史跡・博物館 山口
福原越後殉難碑 | |
岩国市川西1−7−3 | |
管理人メモ:清泰院の川西保育園内にある。錦帯橋からは徒歩でも可。駐車場なし。 | |
西栄寺 | |
岩国市柱島 | |
管理人メモ:岩国から高速船で約60分。赤根武人の墓があるとされる。 | |
高田公園 | |
山口市湯田温泉2 | |
管理人メモ 公園内に何遠邸址の碑、龍尾の手水鉢、侯爵井上家旧邸地の碑、井上馨銅像、所郁太郎顕彰碑、七卿の碑がある。 温泉街を歩いていれば、すぐわかるだろう。 |
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何遠亭址の碑 | |
七卿落ちのとき、井上家の離れを増築し、三条実美らの宿舎にあてられた所で、 全国の勤皇の志士たちが出入りし、維新回天のための相談が行なわれた。 「何遠」の語は「何の遠きことか之れ有らん」の論語からとったもの。 |
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龍尾の手水鉢 | |
この手水鉢は古くから井上家にあり、龍の尾の形をしているので、龍尾の手水鉢と呼ばれた。 三条公らの七卿や明治維新の諸国志士たちが、井上家に訪れたときに使われていたもの。 その後、井上候の東京移住にともない、この手水鉢も他に移されたが、 大正のはじめ、井上候の銅像がたてられたとき、昔をしのぶ由緒あるものとして、再びこの地に据えられた。 |
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侯爵井上家旧邸地 | 井上馨像 |
所郁太郎顕彰碑 | |
所郁太郎は天保九年、美濃国赤坂に生まれた。 長じて京都に出、医学を学び、さらに大阪の適塾で西洋医学・洋楽を修め、学・術ともに精通した。 京都で医院を開いたが、長州藩の京都邸の近くであったので、藩の邸内医員を委嘱された。 尊王の志が篤く、長州藩士と深く交わって、時勢を通観し、医業をやめて国事に尽くそうとし長州に来往した。 下関の攘夷戦にも参加し、七卿西下に降ろしては、その医員を命ぜられた。 元治元年九月、井上馨の袖解橋の遭難には、ただちに駆けつけ、 数ヵ所の刀傷を五十数針縫い合わせる大手術をなし、瀕死の井上を奇蹟的に救った。 後年の井上の業績を思うとき、この所の治療を忘れてはならない。 慶応元年正月、高杉晋作が兵を挙げ、藩の俗論党と戦った時、所は迎えられて遊撃隊の参謀となり、高杉に協力した。 その後、幕府の長州征伐に備えて、軍を進めようとした時、にわかに病んで、吉敷の陣中で歿した。二十七歳。 明治になり特旨をもって従四位を贈られた。 |
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七卿之碑 | |
井上馨遭難地 | |
湯田温泉1 | |
管理人メモ:世外井上馨候遭難之地碑がある。 | |
松田屋ホテル | |
湯田温泉3−6−7 | |
管理人メモ 万延元年(一八六〇)に建造され、高杉晋作、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、坂本竜馬、 伊藤博文、大村益次郎、山県有朋、井上馨、三条実美らが入浴したとされる維新の湯や、 七卿落ち遺跡、高杉晋作・憂国の楓などがある。 |
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周布公園 | |
山口市周布町 | |
管理人メモ:嗚呼長藩柱石周布政之助君碑、公園横に麻田公輔墓(周布政之助)がある。 | |
朝日山招魂場 | |
山口市秋穂二島 | |
久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一などの招魂墓がある。 | |
大照院 | |
萩市青海4132 | |
管理人メモ 敷地内に毛利家墓所、勅撰銅碑、枕流亭などがある。 毛利家の菩提寺で偶数代の藩主の墓がある。 |
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萩藩主毛利家墓所・毛利敬親の墓 | |
この墓所は萩市に所在する旧天樹院、大照院、東光寺毛利墓所とともに長州藩主(毛利本家)の墓所である。 萩市に所在の墓所が五輪搭、笠搭婆形であるのに比して、この墓所は土饅頭の前面に墓石を立てる形式である。 墓所には七基の墓があり、中央の十三代敬親公夫妻の墓は高さ約1.8メートル、径約5.8メートルの円形の墓で、 前面に墓石があり「贈従一位大江朝臣敬親卿墓」と刻してある。 そのほか十四代元徳公夫妻、十五代元昭公夫妻及び、毛利本家歴代諸霊之墓がある。 |
