プロパガンダ・ディドリーム/KOKAMI@network
(5月11日19時15分 東京グローブ座1階Y列19番にて観劇)


この時代に生きていて毎日いろなニュースが報じられていて、それでこの芝居を観て『何も思わない・感じない』人がいたら面と向かって『あんた、おかしいよ』と言ってしまいそうなほど衝撃を受けてしまった。(もちろんそういう人はいてもいいんだけど)私は殺人者の家族が謝らないとTVの前で腹が立つ人です。観劇後の今も変わりません。けれど正直、この芝居を見てわからない部分もたくさんあります。

一言で芝居の感想を言うとすると、見て良かった。心の底からそう思う。

女優では旗島さんがベスト。俳優では高橋さんかな。生方さんはぱっとしなかったけど、足の怪我を感じさせない頑張りはすごいっ。後の人は安定していたなぁ。主要の人ね。あ、ギャグの卑怯さはすごいね大倉さん。一列目のセンターブロック(舞台に向かって)左よりの席だったんですが、高橋拓自さんの超アップ!!伝言ゲームみたいなのやってて、(噂作戦(笑))お客さん巻き込むんだけど、いやぁおいしかった(*^^*) 両端の人しか声をかけられてなかったけど、何だかとても楽しかった。とてもどきどきした(笑)。あと、武装戦線無意味派の戦い。悲しくて涙が出そうだった(笑)。スナフキンの手紙であんなにかっこよくて、パラレルワールドに来て始めた戦いがあれかいーーーーーっ!?せつない・・・。ダンスは素晴らしかったですね。

いろんなエピソードっていうんでしょうか。いろんな人の過去とか歴史とか。そういうのが特別なことではなさすぎてリアリティがあって・・・。特に誰のこれってわけじゃなくて、もう全部っていうか。だからわかんないけど、ラストで何だか泣いてしまった。今でもなんで泣いたかわからない。しかもすごい影響を受けたのか、常にいろいろ考えている。エピソードだけじゃなくて、理由もまたリアリティがあった。ラスト、奥平えみを殺した男の理由には正直ぞっとした。

この芝居はメディアについてなんだけど、私はむしろその中の人間の内面というか、何て言っていいのかわかんないんだけどそういうものの方が考えさせられた。犯罪者の家族とか、TVで報じられたものを見る自分とか・・・。答えなんて出ないんだけど、こんな時代だからこそ、毎日気分が嫌になるニュースばかりな時代だからこそこの芝居が意味を持っているように思えて、何だか考えなくちゃいけないような気にさせられる。『私はどうしよう・・・・』って。

父親は子供が20歳を過ぎているという理由で謝罪しなかった。じゃぁ、今問題になっているように10代の子供の犯罪だったら奥平さんは謝罪したの?10代の子供だったら謝罪して、20代だったらしないの?やっぱり変。やっぱりわからない。でも、きっと奥平さんもいっぱい考えている。いっぱいいっぱい考えて苦しんで悲しんで憤りを感じているのだろうな。一人でカップヌードルを食べているシーンの時、何だか猛烈に悲しくなってしまった。本当は自分も逃げたくて謝罪してそっとしておいてほしくてまた楽しい穏やかな生活に戻りたいのかもしれない・・・って思うとなんだか悲しくなった。でも、世間はそんなの許さないだろうし、本人もそれをわかっているから逃げないのかなって。奥平さんみたいな親だから子供が犯罪を犯したってことで、両親の罪は永遠に続くのかしら。奥平さんは決して責任を拒否しているわけじゃないと思う。でも、そんなのTVとかだけじゃきっと伝わらない。偏った情報だけじゃどんどん人を追い込んでいくのかな。メディアにも人を救えるのに、メディアが人を殺すことだってあるし。何だかわかんない・・・。

もっといろいろ考えなくちゃ。もっともっと何だかきちんと考えなくちゃ。答えが出る事が必要なんじゃなくて、考える事が大事。鴻上さんがそれを意図していようとしていなくても、そんなのもう関係ないの。鴻上作品にしてはわかりやすかったけど、でもこの芝居にはそのわかりやすさが必要だったと思う。加害者の家族と、被害者の家族と、世間と。あと2回見るので、また考えます・・・・。


(5月20日18時 東京グローブ座1階G列20番にて観劇)

2度目。初日を見てからいろいろと考えた。それでもやっぱりわからなかった。初日はただ混乱していた。私はどうしよう。どうもできないけど、それでも何もしないでいいのだろうか。何も考えないでいいのだろうか。だから、今回私は戦おうと思った。舞台の上の彼らはそれぞれ戦っている。戦う相手は一緒じゃないだろうけど、皆何かと戦っている。だから、私はこの芝居に挑もうと思った。

