アクアマリンの約束
作/おりびあ
こうして潮風を浴びにこられるようになったのは、何年ぶりのことだろう。
和洋が私の日常からいなくなってしまってからというもの、ふたりが出会ったこの海から、
すっかり足が遠のいていた。
そう、あまりにも辛すぎる記憶に、私は長いこと背を向けつづけてきたのだ。
写真の専門学校に通いながら写真家を目指していた当時は、電車を乗りついで海を撮
りに行くことが週末の楽しみだった。田舎の小さな浜辺だからか、物めずらしそうに話しか
けてくる軟派なサーファーたちのひとりに、彼がいた。
ある日のことだった。ひとりで泳ぎに来ていた、地元の子供らしい真っ黒に日焼けした少
年が溺れかけた。運良く、カメラを向けていた方向での出来事だったので、私が真っ先に
飛び込んで助けることができた。幸い大事にはいたらなかったが、震えて泣きじゃくる子
供を抱きしめて、なだめている最中に声が聞こえた。
「ねぇ、カメラマンさん。子供、助けてくれてありがとうね。俺も子供は大好きだよ」
のんびりした調子の声に心中で苛つきながらも、波の上から誰より急いで来てくれた彼
の優しさにハッとした。
「あなたこそ、ありがとう…」
お礼なんてよしてくれ、というように手を振りながら去っていく彼の後ろ姿が、なんだか
とても温かく見えた。ほどなくして、返さなくていいから、と渡してくれたビーチタオルのや
わらかさに、心まで癒されたような気がした。
その後、「カメラマンさん」が「奈美」へと変わっていくまでの時間は、そう長くはかからな
かった。
ファインダーのなかで、波のうねりを巧みに読んでたわむれる彼の姿は、他の何よりも
輝いて見えた。月曜には素知らぬ顔をしてカッチリしたスーツに身をつつみ、都心で通訳
業に励む彼を思うと、違和感がありすぎて吹き出しそうになったものだ。
「奈美が、はたちになったら買いに行こっか。いろいろ、がんばってるご褒美に」
雑誌のジュエリー特集のなかで、アクアマリンの画像に釘づけだった私の後ろから、彼
はのぞきこむようにして言ってくれた。果てなく澄んだ異国の海水を一滴すくって、何かの
魔法で固めたような宝石に、私はひとめぼれしたのだった。
無邪気な「○○のご褒美」というのは、彼の口癖のひとつだ。週末ごとの長電話。受話
器ごしに缶ビールを開ける音とともに、仕事をがんばったご褒美だから、と嬉しそうな声
を何度も聞いた。
あの日、彼は暴走してきたモーターボートに衝突されて、二度と帰らぬひととなった。
お得意のロングボードが、不自然に弾け飛んださまを忘れることはできない。
好き、愛している、などの甘い言葉は、親しい友人の間でも無愛想で通っている私から
出てくるはずもなかったが、彼は幾度も照れずに伝えてくれた。あまりにも短かった大切
な時間のなかで、一度くらい伝えておけばと悔やんで眠れない日々もあった。
やがて夏が過ぎ、はたちの誕生日を迎えた私は、アクアマリンの指輪を手にした。
奈美だけにできることをやってごらん、との声援にこたえられるように。
「やっと、一人前になれたんだよ」
専門学校を卒業した後は、そこそこ名の売れている写真家に弟子入りして、修行をかさ
ねていった。くじけそうになるたびに、指輪を見つめては歯を食いしばってきた。初めて署
名入りで発表できた動物の写真を専門に、愛らしい表情を追いつづけて8年ほどたったと
ころだ。
腕のなかには、一冊の「かたちになった夢」がある。
長いあいだ遠ざけてきたものたちと、今日から一歩ずつ向き合って行こう。
彼の好きだった銘柄のビールや小説、ラジオの米軍放送。気がゆるむと出てきた東北訛
りに、電話中いつもかけていたアルバム。
そして、この海のすべてと。
薬指の指輪を汚れてしまわないようにいったんはずし、ようやく出版にこぎつけた写真集
を砂の中にうずめよう。名前もわからない小さな生物が、不意にこわされた安らぎにおどろ
き、逃げまどう姿に苦笑しながら。
宝物探しゲームの探し手が、すぐにわかる目印は、アクアマリンの冠をつけた真っ白な巻
き貝だ。
目を閉じて思い描くのは、海と空の遠い果てから、変わらない笑顔を向ける彼。その手の
なかではきっと、缶ビールがご機嫌な音を立て弾けているだろう。
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