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勅撰銅碑 | |
この碑は明治天皇が毛利敬親の偉業を永久に伝えるために、碑の建立を命じ、その命により建てられたものである。 毛利敬親は長州藩十三代の藩主で、明治維新の大業をなしとげた英主である。 明治二年正月、版籍を奉還した後に家督を世子元徳に譲って隠居し、 明治四年三月二十八日、山口の野田御殿で没した。 篆額は彰仁親王の書、文は川田剛が撰し、それを書いたのが野村素介である。 素介は山口市大内の出身で、維新の戦役にも参加した志士であるが、 書家としても名高く、日下部鳴鶴と共に明治の書家の双璧ともいわれている。 その素介が勅命に恐懼して書いた楷書であるので、その文字の美しさは申し分なく 日本に数基ある勅撰銅碑の内もっとも美しいものとして有名である。 |
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枕流亭 | |
この建物は、もと山口の旧家安部家の離れで、市内道場門前の一の坂川の流れにのぞむ河畔にあったので「枕流亭」と呼ばれた。 七卿落ち、蛤御門の戦などで薩長両藩に大きな溝がでたが、 勤王の大義と倒幕の目的のためには、両藩が離反していることは大きな支障であるとして、 土佐の坂本龍馬らの奔走によって、両藩連合の話し合いが進められた。 ここにおいて慶応三年(一八六七)九月、薩摩の藩士西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)、小松帯刀、大山格之助らが山口に来訪した。 これに対し長州藩は木戸準一郎(孝允)、広沢真臣、伊藤俊輔(博文)、品川弥次郎らが迎え、 枕流亭の階上において薩長連合の密議をかさね、連合倒幕軍の結成を誓ったのである。 実にこの枕流亭は明治維新のあけぼのをつくった記念すべき建物である。 枕流亭はその後、二、三度移築されたが、昭和三十五年ここに移された。 |
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夏木原 | |
管理人メモ:大照院から萩市内に入る山道で偶然見つけた。面影山か? | |
幕府により東送を命じられた吉田松陰は、安政六年(一八五九)五月二十五日、 萩から江戸への途中、一行と共に、萩往還に沿うこの地で、しばしの休息をした。 そのときの感懐を吉田松陰は、この漢詩に託した。 その意は 「私は幕府の命令で江戸に送られるが、自分の真意は天の神に正したらわかるはずである。自分は公明正大である。 ここ夏木原では五月雨がしとしとと降り、ほととぎすがしきりに鳴いている。 ほととぎすは血を吐くまで鳴くというが、その血でこのあたりのさつき、つつじも真紅に燃えている。 自分の胸中もまた同じ思いがする」 と、わが国の現状を憂い、行く末を案ずる吉田松陰の心情がよくあらわされている。 |
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吉田松陰誕生地 | |
萩市椎原 | |
管理人メモ 敷地内に吉田松陰先生誕生之地碑、吉田松陰と金子重輔の像、高杉晋作草庵跡地顕彰碑、 玉木文之進墓、久坂玄瑞墓、久坂良迪墓、久坂玄機墓、杉百合之助墓、東行暢夫之墓、 二十一回猛士之墓、吉田稔麿墓などがある。 吉田松陰誕生の地から北西に約300メートル行った所に玉木文之進旧宅もある。 |
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ここ樹々亭山屋敷は、吉田松陰の誕生の地である。 この地、松本椎原台団子岩にあった茶亭山荘(所有者、江向八谷藤兵衛)を実父杉百合之助の妻滝子の父村田右中が 文政八年(一八二五)手にいれ百合之助に贈られた。 松陰は天保元年八月四日、士禄二十六石杉家第五代の二男としてここに生まれた。 その後、百合之助が盗賊改方頭役についたため、嘉永六年(一八五三)現在の松陰神社境内の杉家旧宅に引っ越した。 西向平家建の樹々亭は玄関三畳(先生兄妹の勉強間)、表座敷六畳、隠居部屋三畳、居間六畳と台所、物置、納屋、厩舎からなっていた。 |
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吉田松陰先生誕生之地碑 | 吉田松陰と金子重輔の像 |
高杉晋作草庵跡地顕彰碑 | 玉木文之進墓 |
久坂玄瑞墓 | 久坂良迪墓 |
久坂玄機墓 | 杉百合之助墓 |
東行暢夫之墓(高杉晋作) | 二十一回猛士之墓(吉田松陰) |