そんな私の戦いは、『これはタンだな』の一言で早くも敗れ去った。もろいものだった。はっと気づくととりこまれている。いかん、これじゃいかーんと立て直しを図る。そしてその私の姿勢は『横浜銀蝿』の前に完全敗北した。後は戦うのをやめた。無理だよ、大倉さんには勝てない。とりこまれてみて、それでその上で考えようと思った。どうでもいいけど一列目、かなりいじられてましたね、大倉さんに。大倉さんがびっくりするほど素直に伝言ゲームが始まっていた。すごい。

今回私が考えたのは『世間』について。昌子はラストで『命をかけるほどの世間なんて存在しないのよ』と言った。世間とは何か?と問われた千夏は『世間とは、世間です』と答えた。世間は漠然としている。形を決して現さない。個人である「ワタシ」が立ち向かうもの。何かに立ち向かったとき、それが初めて『世間』というものになるのかな。絵美は何をしたかったのだろう。どうしてあそこまで有名になることに執着したのか。山室と一緒に有名になることにこだわったのか。絵美は、どうして父親が『世間』を変えられると思ったのだろう。書きなおされた小説のラストに意味がやっぱりあるのかな。『お父さん。あなたは私にとって父親ではなく、「世間」でした。』このセリフがなくなったということが、絵美が何かを見つけたということなのだろうか・・・・。うーん、わからんっ。何がわからんかもわからないくらいにわからん。←あなたの表現は正しいよ(笑)、広瀬君。

世間に傷つけられた人々は奥平さんは「世間と戦っている」という。でも本当にそうなのかな。謝罪しない、どこにも行かない。それは、果たして「世間と戦っている」ことになるんだろうか。じゃぁ、謝罪した人は世間に負けたという事だろうか。仮に戦っていることだとして、勝つことが大事なことなんだろうか。負けている人はいけないのだろうか。そもそも、勝負の法則をこのことに当てはめていいのだろうか。「ごあいさつ」にあった一言。『あなたはどうやって負けたのですか?』この一言はかなりこの芝居に関わってくる一言でしょう。じゃぁ、この芝居の中で負けた人は誰なのだろう・・・・?山室なのか、絵美なのか、中野なのか、父親なのか。そもそも、この芝居で「勝った」人はいったい誰なのだろう・・・・。そしてやっぱり思う。「勝つこと」が大事なのだろうか。

そしてラスト、またも涙が流れた。どうしてか今回もわからなかった。同情?きっと違う。感動?そんなんでもない。わからない。やっぱり今回もわからない。山室は最後、走って走ってたった一人であの劇場にたどり着いた。だから、私はわからないから、考えて考えて、あの劇場に向かう。


(6月2日19時 東京グローブ座2階L列34番にて観劇)

千秋楽。これで終わりかと思うと猛烈に悲しい。そういう思いからか、今日の芝居は一番私の心に入りこんできた。ラストだから思うこと全部書きたいので、とても長くなると思うけど了承してください。すんません。

まず、私ロビーで作・演出の鴻上さんに会ってサインと握手してもらいました。んでとにかく嬉しくて嬉しくて。私が芝居の魅力にやられたのだって鴻上芝居だったし、大好きなセリフだって鴻上さんの言葉だし。いろいろな事をいつも教えてもらって、いつも「私はどうしよう」って思わされるのって鴻上さんの芝居でした。・・・・そう思ったとき、どうして絵美が山室じゃなければいけなかったのか、初めてわかったような気がした。絵美は山室のHPを見ていろいろな事を学んだ。絵美は山室のHPがなければ空っぽの自分にも気づかなかっただろうし、(暴走することもなかっただろうけど)とにかく山室じゃなければだめだった。そのことは芝居の中でも山室本人が絵美に問うているけど、その答えがもう今日は素直に受けとめられた気がする。

絵美と山室に互いに【愛】の気持ちがあったのでは?と何処かのサイトで読んだ。そうかもしれない。でも、私はそうじゃないと思う。私が絵美の心情に共感したように、きっと絵美が山室に抱いていたのは愛情ではなく、絶大な信頼だと思う。もちろんその根底には愛情があるんだけど、いわゆる恋愛とかそういう愛情じゃないのさ。揺るがない絶対的な信頼、尊敬。心弱くなったときに何か言ってほしい人。きちんと道を照らしてくれそうな人。うまく言えないけど、もし絵美がそうだとしたら私にはすごいよくわかる。それは愛じゃない。恋でもない。その人の言葉の持つ力にやられているんだ。絵美は山室の言葉に力を感じた。信頼を覚えた。だから、どうしても山室じゃなきゃいけなかったのだろうと思う。

