「負けてるな…」
上野の喫茶店ブルームーン。狩猟班長のヤスさんは目を閉じ、腕を組み、静かにそして重く、その言葉を口にした。
「うーん、そうっすね…」
そうなのだ。GWを目一杯満喫できるオザキ隊長、ヨコサワ炊事班長、さる奴隷候補の三人は3泊4日で奥利根に入る。
早春の奥利根…。光り輝く銀世界。魅力的なルート。しゅうしゅうと鳴るブナの焚き火。
「何がしゅうしゅうだ! くそっ!」
家庭の事情、仕事の事情があるヤス狩猟班長、フカマチ隊員、ユウ奴隷候補の哀れな三人は、1泊2日の日程である。
当初の計画は奥秩父の沢であったが、それでは奥利根に対抗するべくもないことに気づいたのだった。
「いやあ、奥利根は最高だったなぁ、うほほ〜♪」と高笑いする隊長の顔と、それを前にして無言で首を垂れる我々の姿が、行く前から容易に想像できる。
「やはり奴らに対抗するには、"狩猟"しかあるまい。実は極秘で入手した資料があるんだが、こんなのはどうだ?」
「フムフム、なるほどなるほど。でもそれって天然記念物なんじゃないっスかぁ?」
「まあ、いいじゃないか。奥利根隊に勝つには手段を選ばずだ!
行くぞっ!」
「ハッ、そうでありますね、行きましょう!」
5月3日未明。某山塊、某林道の車止めゲートに到着。
極秘資料によると、このゲートは巧妙な細工が施されているという。深呼吸し目を閉じ、ヒミツの鍵を差し込み、厳かにヒミツの呪文を唱えなければ開けることができない。成功すれば林道歩きをカットできるのだから、失敗は決して許されないのだ。
「∞∴♀@♪√」
呪文は慎重に唱えなければならない。間違えると恐ろしい罠が作動するのだ。ほとんどインディジョーンズの世界だな。
「アレッ? アレッ!?」
呪文を間違えたフカマチの顔が恐怖に歪み、みるみる蒼白になる。罠にはまった!
鍵が抜けない! 押しても引いてもダメ!
「∞@♪√∴♀!」「∞@♪√∴♀!!」
するとゲートがギーという微かな音と共に開きはじめた。危ない、間一髪だった。
しかしこの呪文はあまりにも危険なので、あまり多用したくないな。
入渓は某橋から。堰堤を2つ越え、しばらく進むと両側が立ってきてなかなか良い渓相になる。天気は小雨。若干増水しているのだろうか、予想していたより水量は多い。
20分ほど歩くと、「八丁クラガリ」と呼ばれるゴルジュの入口につきあたった。狭い水路の奥には、一見して直登不可能な2段の滝がある。流れは轟々と迸り、側壁はツルツル。某資料にはハーケンを打って突破したともあったが、この水量ではとてもムリ。トラロープの下がっている左岸の垂壁を登って巻く。
それにしても悪い巻きだ。ここを越える釣り師もいるようだが、命知らずとしか言いようがない。昨年落ちて死んだ人がいる、というのも充分に頷けるところだ。残置ロープはどうにも信用できなく、細いバンドを木の根に頼ってのトラバースだ。
途中で狩猟班長が空中懸垂。支点にした木がグラグラ揺れ、今にも岩が落ちそうなので見ていてドキドキした。危険なのでフカマチとユウはトラバースを続行。
なんかヤバイなぁヤバイなぁと言いつつ進んでいたら、やっぱりフカマチが落下した。両手でぶら下がって体重をかけた腕くらいの太さの樹が、突然根元から折れたのだ。瞬間的に壁を蹴ってジャンプし、下斜め前方にある太い樹にしがみついて九死に一生を得たものの、これまでの人生が走馬灯のように脳裏に再現された刹那だった。後ろから目撃したユウによると、そのアクションは段違い平行棒の
「トカチェフ」のようだったという。
それは一世一代のムーブともいえたが、ひとつの事故として認識すべきものであった。危険な懸垂下降も同様であり、この不用意な行動を深く反省し、褌を締め直す必要があった。
沢に降りるとすぐにまたゴルジュ。3mのチョックストンで、平水時はショルダーで越えられるようだが、今日の水線突破は絶対にムリ。左のバンドが行けそうな気がしたが、偵察に登った狩猟班長が首を横に振って戻ってきた。やはり高巻くしかない。しかしこれが、泥付き・草付き・ガレ・岩・残雪と、なんでもござれの登攀とトラバースだった。トップで歩くフカマチは冷や汗タラタラ。雨が降ったせいか、足元はケーキの上の生クリームのような柔らかさだ。
だが、爪先を泥にねじ込ませ、黙々とステップを刻んでいるうちにだんだんと楽しくなってきた。妙に楽しくなってきたぞぉ!