吉田稔麿墓 | |
長添山招魂場 | |
萩市椿東 | |
世良修蔵招魂墓がある。 | |
東光寺 | |
萩市椿東 | |
管理人メモ 松陰誕生地すぐ。 毛利家の菩提寺で三代から十一代までの奇数代藩主の墓がある。 敷地内に松島剛蔵墓、山田亦介墓、宍戸左馬介墓、周布政之助招魂墓、 国司信濃招魂墓、福原越後招魂墓、益田右衛門介招魂墓などがある。 東光寺から北500メールほどに山田義顕誕生地もある。 |
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東光寺 | 毛利家奇数代藩主の墓 |
松島剛蔵墓 | 山田亦介墓 |
宍戸左馬介墓 | 周布政之助招魂墓 |
国司信濃招魂墓 | 福原越後招魂墓 |
益田右衛門介招魂墓 | |
松陰神社 | |
萩市椿東 | |
管理人メモ 敷地内に松下村塾、吉田松陰幽囚の旧宅、吉田松陰歴史館、松陰遺墨展示館などがある。 |
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松下村塾 | |
松下村塾は木造瓦葺き平屋建ての小舎で、当初からあった八畳の一室と、後に増築した十畳半の部分からなっている。 初め、吉田松陰の叔父、玉木文之進が自宅で私塾を開き、松下村塾と名付けた。 ついで、久保五郎左衛門がその名を継承し、子弟の教育にあたった。 安政四年(一八五七)十一月五日、松陰がこれを引き継ぎ、野山獄に再投獄されるまでの約一年間、 多くの門弟に接し指導激励を行なった。 |
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吉田松陰幽囚の旧宅 | |
この建物は吉田松陰の父、杉百合之助の旧宅であるが、家禄四十九石余の親族、瀬能家から借りたものでかなり広い。 松陰は伊豆下田港で海外渡航に失敗して江戸の獄につながれ、ついで萩の野山獄に移されたが、 安政二年(一八五五)許されて、実家へのお預けとなり、三畳半一室に幽囚されることになった。 ここで父兄や近親が松陰の講義を聞き、やがて入門者が増えて私塾の形態ができるようになった。 この講義は安政四年、松下村塾に移るまで一年半ばかり続けられた。 松陰は安政五年、老中間部詮勝の要撃を企てたために、野山獄に再入獄前の約一ヶ月間、再びここに幽囚される身となった。 |
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吉田稔麿誕生の地 | |
管理人メモ:松陰神社と伊藤博文旧宅の間にある。 | |
萩藩の足軽、清内の長男。 初め久保五郎左衛門の松下村塾、のち吉田松陰の松下村塾に学び、見識、才智を備えた俊才で 高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一と併せて松下門下の四天王と称せられる。 松陰の刑死後、江戸に亡命して旗本の妻木田宮の使用人となり、江戸の情勢をうかがう。 攘夷血盟に加わり活躍。 長州藩が諸隊の組織を始めたとき、未解放部落の人々を組織して自ら屠勇取立方となる。 元治元年(一八六四)、京都三条の池田屋で諸藩の志士と密議中、新選組に襲われて自刃した。 享年二十四。 |
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伊藤博文旧宅 | |
管理人メモ:松陰神社すぐ。伊藤博文旧宅、伊藤博文別邸、伊藤博文像がある。 | |
伊藤博文旧宅 | 伊藤博文別邸 |
伊藤博文像 | |
入江九一 野村靖誕生地 | |
萩市土原町 | |
管理人メモ:松下村塾から西へ1キロほど。入江九一、野村靖誕生地之碑がある。 | |
周布政之助旧宅地 | |
管理人メモ:入江九一誕生地すぐ。周布政之助旧宅地碑がある。 | |
高杉晋作誕生地 | |
萩市南古萩町菊屋横丁 | |
天保十年(一八三九)、萩藩士高杉小忠太(家禄二百石、号春樹)の長男として生まれ、明倫館に学び、のち吉田松陰に師事、 久坂玄瑞とともに松門の双璧と称される。 文久二年(一八六二)、上海に外国事情視察、帰国後、藩の中心となり倒幕運動に身を投ず。 また身分を問わない奇兵隊を組織し、藩論を統一する。 薩長連合に力をそそぎ、幕府の征長軍を迎え撃って全軍を指揮し、藩を勝利に導く。 慶応三年(一八六七)、維新を知らず下関で病没。二十九歳。 屋敷は現在半分以下になっているが、庭内には毛利公碑、東行の言志、高杉家鎮守堂、奥には初湯の井戸と東行歌碑などがある。 |
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円政寺 | |
