[2001人芝居
] 野田秀樹が「現在」を彼流に憂いた感じの1人芝居でした。インターネット、TVなど、モニターから与えられる情報ってのはすごいものがあります。こうして今PCに向かっている私も例外ではありません。そんな状況を「モニター中毒」というモニターに映る全ての人を模倣するという架空の「現代病」を表現しています。 最初の、「トンガ」の相撲取り?の所で彼が言う、「生きるって、そんなに大変なことじゃないよ」を聞いてどうしていいのかわかんなくなりました。私は決して生きているのが大変だと思っているわけでも、つらくてどうしていいのかわかんないわけでもないつもりです。だけど、その言葉が私の胸に鋭いナイフのように思いっきり刺さってきた感じがしたのです。野田さんはそのセリフをやさしく微笑みながら言います。その微笑みを見ているととてもせつなくなりました。私の頬を涙は流れなかったけど、それでも泣いている時よりも悲しく感じました。 その後の末期癌の患者の話。「世界の終わりに興味が無かった人たちが、『私の終わり』には興味を示している」。寂しいです。だって、きっと私もそうだから。私もきっと「残された時間を人はどう思って過ごすのか」ということを知りたいと思うから。そうはっきりと言葉にされると後ろめたい気持ちになるのです。世界の終わりには私も興味がない。だって、そんなこと思ったってどうしようもないから。「無人島にCDを1枚持っていくとしたら、何を持っていく?」って本当に無駄な質問だなーとずっと思ってました。だからそれを野田さんが無駄だと言った時笑いました。いかに無駄かということの野田さんの説明を聞くうちに、私はどんどんせつなくなっていきました。私が笑ってしまうその質問と、「あなたは後少しで死ぬけど、それを知ってからの気持ちはどう?」という疑問が本質的に何も変わらないってことが衝撃でした。重いと思っている質問と、普段どうでもいい状況で語られるくだらない質問の本質は何も変わらないことがある。「死ぬってことは、『私』さえいない無人島に行くということなんだ」ってのを聞いて、それはすごい衝撃を受けました。「死」をそうやって表現されたことがなかったからです。「死」は確かに終わりなんだけど、無人島に行く時の気持ちを考えれば悲しいことにもなるし、悲しいことではないことにもなる。私今絶対上手く表現できてないけど、ただ新しい解釈をもらったような気がしたんです。 他に色々なシチュエーションが繰り広げられます。それは全て1人のモニター中毒患者が演じているに過ぎないのです。そして、それは1人の医者の犯罪的実験でした。「純粋培養のモニター中毒患者に『幸せな人間』だけの映像を見せていたら、悲しみも孤独も知らない人間が作れるのではないか?」という・・・。でも私はそれを不幸だと思いました。そんな実験そのものが不幸で、そうして作られる人間は限りなく不幸だと。孤独も悲しみも知らなくても、ただ与えられた幸せしか知らないそんな人間は不幸以外の何でもないです。そんな人間を作ろうとしている医者を野田さんが題材に選んだのは、ありとあらゆる情報(人生)をモニターを通じて選択可能な現在に対する皮肉なんだろうな、と思いました。 やがて彼が気づいた後、長い沈黙の後彼は自分の言葉を喋ります。それは、野田さん得意の言葉遊びでした。「意味も無く、うみも無く、母も無く、そんな私に意味も泣く、うみも泣く、母も泣く、何もかも〜可もなく、不可もなく、意味も無く、....」と続きます。それはずっとずっと続きます。終わりが無く延々と続いた後、静かにライトが消えていってこの芝居は終わります。その終わり方は衝撃的でした。最近ずっと見ていた芝居は終わりは必ず大きな音楽と何作に1作は空から何かが降ってくる。そういった「終わり」を強調した芝居が多かったからです。この芝居は静かに終わりました。延々と続く終わりの見えない状態の中で終わっています。それが衝撃でした。 結局与えられたものの中で生きていても、やがていつかそこに生じる矛盾や疑問はどうしようもなく。そうして自分の言葉に終わりなんか存在するはずもなく、その自分の言葉に意味があったりなかったり。立場が変われば考え方も変わる。「生きていくこと」「死というもの」「生命誕生の神秘」というものもそれぞれの解釈があって当然。与えられた誰かの解釈を鵜呑みにしてはいけないよ、というような芝居にも思えました。もちろん、違うかなーとも。結局私は野田さんが何をその芝居で言いたいのかなんてわかりません。わかんないけど、私はそう解釈することにしたのです。 「生きるってことは、そんなに大変なことじゃないよ」 この芝居に出会えて良かった。この芝居見ないで死ななくて良かった。と、心底思います。 (2/6 19:00 スパイラルホール) |