「第一東京弁護士会新会館竣工祝賀式典閉会の挨拶」
今日あたり、夏の終わりでございまして、日比谷公園の緑が一段とその濃さを
増しているように思います。
ところで、この新会館は、設計者のお話によりますと、日比谷の森の緑を荒海
に見立てまして、それに屹立するといいますか、立ち向かって立った灯台をイメ
ージして設計されたとのことであります。
私達はこの灯台に第一東京弁護士会独自の人権擁護の灯りをあかあかとと
もさなければならないと思います。そして、その光を日本国内はもとより、全世
界に向けて放たなければならないと思います。
戦後五〇年、今なお悲惨な戦争が絶えない世界の現状を見るとき、その思
いは一入のものがあります。
本日はいわばその火入れ式に当たります。
御多忙の中、このような意義ある式典に御参会いただいた先生方に心から
御礼申し上げます。終わりに、第一東京弁護士会と第一東京弁護士会会員全
員の先生方の益々の御隆盛をお祈りして、閉会の言葉とさせていただきます。
ありがとうございました。
平成7年9月4日
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〜 目 次 〜
タイトルをクリックして下さい。
<随 想>
1. 「集団疎開」 (だいいちくらぶ会誌 1996年号)
2. 「津 軽」 (だいいちくらぶ会誌 1998年号)
3. 「刑事贖罪寄附」 (法律扶助だより 2002年7月号)
4. 「ドイツを旅して」 (計友 2005年12月号)
5. 「焼けた教科書」 (第一東京弁護士会会報巻頭言 2005年9月号)
6. 「ああ靖国のお父さん」 (多摩のひまわり 2007年1月号)
<スピーチ集>
1.倫理研修会 − 会長挨拶代行 (1995年6月2日)
2.第一東京弁護士会新会館竣工祝賀式典閉会の挨拶 (1995年9月4日)
3.むつみ会「新会館見学会」挨拶 (1995年9月19日)
4.第42回関東弁護士連合会大会シンポジウム「死刑を考える」前夜祭開会の辞
(1995年9月29日)
5.憲法50周年記念講演会−開会の辞 (1997年2月12日)
6.人権擁護委員 − 中学校講演会 (1997年6月16日)
7.特別区法務部講演〜東京飯田橋区政会館にて〜 (2013年2月14日)
8.特別区法務部講演〜東京飯田橋区政会館にて〜 (2014年1月9日)
人権擁護委員 − 中学校講演会
「自分を見つめる」
平成2年より務めております人権擁護委員の活動の一環として、平成9年6月
16日、世田谷区立桜ヶ丘中学校の全校生徒約470人を前にして講演をさせて
いただきました。スピーチをする機会はこれまで沢山ありましたが、中学校の全
校生徒を前にしての講演は初めての経験であり、大変新鮮な印象を受けたこと
でした。以下はその講演内容を記したものです。
おはようございます。みんな元気そうですね。
私は世田谷区の人権擁護委員の杉本秀夫です。
皆さんは、いま12歳から15歳ですね。人間は95歳から100歳ぐらいまで生
きますから、皆さんは2080年ぐらいまで生きることができます。21世紀に入っ
てしっかりと活動することができます。本当にうらやましいと思います。
さて、皆さんは今日も8時半には学校に来て、こんなに立派な講堂で勉強して
いますね。眠かったり、お腹がすいていたり、それから何よりも、ここから外へ出
て気ままに遊びたいのに、ここで私の話をきいていますね。
そしてそれが終わったら教室に入って勉強ですね。数学、国語、英語、社会、
みんな難しいですね。
例えば、数学なんか、私が子供の頃は、田舎の学校で一次函数ということを
確かに知ったのは高校1年生でしたが、もう今は中学校で勉強しているのでは
ないでしょうか。
さて、朝早くから午後3時頃まで、毎日毎日どうしてこんなに楽しくもない勉強
をするのでしょうか。君たちはなぜこんなに勉強をしなければならないのでしょ
うか。今日はそのことを考えてみたいと思います。
それは、社会に出て、いい仕事をするためですね。
そのためには、自分をしっかり見つめる必要があります。自分はいったいどう
いう仕事をするべきか、自分に一番むいている仕事は何かをよく考えなければ
なりません。自分で一生懸命考える、しかしそれには限度があります。
そこで先生です。皆さんのまわりには23人もの先生がいらっしゃいますね。何
でもいいです。どんなにつまらないことでもいいです。先生方に質問して、どんど