萩市南古萩町江戸屋横丁 | |
管理人メモ もとは大内家の祈願所として山口にあったが、毛利家と共に萩に移った。 高杉晋作、伊藤博文などが遊び学んだ場所であり、幼少の晋作が肝試しをしたという天狗の面や木馬などが残っている。 |
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青木周弼旧宅 | |
萩市南古萩町江戸屋横丁 | |
この家は、藩医(西洋内科)で蘭学者であった青木周弼の旧宅である。 安政六年(一八五九)に建てられたものであるが、あまり改造されておらず当時の様子をよく残している。 青木周弼は、大鳥郡和田村(現東和町)の医家に生まれ、藩主毛利敬親の侍医や医学館の館長をつとめた。 日本屈指の医師として全国的にも知られ、各地から集まった多くの弟子を育てた。 また、村田蔵六(大村益次郎)が萩藩に出仕した時には、親代わりとなり世話をした。 |
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木戸孝允旧宅 | |
萩市呉服町江戸屋横丁 | |
野山獄跡 | |
萩市今古萩町 | |
管理人メモ:バス停、野山獄跡入口すぐ。裏路地なので迷うかも。 | |
正保二年(一六四五)九月十七日夜、藩士岩倉孫兵衛(大組、禄高二百石)は 酒に酔って道一つ隔てた西隣の藩士野山六右衛門(大組、禄高二百石)の家に切り込み、家族を殺傷した。 この事件のため岩倉は死刑となり、両家とも取りつぶされ、屋敷は藩の獄になった。 野山獄は上牢として士分の者の収容を、岩倉獄は下牢として庶民を収容した。 なお、現在の指定地は獄の一部分である。 吉田松陰は海外渡航に失敗したのち野山獄に、その従者金子重之助(重輔)は岩倉獄に投ぜられた。 野山獄は、また維新前夜の藩内抗争の中で、正義派(革新派)、俗論派(保守派)双方の藩士が投ぜられ、処刑された場所でもある。 |
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岩倉獄跡 | |
管理人メモ:野山獄正面。金子重輔君絶命之地碑がある。 | |
長寿寺 | |
萩市北古萩 | |
管理人メモ:野山獄から南西約200メートル。入江九一の墓がある。 | |
海潮寺 | |
萩市北古萩 | |
管理人メモ:長寿寺から北へ約100メートル。長井家先祖代々墓(長井雅楽)がある。 | |
久坂玄瑞生誕地 | |
萩市平安古町 | |
管理人メモ 平安公民館、平安郵便局すぐ。 北に約200メートル行くと村田清風別宅跡がある。 |
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この地に出生。 明倫館に入り、のち医学館で学ぶが、医業を好まず吉田松陰に学んで高杉晋作と共に松下村塾の双璧と称された。 長井雅楽の航海遠略策に反対し、藩論を尊攘倒幕に一変させ、攘夷督促勅使東下の奏請に奔走、 英国公使館の焼打ち、下関の外国船砲撃に参加した。 元治元年(一八六四)、蛤御門の変に敗れ、鷹司邸内で自刃した。享年二十五歳。 |
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山縣有朋像 | |
萩市市民球場内 | |
明治、大正の軍人、政治家、公爵。 川島で出生。 松下村塾で学び、奇兵隊の軍監となり、高杉晋作挙兵による内訌戦などに活躍。戊辰戦争では官軍の参謀として転戦。 明治以降、陸軍卿、参議、陸軍大将、元帥へと進み、日本陸軍の中心的存在として長州陸軍閥を形成、 政治家としては内務大臣となり、のち二次にわたり内閣を組織し、元老となる。 大正十一年(一九二二)没。享年八十五。 |
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徳隣寺 | |
萩市江向269 | |
管理人メモ:山縣有朋像を南に約300メートル。福原越後の墓、椋梨藤太の墓がある。 | |
福原家先祖合葬墓(福原越後) | 椋梨先祖合葬墓(椋梨藤太) |
明倫館跡 | |
萩市江向602 | |
管理人メモ:明倫小学校敷地内。明倫館碑、有備館、水練池、観徳門などが残っている。 | |
元帥公爵山縣有朋誕生地 | |
萩市川島町 | |
管理人メモ:道の奥まった場所にある。行き止まりなので自転車が無難。 | |
旧周布家長屋門 | |
萩市堀内 | |
