【ある国選刑事裁判の記】
一、「四〇才と言えば不惑だ、手元にはわずかに一四五円、四月の午前二時、
寒風の中で神社の賽銭箱の蓋をそっと持ち上げる、そんな自分がみじめだ
と思わないか」
「はいみじめだと思います」
「そんな自分をもう一人の自分がじっと見つめたらどうか。本当にみじめだ
と思うだろう」
「はい、そう思います」
「人間はもっと自分を大切にしなければならない、どんな立場に立っても
それぞれの立場で全力をあげなければならない。そうでなければ自分が可
哀相ではないか」
「はい」
(もしかして、これは国選弁護人たる私に対して、もっと努力してほしいとい
う言葉だろうか。いやそれは考えすぎというもの、私は私なりに忙しい中、M
警察へ面会に行っているではないか。)
「誰のことでもない、被告人、君のことだよ、誰も代わってくれない君の人生
だよ」
「はい」
次から次へと出頭してくるその中のたった一人の賽銭泥棒未遂、刑法上は
「窃盗未遂」の被告人対するS簡易裁判所裁判官の被告人尋問はかなり見
事なものでした。
二、弁護人としては次のようにきいてみました。
「あなたには今日ここへ情状証人に来てくれる身内の人は誰もいないのです
ね」
「はい」
「父も、母も、兄弟も誰もいないのですね」
「はい」
「ところでもしこの事件の責任を果たして社会に出た場合、その日からどうし
ますか」
「五反田にT建設という会社があります。そこへ行けば建築現場作業員として
雇ってくれ、一日八、〇〇〇円もらえます。それで簡易宿泊所へ泊まって生活
していけます」
「作業の内容はどんなものですか」
「道具運びや、小さなモルタルの穴うめ、掃除などです」
「要するに雑役ですね」
「はい」
三、検事の反論は当然次のようになりました。
「いま五反田のT建設と言いましたね」
「はい」
「それは五反田の何という町にあるのですか、番地は」
「行けばわかります」
「要するに所番地も知らないというわけか」
「はい」
「ところでT建設の人事担当者はどなたですか」
「名前は知りません」
「名前も知らない人が、君を採用してくれるのかね」
「はいとってくれます」
もちろん弁護人の私はこの点を警察で面会したとき、被告人にきいてみま
した。しかし被告人はT建設の所番地も、人事担当者の名前も知りませんで
した。
その程度の材料でも、被告人に有利か不利かどちらかといえばやはり有利
な事情になります。
四、この被告人は実は前年、スーパーで一万円の万引きをした罪で
懲役一〇月執行猶予三年の判決を言い渡されていました。
その執行猶予期間中にさらに賽銭泥棒をしようとして蓋をもちあげたところ
で警報ブザーが鳴ってつかまり「窃盗未遂」になってしまった
のです。未遂ですから一円の金も手にしていません。
刑法はこのような被告人に対してどう対応しているか。
刑法第二五条「前ニ禁錮以上ノ刑ニ処セラレタル…者一年以下ノ…禁錮
ノ言渡ヲ受ケ情状特ニ憫諒(びんりょう)ス可キモノアルトキ」はもう一度執
行猶予にすることが出来る、いわゆる再度の執行猶予が可能なのです。
前が一万円の万引きで、今回が賽銭泥棒の未遂、執行猶予期間中のこ
ととはいえこんな被告人を刑務所へ入れるのはいかにも気の毒な感じです。
五、私の最終弁論の後の部分はこうなりました。
(被告人の今後)
被告人はこれまで建築現場作業員として、相応の実績をあげている。
五反田所在T建設は被告人を求めている。
建築ブームの今日、雑工、ビル建築雑役、モルタル穴うめ、工具後片づけ
等の仕事により一日当たり八千円を稼ぐ能力をもっている。
今の社会、このような人こそ求められているのである。
被告人の一日も早い雑工としての社会復帰を望むものである。そして少し
ずつでも仕事を覚え、その社会にあって少しでも力を延ばして、それがやが
て定職となることを期待したい。
(被告人の反省)
被告人は弁護人に対し、本件を深く反省していると述べている。
そして、今後は酒をつつしみ、真面目に働いて立派な社会人になりたいと
誓っている。
弁護人は四〇才、不惑の被告人のこの誓いは真剣なものと考える。
(被告に対する処分について)
くり返しになるが、本件はあくまで未遂である。賽銭箱の蓋をとっただけで
金については見てもふれてもいない。
逮捕に向かった警察官は一人の自転車に乗ったお巡りさんで、逃げようと
