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天体の運動2(地動説)

 1573年ポーランドに生まれたコペルニクスは、大学で神学を学ぶかたわら数学や、天文学にも関心を持っていました。当時の宇宙観としては、古代ギリシア以来幾つかの異説はあるものの天動説(周転円説)こそ正しい宇宙の姿だと思われていました、しかし、天体の運動に関し精密な観測がなされ始めると、非常にたくさんの周転円を持つきわめて複雑な機構を考えなければならなくなっていました。このような時期にコペルニクスはイタリアへ遊学します。

 彼は、イタリア遊学中に古代ギリシアの文献を調べるうちヘラクレイデスらの書き残した『宇宙の中心は、地球ではなく太陽である』とする、いわゆる『地動説』をみいだいます。そして、当時観測されていた太陽と地球の相対運動を考え合わせ、日周運動を地球の自転として捉えるほうがより妥当との結論に達し『地動説』を再発見します。

 彼の考えがその著作として刊行されたのは、すでに死の床にあった1973年のことで、これが『天体の回転について』と題された全6巻の大作です。

 コペルニクスの考え方が当時の学会や知識人に与えた影響は大きなもでしたがそのほとんどが反対派でした。その理由として、宗教的なもののほかに、地球の自転あるいは公転の証拠を一つも挙げられなかったこと、世界の中心が地球から太陽に移っただけで基本的に周転円説を踏襲したものであることがあげられます。

 コペルニクスの考え方の真否を確かめようと観測に励んだのがティコ・ブラーエです。彼は、地球の公転運動の証拠として年周視差の発見に力を注ぎましたが結局失敗に終わってしましました。彼が発見しようとした年周視差は当時の観測機器では測定できないほど微少な動きだったのが大きな原因でした。

 また、イタリアではガリレオ・ガリレイ、ジョルダーノ・ブルーノらがコペルニクスの考え方に賛同しましたが、いずれも決定打となる証拠を挙げることができず、天動説より地動説のほうがより合理的であるという単なる観念論に終始してしまったため、いずれも宗教裁判にかけられました。

 1600年、ティコ・ブラーエのもとに一人の学生が弟子入りしました、彼の名はヨハネス・ケプラー、皆さんご存知のケプラーの三法則を発見した人です。彼は、始めいくつかの仮説を立て、太陽系の姿を明らかにしようと研究していましたが、ことごとく失敗に終わっています。しかし、ある時期から彼は師ティコの残した膨大な火星の観察記録から火星の軌道を導き出し、ここから惑星に関する重要な法則を発見しました。

  1. 惑星は太陽を一つの焦点とする楕円軌道を描く。
  2. 惑星と太陽を結ぶ線分は一定時間に一定面積を覆う。
  3. 惑星の公転周期の2乗は軌道の半長径の3乗に比例する。

 以上が『ケプラーの3法則』と呼ばれるものです。特にUは面積速度一定の法則、Vは調和法則と呼ばれます。

 このケプラーの法則を研究しその根拠を示したのが巨人アイザック・ニュートンです。彼の登場により近代天文学が形成されます。ここではあまり深入りせず、結論だけ述べると、彼は、惑星と太陽の間に『引力』なる互いに引き合う力が働くと仮定すれば説明できると述べています。そして、第二法則より、この力は常に太陽に向かっているとの結論を得、第一法則より、この力は太陽からの距離の2乗に反比例するとの結論を得、第三法則より、この力が惑星に比例するとの結論を得ました。また、力の一般的な法則として、『作用』、『反作用』があり、その力は互いに等しく、働く向きは互いに正反対である。というものがあります。このことから、太陽-惑星間に働く力が惑星の質量に比例するのならば、その反作用は太陽の質量に比例しなければならないとの結論に達します。

 こうして、ニュートンは『引力』について次のような法則を考え出しました。

 質量 M 及び m の二つの物体の間の距離を r としたとき、二つの物体に働く力 f は次の式であらわされます。

f=G * (M * m) / r^2

 ここで G が『万有引力定数』と呼ばれ、G = 6.672 × 10-11 N・m2/kg2 となる値を持ちます。これが、万有引力の法則と呼ばれる、きわめて重要な法則です。

 ・・・とうとう数式が出てきてしまいました。残念ですがしかたのないことです、アレルギーを起こさないようゆっくりとがんばりましょう。とりあえずはこの辺で一時休息します。