周布家は、萩藩永代家老益田家の庶流で、石見国周布郷の地頭職として周布村に住し、周布を名字としたところから始まる。 藩政時代は大組士の筆頭として一五三〇石余の知行地を大津郡渋木村に領していた。 この長屋門は同家萩屋敷の表門で、平屋建て本瓦葺き、東西の桁行二四.九一メートル、 東端から北に折れ曲がった部分の桁行一一.二メートル、梁間三.九六メートルの道路に沿った長い建物である。 中央から東寄りの所に二.四六メートル幅の門を構えて開き扉を設けている。 建物の外観は腰部を下見坂張りとし、基礎に切石積みがあり、上部は白漆喰大壁造りである。 江戸中期の代表的な武家屋敷長屋の様式を残している。 |
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萩城跡 | |
萩市堀内 | |
毛利輝元が築いた城。 中洲上にあるため工事が難行し慶長九年(一六〇四)から四年の歳月をかけて完成した。 指月山麓の平城と山頂の山城を併せた平城で、本丸には五階の天守閣があったが 明治七年(一八七四)にすべての建物を解体。現在は石垣と堀のみが残されている。 |
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萩反射炉 | |
萩市前小畑 | |
安政五年(一八五八)、萩藩が鋼鉄製の大砲製作のために建設した西洋式金属溶解炉。 本体は解体され、下部が玄武岩、上部がレンガ積みの高さ一一.五メートルの煙突だけが残る。 薩摩藩や水戸藩などが建設したが、現存するのは萩反射炉と韮山反射炉のみ。 |
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東行庵 | |
下関市吉田1184 | |
管理人メモ 東行庵、高杉晋作の墓、高杉晋作像、おうのの墓、赤根武人の墓、佐々木祥一郎など奇兵隊士の墓などがある。 |
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ここは清水山と称し、奇兵隊軍監、山縣狂介(有朋)が麓に草庵を建て無隣庵と名付けていた。
慶応三年(一八六七)四月、高杉晋作の遺言により遺骸を奇兵隊の本拠に近いこの地に葬った。 晋作の愛人おうの(谷梅処)は、出家したので、山縣が明治二年 (一八六九)、無隣庵をおうのに贈り欧州に旅立った。 現在の庵は明治十七年、伊藤博文、山縣有朋、井上馨など の寄付により建立されたもので、 梅処は明治四十二年にその生涯 を閉じるまで東行の菩薩を弔った。 |
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東行庵碑 | 東行墓(高杉晋作) |
梅処尼墓(おうの) | 赤根武人之墓 |
奇兵隊士の墓 | 高杉晋作像 |
奇兵隊陣屋跡 | |
下関市吉田 | |
管理人メモ:東行庵すぐ。 | |
文久三年(一八六三)六月、萩本藩主の命を受けた高杉晋作が馬関に出張し、武士以外の人たちも入隊を許可し、奇兵隊を結成した。 奇兵隊は翌元治元年、米、英、仏、蘭の四ヶ国連合艦隊を前田砲台などで迎撃し、勇気をもって戦ったが新兵器を有する連合軍に敗退した。 同年十二月、高杉晋作の挙兵後、美東町、大田絵堂の内訌戦に勝利を得たのち、慶応元年四月に奇兵隊は吉田に転陣、 慶応三年八月に兵舎、稽古場、講堂などを配した陣屋をこの地に築き移った。 陣屋では、きびしい規律に従い四百人の志士が毎朝六時起床、八時まで講堂で漢字を学び、九時から調練の日課で、 外出は隔日に五人一組で、吉田地区内の散策のみが許された。 |
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白石邸跡 | |
下関市竹崎町 | |
管理人メモ:中国電力駐車場に白石正一郎邸跡の碑がある。 | |
高杉東行終焉之地 | |
管理人メモ:白石邸から徒歩10分。高杉東行終焉之地碑がある。 | |
厳島神社 | |
下関市上新地町1−1−11 | |
慶応二年(一八六六)の小倉戦争に勝った戦利品として、奇兵隊 が小倉城から持ち帰った大太鼓が保管されている。 | |
桜山神社 | |
下関市上新地町2−6−22 | |
境内裏手には、明治維新に散った志士たち三百七十余の招魂碑がある。 中央に吉田松陰、両側には高杉晋作、久坂玄端が並び、維新に貢献した様々な人物が祭られている。 この招魂社の形式は、高杉晋作の発起によるもので、靖国神社の始まりといわれている。 |
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功山寺 | |
下関市長府川端1−2−3 | |
管理人メモ:境内に高杉晋作像がある。 |
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