うほほ〜!
ノってきた頭にはなぜか「じゃんけんぴょん」のBGMが…
ここで10時。すみだ放沓山岳会との提携企画
「X作戦」の時間だ。X作戦とは、10時きっかりに括約筋を絞め、万歳三唱しながらお互いにエールを送るというもの。えーっ、こんなところでやるのぉ?
と言いつつガレ場で万歳三唱。キッチリ約束を果たしました。遠い奥秩父の井戸沢で、スミホウはどんな状況なんだろう?
沢に降りるとすぐにまたゴルジュ。深い釜を持った滝で、同様に直登不能。
少し戻り、岩尾根の脇のいやらしい泥壁を登る。傾斜は立っていて、ガレの上に泥が被さる構造になっている。スタンスが決まらなく、ズルズルと実にイヤラシイ。
フカマチは心臓バクバクで登りに弱い。ユウは柔らかい足元に弱い。狩猟班長は
「落ちたら死ね」と言い残し、サッサと登ってしまう。ひとりだけアイスバイルを持っているのにヒドイ人だ。だが、この程度が登れないと雪稜は望むべくもないらしい。ここは根性、ただひたすら根性の場面である。
尾根に上がっても状況は良くない。すっぱりと切れ落ちたゴルジュの側壁の上をトラバースしなければならないのだ。滑落の恐怖に堪え、微妙なバランスで凌ぎながら進む。
何事にも常にイケイケの狩猟班長は恐れというものを知らないらしい。この世で恐いものはオクサンだけか?
後ろを見るとユウが遅れている。川原歩きでは滅法早いユウもトラバースはどうも苦手らしい。ヤツは以前、釣りをしているときにこんな高巻きで滑落したことがあるという。
その無表情は完全にトラウマにやられている顔であった。へこむな、がんばれ!
沢に降りるとすぐにまたゴルジュ。こんどは1m程度の滝だが、轟々と渦巻く深い釜を従えている。高巻きはもうウンザリなので、ここはどうしても突破したいところ。試しに左のハング壁に取り付くが、ホールドは縦の浅いクラック状で、我々のクライミング技術ではムリ。やはり冷た〜い水を泳ぐしかない。
じっくりと流れを読む。釜はくの字に曲がっていて、流芯は右。平水では左をへつれるだろう。しかし、屈曲点で洗濯機のように渦を巻いているため、今は考えられない。うかつに飛び込めばドザエモンだ。
泳いで右壁にとりつき、落ち口付近まで思いっきりジャンプしてケノビすればいけるか?
でも誰がいく?
カヌ沈隊は民主的な集団だ。日頃は体育会系でならしているが、いざという局面では、限りなくフェアな方法がとられるのだ。日本で最もフェアな方法とは、すなわち、ジャンケンである。
「じゃんけんぴょん!」 …狩猟班長が泳ぐことに。
胸まで浸かった狩猟班長は「ぐおおおおおー!