山室の方も恋ではないと思う。それはわからないけど、山室も同じようなマスコミの報道によって傷ついた過去があるわけで。だからどこか自分を投影していたのではないだろうか。自分は職を変えて引越しをして、でも絵美は自ら自分を売りこもうとしている。隠すどころか、日の下にさらそうとしている。それはある意味強さで、その強さに山室は惹かれたのかもしれない。恋ではなく、どこかそうありたかった自分を絵美に見ていたんじゃないのかな。事件や事実を、どういう形にしろ自分のものとして受け止められる姿勢を・・・・・。だから山室は最後、走って走って、あの劇場にたどり着いたんじゃないだろうか。

父親が中野に刺されたとき、絵美は確か父親に向かって「こんなのってないよー!!」って叫んだような気がする。(その頃既に号泣してたのでちょっと微妙)絵美の小説で芙蓉様=父親なわけで、小説の中の絵美は芙蓉様を絶対的に信頼していたんでしょうけど、最後撃つのは信頼の対象が芙蓉様(父親)→山室に移行したからじゃないかな。だから撃った。でもそのラストを書きなおしたのは父の下に集まるたくさんの人を見て寂しくなったからでは。絵美がピクニックに参加したのは寂しかったからだと山室は言う。前述のサイトではそれは山室に否定されたから寂しかったんだとあった。私の意見は、父に頼ってほしかったり、父の寂しさを共有したくてもそれができない寂しさではないか、というものだ。絵美があの芝居で愛情を向けていた人がいるとすれば、それは父親だと思う。本当に父親がどうでもよければ、父の発言を許可なしに彼女はのせただろうし、「世間を変える力」が父親にあろうとなかろうとどうでも良かったんではないだろうか。父親が謝らなかったのは兄に対する父なりの愛情で、世間に対する父なりの謝罪だと思った絵美が、自分の行動に対して反応を示してほしかったんじゃないかな。怒ってもいい。それでも有名にさえなれば父は自分を頼りにしてくれる・・・って。有名になってお金が入れば、世間の見方も変わってくる。そうすれば、父はついに自分を頼りにしてくれるだろうっていう。もちろんあくまでも私の推測でしかないのだけど。そう思えばなんとなく「有名になること」にあそこまで執着した絵美の感情もちょっとだけわかったような・・・気がした。だから、自分の行動によって父が刺されてしまったとき、彼女の今までの全てが否定されたような気になったんではないかなぁ。

小説のラスト、絵美は父と一緒に家に帰る。いなくなっていた人も全員戻ってくる。そして、山室だけが取り残される。絵美は山室の言葉の力を信じ、父に対して素直になり、世間では受け入れられない「傷ついた者」たちで戦おうとする。山室に「世間に傷つけられた人たちを集めて、私たちの【世間】を取り囲んで!」と絵美は言う。絵美の言う【私たちの世間】は、身内が犯罪を犯した以上、何も許されず個人としても認められなくなる家族を弾劾する【世間】のことだ。鴻上さんはきっと絵美サイドの人ではないと私は思う。だけど、被害者・被害者・被害者という一方的な見方をする【世間】に問題を投げかけたのだろう。ちなみに私は「被害者・遺族が守られなくてどうする」っつー考え方の人ですけどね。当事者ではなく、何も知らない【世間】のあり方を問題としているのかなぁーって・・・・。ちょいと思った。

メディア論ってよくわからなくって。よくあるだの、ありきたりだの、中途半端だの意見があったけど、私はかえってわかりやすくていろいろ考えてしまったんですけどね。でも、これってメディアについて語っているのかなぁ。人の内面というか、心のありようっていうか、何だかそういうものを描いているような気がしたんですけどね・・・。どうなんだろう。

何はともあれ、ものすごい衝撃を受けたのは事実っす。この芝居が見れて良かった。本当に心からそう思ったし、本当に鴻上さんに感謝。最後のカーテンコールの際、皆素に戻ってましたね。髪の毛のない芙蓉様がそれを示していました(笑)。とにかく加納さんというか山室のほっとしたような笑顔がとにかく素敵だったっ!!とにかく印象的で、心に今でも焼き付いている。

それはそうと。今回初めてダンスで大倉さんを見ました。あの動きは、人間の動きじゃない(笑)。

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