ん疑問を解いていきましょう。そのうちに次第に自分の力が分かってくるもので
す。
私は、永い人生を、自分が持っている素晴らしい能力に気づかずに終えるぐら
い淋しいことはないと思います。それはまさに失敗の人生です。
沢山の科目を勉強して、その中にはいやな科目もありますね、しかし、ある程
度は我慢して勉強していくうちに好きになることもあります。広い視野に立って、
沢山の科目の中から一科目でも二科目でも好きな科目をみつけて、それをさら
に深めて、自分の能力をみがいていきたいものです。そのために、真剣に努力
して下さい。その過程を経て、やがて自分の使命を見つけることができると思い
ます。そこまでいけばその人の人生は大成功です。
お互いに、こうして真剣に生きることができれば、自分の友達もしっかり勉強し
ているんだなということが分かるようになります。そういう考え方に達すれば、友
達をいじめる、弱い者をいじめるなどということもなくなると思います。
最後に少しケースが違いますが、自分の使命を悟った人の話をします。竹山道
雄という人の書いた「ビルマの竪琴」という本があります。私は子供の頃、この本
を原作にした映画を見たことがあります。ビルマの山野に横たわる累々たる日本
軍の屍に走り寄る、水島上等兵の姿を私は忘れることができません。水島上等
兵は自分はこの地に残って、この人達の霊をとむらうのだ、それが自分の使命だ、
自分以外にそれができる人はいないと悟るのです。
上官の「戦争は終わったのだ、日本へ帰ろう」との誘いかけに「仰げば尊し我
師の恩・・・今こそ別れめいざさらば」と竪琴をひくのです。自分の使命を知ること
の素晴らしさ、尊さを教えられる感動的な映画でした。
この本はこの学校の図書館にもあるはずです。やさしい、分かりやすい本です。
一度読んでみて下さい。
これで私の話を終わります。短い話ですが、この話が少しでもこの後の皆さんの
勉強に役立てば幸いです。
日時:平成9年6月16日
場所:区立中学校体育館
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「津 軽」
Sさんは、津軽の殿様といわれていた。かつては大地主だった。もう八〇近い
人だ。いつも誰か一人使用人をつけて歩いていた。
Sさんとの出会いを私は忘れない。
上野発の夜行列車は、早朝、青森駅にすべりこむ。かばんを持って、ゆっくり
汽車のデッキからホームへ下りる。まだお会いしたことはなかったが、どう見て
もそれはSさんだった。
「やあ、先生かね。ご苦労さん」
私の乗った車輌の反対のデッキの方から使用人の青年がホームを駆けてき
た。
「ああ、先生、やっとつかまえた。いや、もうおじいさんはやかましくて。先生を
つかまえられねぇと困る。先生の乗った寝台車はわかっているのに、先生がわ
からねぇと困る。わしは前の出口で見張っている、わあ(お前)は後の出口で見
張っていろと、もうやかましくて」
前と後のデッキで見張っていれば、必ず先生はつかまえられると、そういう理
屈であった。見ればすらっと背が高くて、顔の色艶もよく、上品ななかなかハン
サムなおじいさんだった。
戦前、若い頃にはアメリカへ渡り、帰りには自動車を買ってきて村の人にうら
やましがられた。戦後には村長選に立って当選したこともある、とのことだった。
事件は、十和田湖岸の土地を東京の金融業者に騙し取られ、廻りまわってそ
の土地がまた青森の人の所有として登記されてしまったというものであった。当
然、手続としてはその土地に「処分禁止の仮処分」をかけて、それから本訴訟を
起こすというのが筋書きだった。
しかし、昔はともかくその時のSさんには、「仮処分」をかけるために必要な保
証金の準備はできなかった。寒い青森駅のホームで、使用人と二人、何十分も
前から私を待ってくれたSさんの情熱にほだされて、私は考えぬいた。
そうだ、「予告登記」がある。昭和四三年、弁護士としてスタートしてから間もな
く、
私はある小さな事件でK簡易裁判所の裁判官から、仮処分の保証金ができな
いときは「予告登記」でも相当の威力がありますよと教えていただいたことがあ
った。その予告登記を思い出したのである。
十和田湖岸は国立公園に指定されていて「私有地」は極端に少ない。それだ
け十和田湖に面した土地は価値が高いのである。
事件は約三年後、青森地裁十和田支部で勝訴した。登記の流れがおかしい
