ロベルト・ズッコ
(3月21日19時 世田谷パブリックシアター1階P列2番席にて観劇)


2時間があっという間だった。はっと気づいたらカーテンコールになっていた。だからといって意識が吹っ飛んで寝ていたわけではない。どっぷりと芝居の世界に漬かって時の流れを忘れていたわけでもないけれども。

実在した連続殺人犯ロベルト・ズッコ。父親を殺害し、監獄を脱走、母親を殺し刑事を殺し少女をレイプし、人質を取って逃走を繰り返すズッコ。そんな実在の人物をモデルにしたベルナール=マリー・コルテスのフランス現代演劇。『フランス現代演劇って、こういうものなのかしら?』って思ってしまうようなそんな『わからない芝居』だった。

そう、わからないのだ。私の想像力が乏しくなったのか、読解力がなくなったのか、集中力がないのか、それとも演出・戯曲の意図で『わからなく』なっているのか、おもしろかったのかつまらなかったのかわかってないくせに2時間があっという間だった。どちらとも言えないそんな感想は初めてで、自分の感想がどう言いたいのかもわからない。じゃぁ時間をかけて整理すればいいのか?というとそうでないことはわかる。この先ずっとこの芝居の感想はこのままだ。それだけははっきりとわかる。

わからないことは何か。1:この話が何を言いたいのかわからない2:登場人物の気持ちがわからない3:演出の意味(たとえば光とか)がわからない4:話そのものの流れもわからない。・・・・わからないづくしですな。普通ここまでわからないと『つまらない』という感想になるのだけれど、この芝居はそうでもない。だから絶対に、不思議な魅力はあるのだと思う。独特な空気があった。それが良かったのかもしれない。

まるで写真を切り取ったみたいな芝居。演出は斬新でしょう(少なくとも私にとっては)。芝居を見ていると言うよりは、ARTな何かを見に行ったみたいだった。一人芝居とか、二人芝居とか違う話を切りとって何だか似たようなセリフが出るシーンをつないでみて、並び替えてみたらこの『ロベルト・ズッコ』という芝居ができあがった・・・ってな感じ。場面転換は唐突で、場面そのものが基本的に短くて、登場人物の関係性も描いてないからつまらないと思う人にはとことんまでつまらないでしょう。この日堂々と帰った2人がいた。笑っている人とまったく笑わない人がいた。様々な感想がある芝居。そして、それすらも制作側の意図のように思えてならない。

そうそう、こんなテーマの話だからどこまで重い雰囲気があるのやらと思っていたら、底抜けに明るかった。意外だった。堤真一演じたズッコは、まるで『パンドラの鐘』のミズヲのように明るかった。(ついでに金髪でロンブーのようだった(苦笑))たとえば人質を取って銃をかまえている。脚の下には子供。そんなシーンでも笑いが起こる。私も笑う。・・・なぜだったのだろう。

登場人物もみんな感情がこもっていなかった。口では『不幸だ』『悲しい』といい、声をあげて泣く。だけど誰一人として本当に不幸そうな人、悲しそうな人はいない。うわべだけの感情。絶対狙ってそういう演技なのだろうけど。子供が殺されてもズッコについていきズッコを助けようとする婦人。強姦されてもズッコを思い慕う少女。少女を大切に思いながら娼婦になることを止められなかった兄。歪んだ感情をすべて少女への愛として向ける姉。そして、そのたくさんのうわべの感情は最後まで決して交わる事がない。

特に主役クラスの3人(堤真一・中嶋朋子・犬山犬子)は、個性のぶつかりあいだった。誰に負けるでもなく、誰をたてるでもなく。これでもかってくらいはっきりと不調和音を奏でていたように思う。そして、それが良かった。そのアンバランスさが、私はなぜかおもしろかった。だいたい堤真一と中嶋朋子が初めて同じシーンにたったのがカーテンコールだもの。登場人物同士の関係性なんて、多分どうでも良かったんでしょうね。

その3人の演技力っていうか、存在感っていうか、そういうのは本当素晴らしいですね。なんていうのか、とにかくすごい。本当に上手。上手過ぎてため息が出るくらいに。そのうそくさい演技もまた、似合っていた。

堤真一が以前読売新聞の夕刊でこのような事を言っていた。

『殺人者の心情を説明して訴えたいとか、正当化したいという作品ではないし、現状に警鐘を鳴らしたいというのでもない。(←その通りでした、さらにズッコを責めているわけでもないのでわからないのだ)作家は、論理的に説明できない断片的な事実を提示する事で、観客に意味付けをゆだねているんじゃないかな。』

あえて頑張ってその意味付けを私なりにするのなら、作家のコルテスは同性愛者でエイズで亡くなっております。当然差別みたいなものもあったでしょう。そんなことから思うに、ズッコを描きたかったのかどうか、ね。ズッコという強烈なキャラクターを中心に置くことで、周りの人間の秘めた狂気を描きたかったのかなと思ってみました。連続殺人犯のズッコを『狂っている』と世間の人は言うでしょう。でも、『周りのあんたらもほら、こんなに十分狂っているじゃないか。殺しているか殺していないかの差だよ』・・・と。実際登場人物誰一人としてまともじゃなかったしね。みんなかなり狂っていた。(そんな普通の日常にある狂気が笑いとなり、その笑いに笑っている自分がある意味恐い。)コルテスはズッコを受け入れても拒否してもいない。でも、ズッコを中心に置いたことで社会そのものを冷ややかに見つめ、皮肉を交えて書いたのかな?と思いました。それが私の意味付け。

この世の中にはこんな芝居があるのだと思うと、演劇って奥が深いのねって思った。ますますいろんな芝居を見たいと思った。では、この芝居をもう1度見たい?といわれるとそうでもない。かといって、見にいった事を後悔も絶対にしない。

ちなみに、これは絶対にフランス語を理解してフランス語での上演を見た方がいいのでしょう。かなり言葉を選んで使っているはず。日本語では訳しきれない表現がたくさんあるはずで、その言葉の持つ意味はかなり大きいはずだ。日本でたとえれば、野田秀樹や鴻上尚史の言葉遊びの部分を英語や仏語にしてどこまで表現しきれるか・・・っていうのと全く同じだと思います。

ロベルト・ズッコという実在の人物はどんな犯罪を犯し、どのような人生を過ごしたのか。ズッコの周りはどんな人たちがいたのか。それがとても知りたいと思った。戯曲ではなく、本当のズッコについて書いた本を読みたいと思った。それが、一番の感想かもしれない。

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