ユーミンの「異国」

 

 以前、ユーミン(松任谷由実)の詞を鑑賞したことがある(『ユーミン「愛」の地理学』河出書房新社刊)。その中で、ユーミンの詞が立体的に立ち上がるダイナミスムを指摘した。今回、書ききれなかった作品から、新たにテーマを設定してみた。国というと、政治的な境界線やイデオロギーを考えてしまうが、もちろんそんな意味はない。メルヘンの中の「国」とは、遠く離れた異郷のことである。私たちの頭の中には、多かれ少なかれ、「異国」がしまいこまれている。頭に異国を隠していない人は、さみしい人である。ユーミンは、その異国をどう扱っているのだろうか。まずは、『りんごのにおいと風の国』からみることにしよう。

 季節は秋。「ハロウィーン」というフレーズがこだまする。詞の物語とは直接の関係はない。だが、収穫が終わりこれから冬に向かうという淋しさを醸し出す。なにより、「短い秋のピリオド」とある。ハロウィーンによって実りの季節が終わるように、恋も終わりを迎えるというのである。
 さて、この恋。すでに終わったものを回想しているのか。それとも現在進行形で終わろうとしているのか。たぶん後者であろう。
 
いのこずち ひとつ
くちづけてセーターに投げたの
言えなかった想いを残らずこめるように
そして ストーヴの前で
ぬいだとき気づいて欲しい
小さなブローチ 短い秋のピリオド
 
 二人が同じ時をすごした最後の場面である。「いのこずち」おお。懐かしいねえ。これは男の子にとっては、手裏剣ですよ。まったく男の子というのは幼稚です。そうではなく、ハートの代わりなのである、女の子にとっては。いのこずちにキスして「あなた」に投げつける。当然、「あなた」のセーターにひっつく。この場合、「私」は後ろから「あなた」の背中に投げたことが明白だ。「ストーヴの前で ぬいだとき気づいて欲しい」。つまり投げたときに「あなた」は気づいて、ない。
 では、何のために投げたのか。「言えなかった想いを残らずこめる」ためである。言えなかったのね。可愛そうに。言えなかった想い。それは何か。まずは先を急ごう。
 そうしてストーブのある部屋。早いっスね。十一月ですよ。このことからも、すでに気持が冬に向かいつつあることを暗示している。願いは、いのこずちに気づいてくれること。しか〜し。「気づいて欲しい」とある。やんぬるかな。気づかなかったんであるよ、この男は。鈍感な奴だな。こうして恋は終わってゆく・・・。
 この詞でも、ユーミンの特徴である時間の倒置がなされている。さっきの「いのこずち」は実は二番。そして一番こそ、ついに恋が終わってしまった現在の場面である。
 
ハロウィーン
木枯らしのバスが夕暮れの街を過ぎれば
うつむいた人々 どれもが似ている顔
たぶん あなたの愛した
私はどこにもいないの
若さが創った美しすぎるまぼろし
 
「木枯らしのバス」。いい表現です。木枯らしを身にまといつつ、バス自身が淡々と移ろいゆく季節の謂であり、また木枯らしそのものでもある。だから、「うつむいた人々」はバスの乗客ではない。木枯らし、イコールバスが通り過ぎたあとに、取り残された人々なのである。みんな「似ている顔」に見える。そして、「私」もきっとそうなのだ、私もみんなと同じ顔をしているにちがいない。
 だって。「あなた」は本当の私を見ていなかったんだもの。若かった「あなた」は、ただ幻を見ていたにすぎない。よくある話です。男というものはまず、女性に幻想をいだく。その幻想を付き合った女性におしつけるんですな。君はボクの理想だよ。ちっ、ちっ。そうじゃない。男は単に、彼女の素顔の上に自分の理想の仮面を乗っけていただけなのである。だから、女の子は息苦しい。
「この仮面、とってくれへん。」
「ありゃ、あんた誰れ?。」
 男が夢見るような女性はどこにもいてない、のである。では、「私」が言うように、私もまた街の人々と「似ている顔」をしているのか。とんでもない。みんな、一人一人違う顔をもっている。うつむいているから、同じに見える。彼氏に拒否されたから、みんなと一緒なのだと思ってしまう。女性の方も、男の目に映る自分から開放されて、本当の自分を探さねばなるまいよ。
 こうして「私」がいのこずちに託そうとしたメッセージが読める。すなわち、
「私はあなたが好きよ。でも、あなたは一つも私のことが好きではなかったわね。私はずっと窮屈だったの。このままでは、もうお付き合いできないわ。」
 こうして「私」の出した結論はこうだ。
 