ときは、元の所有者に確認すべきであるのに、それをしないで買った人は保護
されないという理論がある。いわゆる確認義務懈怠の理論である。
青森駅のホームに降り立つと、私は今でもSさん、予告登記、K簡易裁判所
裁判官、確認義務違反というそれぞれの人と、それぞれの法律概念が浮かん
でくるのである。
だいいちくらぶ会誌 1998年号
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「ドイツを旅して」
八月一日、ドイツのフランクフルトに着きました。宿泊先はマリオット・ホテル・
フランクフルト。それはちょうど日比谷公園の一画を思わせるような緑豊かな街角
に建っていました。
まずホテルのまわりを走っているたくさんの車のスピードに驚かされました。見た目
では八〇キロぐらいでしょうか。とても街中とは思えないスピードでした。
翌朝、フランクフルトを出発するとバスは南へ、ハイデルベルク、ジュネーブをめざし
て進みます。生まれて初めて、この目で見るアウト・バーンです。アウト・バーンという
言葉から、何かとんでもない立派な高速道路を想像していました。しかし実際は単な
るアウト(自動車)バーン(専用道路)とのことで、それは日本にも、それ以上のものが
いくらでもある普通の高速道路でした。もちろんここではたくさんの自動車が100キロ
以上のスピードで走っていました。
あのたくさんのベンツなどの車の中にNKSのセンサーも使われているのだと思うと、
バスの窓に寄りそって見ていてもなぜか力が入り、感動ひとしおのものがありました。
こうして、南へ何十キロも走った田舎の小さな街の道路ぞいにポツンとダイハツや
スズキの店も見えました。日本車の進出も、NKSのセンサーの進出もまだまだこれ
からではなかろうか、それだけに将来が楽しみだ。
そんなことを考えながら、この盛夏というのにアルプスに近づくためか次第に寒くな
るバス旅行を、ゆっくり楽しんできました。
「計友」 2007年12月号
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「焼けた教科書」
つくづく人は、自分が経験したことしか理解できないのだと思う。
私が、この国がアメリカと戦争しているのだと、この体で知ったのは昭和20年7
月20日だった。国民学校5年生の夏である。
7月19日夜10時頃、B29爆撃機120機が福井市に来襲した。
まず照明弾である。夜を昼にするとはあのことである。福井市はもとより、さらに
北へ20キロ先の私の村まで白日の下に晒されたのである。それは小さな光も洩
らすまいと工夫した住民の燈火管制をあざ笑うごとくであった。
記録によれば、米軍は9,500発の焼夷弾をまず市周辺に落として市民の退路
を断ち、次いで市中心部へと落とし続けている。死者約1,600人。
さらに米軍は、燃え上がる炎の中へ電波妨害用の金属テープをパラパラと落と
していった。天空から下へ下へとゆっくり落ちるテープのキラキラ光る輝きを、私
は今も忘れない。
翌7月20日登校。校庭に私が使っていたのと同じ教科書の数枚が黒こげにな
って落ちていた。爆風が20キロも先の私の学校まで運んだのである。
家へ帰ると警察官をしていた隣のおじさんが顔にまっ白な薬を塗って寝ていた。
空襲で大やけどをしたのである。
ああ、この国は戦争をしているのだ。福井市の同級生は教科書を焼かれるし、
隣のおじさんは大やけど。これが戦争だと悟った。
隣の村の青年がマダガスカル島で人間魚雷になり白木の箱になって帰ってき
ても、山崎大佐率いるアッツ島が玉砕しても、山本五十六元帥の国葬があって
も、そして自分は靖国神社献納のつづりかたに応募しても、私にとって戦争はど
こか人ごとだった。そう考えたのは国民学校5年生という稚なさからだけではな
かった。
思えばこれは今からちょうど60年も前の話である。
しかし、今これと同じこと、いやそれ以上の戦争がイラクで続けられている。そこ
へこの国は約600人の自衛隊員を人道支援として送っている。
戦争のことを考えるとき私はいつも思う。戦争を決定する人は誰も戦場へ行か
ない。行くのはいつも20代の若者である。
その若者の意見を、今よりもせめてもう一歩国政に反映させなければならない
のではなかろうか。その先には選挙権、被選挙権の低年齢化があるのではなか
ろうか。
私はそう考えている。
「第一東京弁護士会会報巻頭言」2005年9月号