冷てええええ!」と雄叫び一発。くるりとこちらに向き直り、
「テメェらも味わいやがれ!」と水をかける。絶叫が谷に木魂するが、それだけでは突破はできない。
ロープをつけ、流れに逆らって泳ぐ。右岸のホールドにつかまったが、強い流芯におされ、体制を保持できなくなって敗退。だが、水中にスタンスがあるようだ。代わってユウが飛び込むが、同じように敗退。
そして泳ぎの苦手なフカマチがダメもとで挑戦。手は平泳ぎ、足はバタ足で懸命に泳ぐが、なんとしたことか全然前に進まない。泣きそうになりながら戻って水からあがると、風に吹かれて異常に寒い。
「せめてホールドまで行ってこい!」と罵倒され、踵を返して再度挑戦。ジャブジャブ…
おっ、こんどはホールドをつかめた。ホールドといってもそれは、つるつるに磨かれた岩にはしる浅いクラックにすぎず、片足でスタンスに立ち込むと、今にも剥がされて流されそうだ。左手をいっぱいに伸ばしてまさぐると、かすかなホールドが指に触れた。
その瞬間、頭にあったのは「もう高巻きしたくない」という執念のみだった。腕力で強引にひきつけると、非常に無理な体勢になった。すると、水中に一本の細い倒木がひっかかっているのが見えた。あれに乗れるか?
下では、狩猟班長とユウが反対側に飛び込めと騒いでいる。うるさい!
オレはいま水中に宝物を見つけたのだ。ええい、ままよ!
我ながら恥ずかしくなるガッツポーズ。泳ぎで手柄を立てたのは始めてだ。いや、泳ぎというより、この冬、インドアでクライミングの練習をした成果だろう。オレもなかなかやるものだ。
ザックをピストンし、ロープで全員突破に成功。しかし全身ズブ濡れでとっても寒い。三人とも歯の根が合わなくなり、このままでは低体温症になってしまう。早く焚き火がしたい。
この先から巨岩帯になる。いくつかの岩をショルダーで越え、あるいは巻く。しかし「八丁クラガリ」はまだ終わっていない。地形図では、最後のゴルジュを残しているようだ。そこを突破すれば、あとはテン場まで穏やかな川原歩き。釣り師がほとんど足を踏み入れることのできない、イワナ天国が待っているはずだ。
しかし、ほうほうの体で到着した最後のゴルジュは、絶望的な2段5mの滝だった。大きな釜、凄まじい瀑布。某情報には滝の左側を直登したとあったり、突き刺さっている倒木を利用するなどと記されてあったが、それは絶対にムリ。釜の右壁に細いバンドがあるのだが、途中で2段になっていて、そこをクライムダウンするのはちょっと曲芸じみているように思える。左岸右岸ともに壁が立ち、高巻くなら、さっきやっとの思いで突破した釜まで戻るのか。
詳しく偵察してみると、バンドの落差に残置ロープがあった。6ミリ程度の腐ったようなロープに命をかける?
切れたら最後、白く泡立つ釜の中でイワナの餌になるだろう。いやだ、恐い。
その他にわずかな可能性があるのは、左岸の濡れたルンゼだ。だが垂直に近いルンゼは見るからに危険。登ったとしても、上の状態も怪しい。イケイケの狩猟班長はその下に立ち、登りたくてウズウズしているようだ。きっと彼には
イワナ天国への階段に見えるのだろう。
ここで哀しきサラリーマン・フカマチが目を覚ます。もはや錫ガ岳など不可能。ピークを目指すなら、ゴルジュを全部いっぺんに巻いて広川原まで出てしまうべきだった。それに明日、同じルートを下降するとしたら、いったい何時間かかるのだろうか?
GWの渋滞も心配だ。明後日の仕事に間に合わなかったらどうしよう…
只今15時。悩みどころである。2時間くらい戻ってテン場に泊まるか、2時間かけて高巻きするか。はたまた、強引にルンゼを登るか…。
壁を登るか否かで意見がわかれたので、とりあえず昼飯にする。ラーメンを啜りながら見上げる壁。あの壁をフリーで登るのはキケンすぎる。しかし…
その時!
視界の端で何かが素早く動いた! アレだ!
遡行でアップアップだったため、あやうく忘れるところだったが、我々の真の目的はアレだったのだ。
狩猟班長が追う!
あ、お〜、あ〜あ、うっ、お!
あっ!
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