もういけない たずねてゆけない
わがままなあなたをゆるしそう
 
もういけない たずねてゆけない
ひたむきなあなたを探しそう
 
 どこへ行けないのか。「あなた」の元へ、である。形式上、この恋は「私」の方から終わらせたということができる。おそらく彼に、別れの原因は理解できまい。日常のささいな行動ひとつひとつに、自分の好みを要求する「あなた」。あなたは、それが彼女の虚像であることに気づいていない。自分の、自分自身のフィルターを通してみた彼女にすぎないことを。だから一方では別れの原因は彼の方にあるというのが実情だろう。
 しか〜し。それでも「私」は、そんな「あなた」を許してしまいそう。生き生きとした「あなた」を探してしまいそう。だからこそ、もう「あなた」を訪ねてはゆけないのだ。許したり、探したりすれば、再び私の顔は仮面で覆われる。それはもう、決まりきっている。「あなた」という人は、変わることができない。そもそも理解することすら、できない人なのだ。
 だから「私」は、
 
りんごのにおいと風の国へ急ぎます
 
とつぶやくほか、ない。「りんごのにおいと風の国」。とても淋しい国。北国の匂いのする国。酸っぱい涙も出ることだろう。しかし、私が私であるためには仕方のない選択なのです。「あなた」よ。わかってください。私は私の顔を自分で見つけ出すために、異国へ旅立ちます。
 

      ☆

 

 次に『コンパートメント』という詞を取り上げよう。「国」という言葉こそ出てこないが、この曲も、異国に身を馳せる姿を描いたものだ。恋が終わり、「私」は夜汽車に乗り込む。

 

あのひとが愛のかわりに
残していったのは
声たてて笑ったあとに

遠くを見つめるくせ

 

 ここでは、男の方が演技者である。声をたてて笑う。まったくの演技。おそらくそれが演技であることを「私」は見抜いていたのであろう。彼の方でも見抜かれていることに気づいたであろう。ゆえに彼は、笑い終わったあとに遠くをみつめてしまうのである。これってつまり、太宰治ぢゃん。鉄棒の失敗を友人に「ワザ、ワザ」と見抜かれてしまう。太宰治は見抜かれて赤面するが、『コンパートメント』の彼は、さらに道化を続ける。遠くをみつめるのも、演技にほかならない。しかも、くっさい大根役者である。

 そして「私」は失恋し、コンパートメントのある夜汽車で到着した先というのが、

 

  やがて私は着く
全てが見える明るい場所へ
けれどそこは朝ではなく

白夜の荒野です

 

なのである。これは最終節であるから、いわば結論ですな。朝だと思ったのに「白夜の荒野」。つまり本物ではなかった。失恋の痛手から逃げるために夜汽車に乗った。やがては朝がきて、私は癒しを受けるであろう。甘い。やんぬるかな。朝は、こない。しょせん「白い眠りぐすり」では、本当の異国には到着しないのだ。もちろん、眠りぐすりも必要ではある。痛手が深いときには飲まねばならぬ。ただ、それだけでは真の姿に気づくことはできない。

 なぜ私は失恋したのだろうか。今度は「私」の方がわからない番だ。

 

そばにいられるなら
熱い瞳は交せなくても
歓ぶ顔に喜べる

ゆれる影でいたい

 

 ズバリ原因はこれ、であろう。彼の「歓ぶ顔」に私が「喜ぶ」というのだ。彼に歓ぶ顔を強要している「私」。これでは、彼が演技者になってしまったとしても、おかしくはない。案の定、彼は「声をたてて笑」う人間だった。そうすれば彼女が喜ぶから。声を立てなくてもいい笑いに、わざと声を立ててしまう癖がついたのだろう。

 それでいて、私は「ゆれる影でいたい」というのである。つまり自分は楽して観客の側にまわり、彼に演技を要求しているのだ。「笑って、笑って」。

 つまり、『コンパートメント』は、『りんごのにおいと風の国』を反転したもの、といってさしつかえない。私は私のそんな性癖に気づいていない。だから振られた理由も理解できず、失恋に悶々としている。いまだ未練は断ち切れていない。

 
あのひとの途切れた声の
ゆくえ探すように
すれちがう同じコロンに
ふりむいてしまうくせ
 
「あのひとの途切れた声の/ゆくえ探すように」、コロンなぞ追うのでなく、自分が彼につけた仮面を探すべきだったのだ。これでは白夜の荒野に到着しても、決して変ではない。
 そして、「りんごのにおいと風の国」へ行ってしまうのが、紛うことなき彼の方だったのである。
 
