物質としてのそれ以外、世界を記述する方法として、あるいは複数の世界の飛躍を助けるための方法として取り入れられているのであった。