山車の想い出

 
 実は私、このお祭りの山車にはちょっとほろ苦い想い出がある。私が幼かった頃(25〜30年位前)は、確か「八坂神社・稲荷神社例大祭」という名称で毎年8月28〜30日に行われ、山車は現在と同じように5台が町内を練り歩いていた。私の実家の地域からもやはりそれは出ており、「小学校の高学年になったらお兄さん(上級生)たちのように格好よく太鼓をたたくんだ!」というのが夢であった。もちろん太鼓の数には限りがあり「ライバルは酒屋さんの○○くん、理容店の○○くん・・・」などと子供心にも意識しあっていたものだった。
 ところが昭和49年、当時は車両の増加が著しい時代であり、バイパスのなかった一戸では山車が交通渋滞を引き起こす原因になるという理由により、それまで山車が練り歩いていた国道4号線(現在の県道)は使用が許可されず、辛うじて1台だけが裏通りを歩くという大幅な規模縮小が行われたのだ。それにより私の属していた組は運行が中止となり、私の夢ははかなく散ってしまったのである。私たちは「理解できつつも理解したくない」という複雑な気持ちであった。夢を取り上げられてしまったその怒りをぶつけるところもなく、そして自分たちに何ができるわけでもなく、それまでの希望に満ちた楽しいおまつりは、ただただ悲しいだけのものとなってしまったのである。我が組の運行中止はそれから昭和56年まで続いた。昭和57年秋の一戸バイパス開通により翌年から5台の山車が練り歩くという状況が戻った時には、私は既に高校を卒業しようとする年齢になっていたのである。

【写真は平成14年の野田組の太鼓】


○一戸の山車の運行規制に関する歴史

 昭和43年、自動車の交通量が多くて危険なために、大きさが著しく規制。大八車の山車は作れなくなり、小型トラックやリヤカーを利用して、ようやく許可されて、橋中組と野田組の2台だけが引かれた。その後、各組とも山車を小型化して継続していたが、昭和49年国道の運行は許可されなくなり、一戸祭りの山車は絶滅の危機となった。橋中組の1台だけは善意の人々の協力により町、県道を練り歩き、ふるさとの伝統は守り通されそこから徐々に復活した。

(参考文献:広報いちのへ)