     ☆
 
 これまでの二つの歌は、相手に仮面をつけてしまう歌だった。では『さみしさのゆくえ』では仮面はどこについているのだろうか。
 
悪ぶるわたししか知らず
あのとき 旅立って行った
お互い自分の淋しさを抱いて
それ以上は持てなかったの
 

 おお。自分に仮面をつけてしまったのね。本心を明かさず、「わたし」はあなたの前で「悪ぶってしまったんである。なぜ、なぜなの。それは、自分をケアするだけで、精一杯だったから。どっちも、「自分の淋しさ」で手いっぱいなわけなのね。相手の淋しさなんて、かまってあげられない。それゆえ「それ以上は持てない」ってか。おいおい。とてつもなく包容力のない人間どうし、よくつきあったものだ。それぢゃあ、デートしたって、つまらんだろう。カフェでお互い相手を見ずに、自分だけみつめてるってか。げほ。テーブルの上に鏡おいてるみたいですな。

 これでは、「あなた」が旅立ってしまうのも当然である。そうして「あなた」は、「さいはての国」で暮らしている。これは立場が逆になっても、同じです。「わたし」が旅立ってしまい「さいはての国」でくらす。どっちもどっち。同罪。

 ではあるが、この詞が「わたし」の立場で書かれているので、まず「わたし」の心理から攻めてみよう。「あなた」は一時帰省する。それに対する「わたし」の期待。

 

おだやかな冬景色が なつかしかっただけなの?
どこかで会おうと言って 急に電話くれたのも
昔の仲間のゆくえ ききたかっただけなの?
 
 おいおい。何を期待しているのだ。「わたし」への愛の言葉を聞きたかった、ってか。冗談じゃないぜ。「わたし」は「あなた」に対して何か、本心をぶちまけたのか。相手の淋しさをわかってあげたのか。君が何もせんのに、要求だけはするんか。少なくとも、「あなた」は、
 
こんなわたしでもいいと 言ってくれたひとこと
 
って、言ってるんだぜ。申し訳程度やけど、まがりなりにもこりゃ、プロポーズじゃ〜ん。それを、
 
今も大切にしてる私を笑わないで
 
だと。じゃあ、そう言ってやれよ。「大切にしてるんよ」って。同罪とさっき述べたが、これは明らかに男の方が判定勝ちです。プロポーズしてるんだから。
 
心の翳は誰にも わかるものじゃないから
 
他人の淋しさなんて救えない
 
 そうだよ。そのとおりだよ。だからって、相手を無視して自分の淋しさだけ見ていては、何も始まりはしない。ただ、いてあげるたけで、良い。「わたし、淋しい。だから一緒にいて。」と打ち明けるだけでいい。
 
夕陽に翼を見送る
 
 あ〜あ。行っちまったぜ。もう帰って来ないよ、彼。知〜らない。
 この歌は救いようが、ない。絶望的、です。
 
残った都会の光 見つめてたたずめば
そのときわたしの中で 何かが本当に終わる
 
 その通り、というしかない。結局、私が自分で仮面を取らない限り、彼は戻ってはこない。彼は「異国」へ行ったまま、帰ってこれないのだ。
 まとめてみよう。『りんごのにおいと風の国』の彼は、彼女に仮面をつけた。それゆえ彼女は彼をおいて、「異国」に救いをもとめるほかなくなった。「異国」とは、人間関係が破綻したときに逃げ込む空中庭園なのである。『コンパートメント』では、彼女が彼に仮面をつけた。それで彼は力つきて、彼女から離れてしまう。彼女はその傷心を癒すために「異国」を希求するが、別れる原因が自分にあることを理解できない彼女には、「異国」に到着する資格がない。『さみしさのゆくえ』では、自分に仮面をつけたままの彼女を置いて、彼は「異国」に旅立ってしまう。
 すでに繰り返し登場しているように、キーワードは「仮面」である。仮面を操作する方が別れの原因をつくり、それに傷ついた相手が、しかたなく「異国」へと避難してゆく物語。この三つの歌はまさに同型の心理劇なのだ。

結局、「異国」とは、仮面の恋愛劇から離れて、自分を回復する場所として機能する。この「異国」をもたない人は、永久に仮面劇から退場できず、それゆえ豊かな恋愛関係も結べない。

 だから人は仮面劇と、素顔でいられる「異国」を往復しながら、素顔をさらけだせる相手を待つしかないのだと思う。私は『ユーミン「愛」の地理学』で至福の空間を味わった。今回の三つの作品が『ユーミン「愛」の地理学』から漏れたのは、畢竟、この三作品が不幸の見本だからである。やはり人は本当の自分を見つめる必要がある。そのための空間が「異国」にほかならない。そして、やがては「本当の自分」を見てくれるような相手にめぐりあうことを夢見るのである。『ユーミン「愛」の地理学』の中で、恋愛中の二人が、それぞれの「本当の自分」を見つけあうのは、地平線イコール辺境という場所であった。「異国」とは、恋愛相互ではなく、一人孤独に自分と向き合う場所の謂なのであった。