tagucchanの住む街

Yokohama(神奈川県横浜市)

横浜の概要

336万人の人口を擁する横浜は、東京に次ぐ、わが国第2の都市。
1859(安政6)年の開港以来、横浜は世界と日本をつなぐ窓口として、近代化や国際化において、非常に大きな役割を果たして来た。現在では、国際交流、国際平和への大きな役割を担っている。また、大規模会議・イベント等が数多く開催されるなど、コンベンション都市としても活躍している。

 

みなとみらい21

MM21は新スポット誕生ラッシュ。このエリアにはショップやレストランのほか、美術館やアミューズメントスポット、展望台、など遊びスポットがいろいろ。ホテルもある。

 

よこはまコスモワールド

「よこはまコスモワールド」もMM21にある施設のひとつ。平成11年3月にグランドオープンし、大観覧車がお目見えした。この観覧車は平成9年5月に閉鎖されたものを移転して復活させたもので、その規模はギネスブックにも登録されている。高さは112.5m、15分で一周する。

 

マリンタワー

地上106m、10角型の世界一ノッポな灯台。横浜港から三浦、房総半島まで眺められる。

中 華 街

約250軒の料理店が並び、まさに世界屈指のチャイナタウン。
この街に入るには東西南北と中央の5つの門がある。料理店だけでなく中国食材、酒、調理器具、衣料から漢方薬まで売っている。この中華街に関帝廟がある。

 

ベイブリッジ

ご存知、横浜ベイブリッジの夜景。ブルーにライトアップされる。

 

新横浜ラーメン博物館

古い街並みを再現したホールには全国各地の有名ラーメン店が出店して各種ラーメンを食べさせている。

 

崎陽軒のシウマイ

横浜名物なんでしょうね。駅とかでよく売っています。

横浜国際総合競技場

2002年6月30日「FIFAワールドカップ2002」の決勝戦(ブラジルvsドイツ)が行われたスタジアム。新幹線新横浜駅をはじめ、5つの駅から徒歩で7〜15分で着く交通アクセスの良い場所にあります。


 
横浜の主な「日本初」

クリーニング
居留地外国人の衣服の洗濯に関しては、1859年3月5日付で青木屋忠七に「外国人衣類仕洗張」という営業許可書が出ており、外国人相手の洗濯業としてはこの人が元祖のようだ。しかし、本格的にクリーニング業を始めたのは、渡辺善兵衛だといわれている。長崎で西洋洗濯を学び、1861年頃、横浜でクリーニング店を開業している。港の見える丘公園フランス山地区側には「クリーニング発祥の地」の記念碑がある。

パン屋
万延元(1860)年、本牧で開業。フランスパンが主流だったという。

写真館
文久2(1862)年、下岡蓮杖が野毛で開業。慶応3(1867)年には馬車道に移転して繁盛した。当時の写真機をかたどった記念碑が馬車道に立つ。

牛鍋屋
文久2(1862)年、住吉町に開業。文明開化期の代表的メニューとして全国に広まる。伊勢崎町の「太田なわのれん」で今も味わえる。

競 馬
日本の近代競馬は慶応2(1866)年に根岸競馬場が建設されて始まっているが、これは歴史の教科書にも登場する「生麦事件」をきっかけに、外国人居留地の住民が乗馬や競馬のできる場所を要望して建設された。当初は外国人の騎手だけでレースが行われていたが、後に日本人騎手の参加も可能となり、1875年11月に西郷従道が日本人として初めて優勝した。同年12月には明治天皇もレースを観戦している。

乗合馬車
慶応3(1867)年、横浜の居留地にニュージーランド系のコブ馬車会社が開業。横浜〜江戸間を1日2往復した。

鉄製の橋
JR関内駅北口近くの吉田橋。明治2(1869)年、英国人の土木技師が設計し、「鉄(かね)の橋」として有名になる。明治44年にコンクリートの橋に架け替えられた。

電信創業
明治2(1869)年12月25日、横浜電信局(現在の横浜地方検察庁の場所)と東京電信局の間で、電報の取り扱いが開始された。

ビール 
明治2(1869)年、米国人コープランドが、山手に醸造所を設け、居留地の外国人に販売。明治8年には醸造所に日本初のビアホールを併設した。

アイスクリーム 
日本のアイスクリーム発祥の地は横浜の馬車道。明治2年(1869年)、町田房蔵という人物が氷菓販売店を開業し、氷菓子とアイスクリームを売り出したのが始まり。当初、売れ行きは今一つだったようだが、翌年の伊勢神宮の大祭のときに開いた店が大好評となり、一躍人気がでたそうだ。いまでは、昔のアイスクリームの復刻版が「馬車道アイス」として、横浜で売られている。

ガス会社 
明治3(1870)年、現在の花咲町3丁目に開業。東京ガスの全身となる。跡地にガス塔と記念碑が立つ。

日刊新聞 
明治3(1870)年、現在の中区北仲通5丁目で「横浜毎日新聞」が創刊。

洋式公園 
明治3(1870)年、居留外国人の働きかけにより山手公園が完成。芝生、花壇、野外音楽堂などを備えた。

ガス灯 
明治5(1872)年9月29日、横浜の馬車道から本町通りにかけて灯されたのが日本で最初です。上海のガス灯を建設したフランス人技師プレグランを招いて建設された。夜になれば真っ暗だった街中を青白く照らすガス灯が横浜名物となったのはいうまでもない。そのガス灯もやがて電灯の登場により姿を消し、現在は横浜市市民文化会館関内ホール前に「日本で最初のガス灯」の碑が建っている。

せっけん製造 
堤磯右衛門という人が、明治6(1873)年に製造所を建設、洗濯せっけんと化粧せっけんを作り販売した。現在も復刻版の磯右衛門せっけんが売られている。

外国郵便 
明治8(1875)年、現在の横浜港郵便局で始まった。

貸し自転車 
明治10(1877)年、元町に開業。料金は1時間25銭だった。

電話機の初輸入 
横浜と電話の縁は深く、日本に初めて電話を輸入したのは明治10(1877)年11月、横浜を本拠地にしていた貿易商バビア商会だった。「電話の父」といわれたグラハム・ベルの電話発明から、わずか1年8カ月後のこと。当時、電話は「伝話機」と呼ばれ、今のように「電話機」に改められたのは明治18年頃といわれている。

テニス 
明治11(1878)年、山手公園で行われた。この公園には5面のコートが設けられた。

歯科医院 
明治14(1881)年、米国人イーストレーキ博士が山下町に開業。診療のかたわら日本人医師の養成に尽力した。

電話の商用化 

日本で初めて電話が商用化されたのは、明治23(1890)年、横浜と東京間だった。
この年の12月16日、横浜と東京のそれぞれに電話交換局が開設。両市内はもちろん、両市間に電話がつながった。当時の逓信省は、電話加入者の目標を横浜100人、東京300人としたが、実際の電話加入申込者は、横浜が半数以下の45人、東京でも215人どまりで、横浜では42人でのスタートとなった。
このように、電話の加入申込が予想外に少なかったのは、なんといっても電話料金の高さが最大の原因だったようだ。当時の電話使用料金は、横浜で年間35円、東京は50円(その後、40円から横浜と同じ35円に値下げ)だった。年期奉公の店員さんの月々の給料が4円ぐらいの時代である。「電話を引くより、若い店員を雇ったほうが安上がりで重宝」といった風評も多く、電話は敬遠されがちだったという。
この写真は「電話交換創始の地碑」とアーバンネット横浜ビルの壁面。

 

救急車 
昭和8(1933)年、キャデラックを改装した救急車が配備され、市内16病院への搬送体制をとる。