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1、 あけましておめでとうございます。
今年も正月を迎えました。皆さんこの正月休みどう過ごされましたでしょうか。
私は12月28日から1月5日までの9日間、珍しく徹底的に行政法の本を読みました。その必要があったからです。
私は今年で弁護士47年目に入ります。その間、思えばたくさんの行政事件をやらせていただき、判例時報の特報に載せていただいたりしていましたが、教科書をていねいに読みこなすことをしていませんでしたので、この休みをその勉強に当てたのです。
大浜啓吉先生の行政法講義T、Uです。読後の感動を忘れないうちにお話しておきたいと思います。
2、 序文に面白いことが書いてありました。本の序文は読んだ方がいいですね。そこには著者の本を書くに当っての熱い思いが手短かに書かれています。
大浜先生は孔子の論語を援用して、友あり遠方より来る、また楽しからずやと説いている「友」は歴史を遡って、遠い先代の人から学びたいということを説いているのだと言われています。そもそも、新幹線も飛行機もない時代に「遠方の友」といっても限度がある。そこにいう友といのは遠い々過去の歴史上の人だというのです。その人たちからしっかり学びたいものだということだと言われています。実はこの姿勢が大浜本の太いバックボーンになっていることが後で分かりました。
3、 大浜先生は現在の行政法は、国民の意思自治の原則に基づいていると言われます。国民が自分で自由にその意思を定めることができるということが大前提であるということです。
そんなことは当然であるといわれるかもしれませんが、それこそ遠い過去に遡れば国民は全く自分の意思をもっていなかったのです。これは歴史を見れば明らかです。
世界史の中でたった一つ年号を覚えなければならないとすれば1789年フランス革命だと思います。7月14日パリ市民がバスチーユ牢獄を襲撃し、8月26日には国民議会で人権宣言が決議されます。時の国王ルイ16世は3年後の1792年9月処刑されています。パリのコンコルド広場には今もその跡が残されています。これは人民が王様の統治の対象から逃れて、自らの意思をもつにいたった最初のできごとです。その前1776年にアメリカが独立を宣言しています。
この時代をまとめて、18世紀後半、人民はその自由意思を取り戻したというか、自由意思があることに気づいたとも言えますが、要するに人民が自己を発見したということです。
4、 自己を取り戻した国民は、自分のことは自分で定めるということになります。もう国王の意思に従っているだけではないのです。それでは自由意思を取り戻した国民はどのようにして自分を治めるか。自分で法律を作って、その法律に従って社会を運営していくことになります。それがまさに「due process of law」です。これは憲法31条に定めてあります。
さて、このことを前提にして現在の日本国憲法をみますと、次のようなことが言えると思います。
国会は国民から選ばれた国会議員から成り、その人達が国民の意思に基づいて法律を作ります。これが大きな基本線になっています。そこには国民の意思と、国会議員が作った法律の間には全く齟齬がないという前提があります。
5、 次にその国民の意思を反映した法律を執行するのは誰か、それは行政ということです。これが憲法に明記されています。第73条「内閣は…法律を誠実に執行し」という下りです。内閣は法律を執行するだけではない、「誠実に執行」しなければならないとされています。
内閣といっても、いち々総理大臣がやるのではなくて、各省、各庁、都道府県、市町村といった行政機関ということになります。そこには行政機関は法律を確実に、誠実に執行してくれるという信頼関係が想定されています。
6、 そのとおりにことが進めばそれで終りです。しかしそう簡単にはいかない。行政庁の法律の執行に誤りが全くないなどということは現実には考えられません。
例えば、ある山奥で採石場の認可を求められるとします。岩板を削って石をとるというだけのことですが、その認可にあたってはたくさんのことを考えなければなりません。ざっと想定しただけでも、採石場所は申立人の所有地か、他から適法に借りているのか、その範囲はどこまでか、隣地との境界はしっかりしているか、隣地の所有者の同意を得ているか、採石を洗浄する水はどこからとってどこへ捨てるか、その水の下流にある農地の用水を汚さないか、さらにその下流のアユ等の漁業を妨げないか、その下流住民の飲料水は保全されるのか、取った採石をどうして運ぶか、県道国道までのアクセスはどうか、さらに大きくはそもそもその採石場の立地が近隣の公共施設の妨げにならないか、等々ほとんど際限がないくらいの問題点があります。