思えば逃げられる状態にあった。
本件は絵に描いたような未遂犯である。その点を十分酌量して減軽して
いただきたい。
さらに被告人の前記のような境遇等をくんで酌量減軽していただき、これら
を総て総合して情状特に憫諒すべきものとして、被告人に対し何卒再度の執
行猶予を賜り度いのである。
六、平成元年、裁判官は次のように判決を言い渡しました。
「被告人を懲役八月に処する。この裁判確定の日から三年間右刑の執行を
猶予する」
再度の執行猶予が認められたのです。
手錠を外された被告人は弁護人である私に対し、廊下で軽く一礼しただけ
でした。
私には裁判官の気持ちが痛いほど分ります。裁判官は被告人が再度の執
行猶予の判決後、五反田のT建設へ行って働いてくれると判断したのでしょう
か。九分九厘彼はまた街をうろつくと考えたでしょう。しかし残る一厘の可能
性、建設でなくてもいい、まじめにどこかで日雇いとして働いてくれるかもしれ
ないという一厘の可能性にかけたのです。
結果的に被告人にだまされたことになるかもしれない。しかし、残念だがそ
の場合、それも仕方ない、ここはだまされてみようと考えたのでしょう。
被告人はどうか。
これで弁護人も、裁判官も、検察官も総てくぐり抜けた。これで俺は自由に
なった。これからどこへ行こうと自由だと考えているとしたら、彼はまた罪を重
ねて近い将来この裁判所へ出頭することになることは明らかです。そしてその
可能性はかなり大きいと判断されました。
七、たった一人の「窃盗未遂」犯の裁判に全力をあげる裁判官の姿に深く感銘
して、いつの間にか「裁判の記」になってしまいました。
一つの職業にかけるその人の美しさにひかれて筆を走らせてみました。
「切磋琢磨」という言葉がありますが、よき先輩に恵まれることは有難いもので
す。
八、事件は平成元年と約二〇年前のものです。先日ある刑事裁判で「説諭」も
しない裁判官に出会って、古きよき時代の裁判を思い出しました。
裁判官はたくさんの事件でうんざりでしょう。しかし被告人本人にとっては
たった一回の公判期日です。その裁判手続の中でせめて二、三分くらいの
間でも、裁判官として本人にさとしてほしい、人にはその地位にある者しか
言えない言葉があるのにとしみじみ思ったのものでした。
〜平成19年2月16日〜
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【架空取引】
1 架空取引といわれた場合、あなたはどういうことを想像しますか。
架空取引とはこういうことなのです。
A社 → B社 → C社 → D社 → A社
100円 90円 80円 70円
ある商品をA社がB社に100円で売る。
(架空ですから本当は何も売らない。)
その商品をB社がC社に 90円で売る。
その商品をC社がD社に 80円で売る。
その商品をD社がA社に 70円で売る。
これによって、A社は100円で売って、70円で仕入れるのですから30円
利益が出ます。
しかし、B社は100円で買って、C社に90円で売るのですから10円損
C社は 90円で買って、D社に80円で売るのですから10円損
D社は 80円で買って、A社に70円で売るのですから10円損
要するにB、C、D3社合計30円損、その結果A社だけ30円得ということ
になります。
2 分かりやすくするために簡単なケースにしましたが、実際行われている
架空取引は、数億円の単位で、もっと真偽ないまぜて巧妙に行われます。
こんな幼稚なことをするのは小さな会社に違いないとお思いでしょう。しか
し実際は、最近でも一部上場企業に架空取引が発見されました。
会社が大きくなると、人も多くなり、上の人から見て下の人までの総ての
人を見とおすことができなくなるものなのです。ですから、むしろ、大企業の
方が架空取引が発生しやすいのです。
企業は人なりといいます。長い目で見て、こういうことをする社員がいる会
社が生き残ることはできないことは当然ですが、ともかく、こんな形で架空
取引が現実に行われることがあることは、企業人たるもの、常識として知っ
ておくべきことです。
〜平成19年6月20日〜
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