確かにそれらの総てが完全にクリアされることは容易なことではないと思います。そこで行政訴訟の出番ということになります。
7、 Yに許可を与える場合、行政庁に対して表に出るのはYだけです。その陰にたくさんのXという集団があります。次のとおりです。
Y 業者に許可
X A集団 農業従事者
B集団 漁業従事者
C集団 近隣住民
Yの表の利益に対してXは都市住民の利益というか裏の利益ということになります。大浜先生はこの裏の利益にこそ公共性の核心があると述べられています。このあたりは(大浜
行政法講義U P150)に書かれています。
文字どおり、この150頁あたりがこの本の(T、Uを通じて)山場だと思います。少なくとも私はそう思いました。ここだ、ここだ、ここがこの本の山場だと思うことができれば、例えそれが客観的には間違っていても、楽しいものです。研究冥利に尽きるといえます。
8、 行政庁に対して行政訴訟、取消訴訟を起す場合には、この裏の利益が害されている、これを是正してほしいという立場に立つことになります。
大浜先生は、法律の執行が適法に行われたことを保証するのは執行の客体(処分を受ける)である私人以外にない(前記T 105頁)と言われています。
私達はいつも行政主体の立場に立っていますが、相手方(原告)はこういう考え方に立っていると考えて間違いないと思います。
そしてそれは決してことを荒立てることではない、裁判所の力を借りて、原告も被告も適法な法律の執行、due process of lawを求めているのだと考えたいものです。
9、 以上で、今回のお話は終ります。このセミナーによって、さて大浜行政法とはそういうものか、一度読んでみようかと思っていただければそれだけで十分です。お時間をいただいた成果と考えていいと思います。
最後になりますが、スポーツの世界(ゴルフなど)で、ワンポイントレッスンという言葉があります。どうも少しずつ本は読んでいるのだがいま一つパッとしない、果たして自分の勉強が進んでいるのかどうか分からない、いや後ずさりしているのではないか等と悩むときがあります。これは私だけでなくてみなさんあるそうです。そういう時こそ、誰か他の人の話をきくべきです。このセミナーもその考え方にそったワンポイントレッスンになると思います。そこから更に飛躍していただきたいと思います。
今年も始まりました。大きな志を持って進んでいただきたいと思います。大きな志とは決してさらに上のポストをねらって下さいというのではありません。今のポストをもっと立派につとめたい、さらなる成果をあげたいと思っていただきたいということです。そうすれば、ポストは自らついてくるものです。
これで今回のお話は終ります。御静聴有難うございました。
東京飯田橋区政会館にて(平成26年1月9日)
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むつみ会「新会館見学会」挨拶
おはようございます。
本日は第一東京弁護士会をお訪ねいただいて有難うございます。私は担当
副会長の杉本でございます。本来なら当会会長児玉公男が御挨拶申し上げる
べきところでございますが、会長はただ今この時間、日本弁護士連合会の正副
会長会に出席中のため、杉本から十分御説明するようにとの指示をいただいて
おります。
ところで、この会館は旧会館の二倍の広さであります。設計者の言葉によりま
すと、この会館は日比谷公園の森の緑を荒海に見立てて、それに屹立するとい
いますか、立ち向かう灯台をイメージして設計されたとのことであります。その形
は日比谷公園をはさんでちょうど向かい側、帝国ホテルの上の方からはっきりと
見えます。建物の一番上、塔屋の部分がそのように工夫されていると思われま
す。
一弁のこの会館には二つの大きな目玉があると思っています。
一つは狭いながらも一弁独自の、このような立派な講堂を持てたことでありま
す。私達はちょうどこのぐらいの大きさが使い勝手が良くて、いろいろな会合を
持ちやすいと思っています。
もう一つは、一弁は独自の図書館を持っているということです。この図書館の
蔵書は二万五〇〇〇冊あります。そして、これがもっとも大切なことですが、そ
の他にあと一万冊入れることができる余裕のある本棚を持っているということで
す。今の時代、これはいい意味でとても贅沢なことだと考えています。
さて、今当弁護士会が抱えている大きな問題は二つあります。
その一つは法曹養成ということであります。法曹養成といいますと何かピンとき
ませんが、要するにこの先毎年何名ずつの裁判官・検事・弁護士を養成していく
かという問題です。
法務省は一五〇〇名を視野に入れて、平成一〇年一〇〇〇名にすべきだと
言っています。「視野に入れて」とは、いずれ一五〇〇名にするべきだということ
です。
これに対して日弁連は、ここ五年間は八〇〇名でいいではないかという考えで
す。
ことは日本の法律家を国民の需要に応じて間断なく供給しなければならないと
いう大きな問題です。当弁護士会も近くこの問題について当弁護士会の案を出さ
なければなりません。
むつみ会の皆様の御子息様の中には司法試験の受験者がおられることと存じ
ますが、司法試験は今よりやさしくなります。是非頑張っていただきたいと思いま
す。
もう一つの問題はオウム真理教関連の国選弁護の件でございます。
本日現在、当弁護士会へ配転されたオウム関連の被告人は一五名で、この弁
護には約三〇名の弁護士が必要であります。
この先について申し上げれば、全体で被告人は二〇名から二五名に達し、これ
に要する国選弁護人は約五〇名になると思われます。
これだけの弁護士の御協力をいただくことは大変です。しかし、我々の先輩は
すべての事件を弁護してきました。今回も粛粛と弁護手続を進めなければならな
いと思っています。
終わりになりましたが、一〇月にはむつみ会の美術展を新会館二階の大講堂
で開催できることになりました。この講堂はこの新会館で一番立派な部屋です。
担当副会長として、秋の美術展が待ち遠しい今日この頃でございます。
本日は御多忙の中お越しいただき本当に有難うございました。
平成7年9月19日
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「集団疎開」
西光寺の後を過ぎて小さな川を渡るとそこは北村だ。国民学校四年生の私は
胸に「杉本」と名札をつけている。
小川の土手で六年生ぐらいの女の子が友達と何かを写生している。通りかかっ
た私を見かけて、
「あら、ぼん、あんた杉本いうの、うちと同じ名前や」
「うん」
とうなづく私に
「ぼん、ぼんの家どこや」
そこから直線にして田んぼのむこう五〇〇メートルぐらい先に私の家が見える。
私がその家を指さすと、
「ぼん、あれがぼんの家か、ぼんは家があってええなあ」
と心からうらやましそうだった。
二級も上の、しかも大阪の布施小学校から集団疎開して来たばかりのしゃれ
た都会の女の子に、私は手も足も出ない。何人かの女の子にとりかこまれ、じ
ろじろ眺められて、私はただ恥ずかしかった。
疎開の子の生活は厳しい。
疎開の子は、学校から宿泊先の西光寺に帰るとわずかの自由時間の後、近
くの山すその開墾地へさつま芋作りに出かける。
夕方、なれない農作業を終えた子供らは鍬やスコップを肩にかついで西光寺
に戻る。
引率の先生の後に並んで彼らは歌う。
「若い血潮の予科練の、七つボタンは桜にいかり…」青白い顔をした都会の
子らに、鍬や スコップはいかにも不つりあいだった。
祖母はさめていた。
「あんな子に歌うたわせて、おかみ(政府)も可哀相なことをするのう」
確かに私はその後、これに近い光景に出会ったことがある。そうだ、Y少年院
だった。その日は雪が降っていた。一日の作業を終えた少年達は宿泊棟から
風呂場への吹きっさらしの廊下を隊列を組んで上半身裸でかけ抜けて行った。
白いものが少年達の肩に降りかかっていた。それはあまりに寒々とした風景で
あった。
少年達にはそれぞれの事情があったであろう。
しかし布施国民学校の生徒には何の事情もなかった。そこに明白に存在した
のは大人たちがしかけた戦争だけだった。
人は戦争をふり返るとき、ともすれば第一線の兵士の悲惨さのみを描き出す。
しかし戦争はそれこそ全くトータルに、総ての国民を痛めつける。
特に力の弱い女子・子供にその累を及ぼすものであることを忘れてはならない。
だいいちくらぶ会誌 1996年号
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「刑事贖罪寄附」
1.「贖罪寄附」、その前向きの利用
「贖罪寄附」について目からうろこが落ちる思いをしたことがあります。
もうおよそ20年も前のことでした。その頃私は、「贖罪寄附」は脱税か収賄の被告
人が、身についた悪銭を吐き出すもので、その金額も100万円、1000万円の単
位だろう、従ってかけ出し弁護士の私には無縁の制度だと考えていました。
その考えを全面的に変えて下さったのが、私の恩師弁護士吉田太郎先生(故人)
でした。先生は、そんなことはない、贖罪寄附は小さな業務上過失事件(交通事故)
にも十分利用できるんだよと言われました。
どうしてですか、何か交通事故にはそぐわないような気がしますがとの私の疑問
に、「私はこれから法律を守ります」という証しにまさにぴったりなんだよ、そのお金
を、法律に従って権利を行使しようとする人の裁判費用に使ってもらえれば、それ
は法律を守る人を応援することになるし、ひいては贖罪寄附をした人もこれからは
法律を守りますという姿勢を示したことになるんだよと言われました。
思えばそれは、いわば「贖罪寄附」の前向きの、積極的利用法でした。
2.ある「飲酒運転」事件で
それから約20年たった今年春頃、私はある地裁支部で道交法違反(酒気帯び
運転)の国選弁護事件を担当しました。
今年に入ってから2回続いた酒気帯び運転で起訴され、その前にも同罪で罰金
刑。その中味は道路脇のガード鉄柱にフロントをぶつけたというものでした。被害
は鉄柱の傷を除けば自車のフロントの損傷、自損行為です。逮捕もされず、任意
取調べで公判請求となったのでした。
本人はいわゆる一流大学卒、自営、50才近い普通の男性。まあすんでしまった
ことは仕方ないとして、これから「飲んだら乗らない、乗るなら飲まない」と公判で
約束して下さいね、それから運転席に家族と一緒の写真を置いて、家族に迷惑を
かけないといつも誓うことにしたらどうですか、などとおよそ立派な大人に対する話
しかけに似つかわしくないことしか言いようがありませんでした。
その公判で、裁判長から徹底的に叱られました。一体どう考えているんだ、どう
反省しているんだ、これから絶対飲酒運転しないったってもう表に出ているだけで
3回、そんな人の言葉を信用できるか、飲酒運転でこの法廷からそのまま実刑で
出て行った人はいくらでもいるんだ、などなど検察官の尋問が霞む勢いの糾弾。
そこで私は、「ともかく、本日の裁判長のお言葉をもう一度よくかみしめて、この
後どうするか次回までの間に本人とよく相談します」と引きとって法廷を出ました。
誰もいなくなってしまってガランとした廊下のベンチに私と被告人の二人、どっかり
坐って考え直しました。そのときひらめいたのが吉田太郎先生の「刑事贖罪寄附
論」でした。
3.「贖罪寄附」5万円
「ところであなたは経営不振としても、奥様は何をされていますか。」
「パートで、月収5万円ぐらいです。」
「そうだ、奥様とよく相談して、その月収5万円を贖罪寄附していただきましょう
か。」
「是非そうして下さい。」
こうして奥様から貴重な5万円の贖罪寄附をいただきました。以下は情状証人
奥様の証言です。
「刑事贖罪寄附なんて全く御存知なかったでしょう。」
「はい、先生に教わって初めて知りました。」
「これであなたの貴重な一ヶ月分のパート代が消えてしまいましたが惜しくなか
ったですか。」
「惜しくなかったです。私にとって5万円は大金です。そのことは主人も十分知っ
ています。これでほんとうに主人も目がさめてくれたと思います。」
結果は明らかでした。第3回、判決期日のあの裁判官の、うって変わったやさし
い表情を私は忘れない。
「この裁判確定の日から3年間、刑の執行を猶予する」
4.小額「贖罪寄附」の累積
小さな、小さな事件に生きた少額刑事贖罪寄附でした。しかし私は、この発想は
貴重だと思っています。
いま日弁連会員は1万8000人余です。仮にの話ですが、その半数の9000人
の弁護士が年にたった1件5万円の「刑事贖罪寄附」をすれば4億5000万円に
もなります。まさに「チリも積もれば山となる」です。
財政難に苦しんでいるといわれている法律扶助協会に対する熱いエールをこめ
て、筆をとらせていただきました。
「法律扶助だより」 2002年7月号
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第42回関東弁護士連合会大会 シンポジウム
「死刑を考える」前夜祭開会の辞
関弁連第一回大会は昭和二九年三月六日、鬼怒川温泉公会堂で開かれて
います。
終戦直後の物資の乏しい時代のことであり、公会堂とは名ばかりで、吹きざら
しの芝居小屋のような所だったとのことであります。それでも、藤原町は初めて
の大会開催を祝って、その夜花火を打ち上げて下さったとのことであります。
それから四〇年、我第一東京弁護士会の先輩は、昭和三六年甲府大会では
「法廷秩序維持に関する法律」の廃止を求める緊急動議を提出するなどして激
しく戦ってきました。
そして明日、第四二回大会はここ浜松市で「死刑を考える」であります。先生
方にはこの重いテーマを前に、今席はゆっくりお酒を召し上がって、明日に備え
ていただきたいと存じます。
この後、児玉公男会長、当会が推戴した成富安信関弁連理事長の御挨拶を
いただいて、その後、設楽敏男先生に乾杯の音頭をいただきたいと存じます。
平成7年9月29日
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憲法50周年記念講演会−開会の辞
「戦後50年政治は民意を反映してきたか」
憲法施行50周年に当たるこの年、第一東京弁護士会では、それにふさわし
い記念行事を企画することになりました。
本日は当会の「憲法50周年記念行事実行委員会委員長」を仰せつかりまし
た。平成7年の第一東京弁護士会副会長に続く、初めてのポストとしてこれを
お受けしました。
以下は「憲法50周年記念講演会」での私の開会の辞です。そのままの速記
録で臨場感を味わって下さい。
【杉本秀夫憲法50周年記念行事実行委員会委員長】
ご紹介いただきました杉本でございます。
今年は憲法施行50周年にあたります。この50年間、アジアでは、昭和25年
の朝鮮戦争、昭和40年のベトナム戦争と、2つの大きな戦争が起こっておりま
す。朝鮮戦争で、連合国−これは韓国を含めたものです−は、17万2,837人
の人命を失っております。ベトナム戦争で、アメリカは5万数千人の犠牲者を出
しております。この間、我が国は1人の兵も失っておりません。日本はこの2大
戦争に巻き込まれなかったのであります。この原因といいますか、ここに至った
条件はどこにあるのでしょうか。私は次のように考えております。
まず第1は、何といっても憲法第9条の存在であります。戦争のみならず一切
の軍備を放棄した憲法第9条が、その効果を上げたことは間違いない事実であ
ります。その2は、国民が戦争の悲惨さ・惨めさを十分知っていたということであ
ります。国民は官民合わせて何と310万人の死者を出した太平洋戦争の惨禍
をしっかりと記憶していたのでございます。その3は、戦争を直接体験した世代で
構成する東京都議会を初めとする都道府県市町村の地方議会が、「決議」とい
う形で盛んに戦争反対・参戦反対の意思を表明し続けたということでございま
す。例えば昭和40年の8月でございますが、東京都議会は「ベトナム問題につ
いての平和的解決促進に関する意見書」を決議しまして、これを当時の佐藤栄
作総理大臣に具申いたしております。こういった間断ない意思表明が、時の政
府に戦争参加に踏み切るすきを与えなかったということでございます。私はこの
作用が大きく働いたと考えております。地方自治はこういった面において、まさ
に民主主義の学校としての大きな役割を果たしたと考えます。以上は私の考え
方でございます。皆さんはどうお考えでしょうか。
きょうは、地方自治体の中央政府に対する意思伝達において大きな成果を上
げてこられた、沖縄県の副知事及び参議院議員の先生をお招きしての集会でご
ざいます。そのお話を伺った後で、当会会員はもとより一般市民の方からも質問
なりご感想なりを是非共いただきたいと思います。開かれた弁護士会を目指す当
会にとっては、絶好のチャンスであると思います。
私は、憲法は決して法律家のものでもなければ学者のものでもない、1億2,5
00万国民全体の共有財産であると考えております。市民の方を含めてみんなで、
きょうこの席において憲法に関する思いのたけを述べ合っていただければ、この
会はそれで十分成功であると思います。皆様のご協力をお願いして、私の開会の
辞とさせていただきます。ありがとうございました。
日時:平成9年2月12日
場所:弁護士会館12階
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