史跡・博物館 山形




鶴岡公園
鶴岡市馬場町4
管理人メモ
鶴ヶ岡城の本丸と二の丸が、鶴岡公園となっている。本丸跡などはないが、堀や石垣は当時からのものもある。
公園内には荘内神社護国神社大寶館などがある。
鶴ヶ岡城跡 大寶館
護国神社
明治二十八年(1895)十月、旧藩主酒井忠篤の御発心により、幕藩体制が長く続いた江戸時代から、
開国を迫られた明治時代に変わる激変(戊辰、西南の戦役)に殉じた藩士の霊を祭祀るために創設。
「鶴岡招魂社」と称した。
拝殿は、酒井家十代藩主忠器公の御霊廟が特別に下賜され、
江戸時代の霊廟建築として庄内で唯一現存する貴重なものである。
致道館
鶴岡市馬場町11-45 пF0235(23)4672
管理人メモ
開館時間9:00〜16:30。入場無料。毎週月曜休館日。鶴岡市役所前。
致道館は庄内藩九代の名君酒井忠徳公が、士風の刷新と藩政の振興をはかるため、文化二年(1805)に建てた藩の学校である。
学校の組織はすべて中国式で、その中心は孔子を祭った聖廟であった。
明治六年に廃校されてから鶴岡県庁、鶴岡警察署の庁舎にも使われたこともあった。
その後、女子教育の明倫学校となり、鶴岡高等女学校の開校もここで行われ、さらに鶴岡市立朝陽第一小学校として使用されていた。
東北地方で藩校としてその名をとどめているのは致道館のみで、昭和二十六年(1951)貴重な文化財として国の史跡に指定されている。
致道博物館
鶴岡市家中新町10-18
管理人メモ
開館時間9:00〜17:00。一般700円、学生380円。年末年始休館日。鶴岡公園隣り。
旧庄内藩主御隠殿、旧西田川郡役所、旧鶴岡警察署庁舎などがある。
御隠殿
ここの土地は酒井氏入国当時の元和八年(1622)から藩の御用屋敷で、慶安年間には三代酒井忠勝の次男忠俊の住居があった。
現存する建物は、文久三年(1863)十一代忠発の時に藩主の隠居所として建てられたもので、江戸屋敷から移築したものと伝えられる。
奥の屋敷では「能」を演ずることができるように、きれいな床板が張られ、
床下には音響をよくするために大きな甕が並び据えられていたといわれる。
玄関と奥の座敷が当時の建物の一部で、大名屋敷の広壮な面影を偲ぶことができる。
旧西田川郡役所 旧鶴岡警察署庁舎
菅家庭園
鶴岡市家中新町2-21
管理人メモ
民家(小原流いけばな教室)となっているので注意。入園の際には事前予約。開館時間:月、火、金の10:00〜16:00。入園無料。
光明寺
鶴岡市本町2-9-8 【地図】
管理人メモ
鶴岡公園の南方。庄内藩四番大隊隊長水野藤弥の墓がある。
子乾水野君之墓(水野藤弥)
萬福寺
鶴岡市陸町3 【地図】
管理人メモ
光明寺から南下。新徴組取締役で「戊辰庄内戦争録」を刊行した和田東蔵の墓がある。
和田東蔵墓
常念寺
鶴岡市睦町1-1 【地図】
管理人メモ
萬福寺の東側。戊辰戦死招魂碑戊辰之役官軍墳墓がある。
戊辰戦死招魂碑 戊辰之役官軍墳墓
大督寺
鶴岡市家中新町19 【地図】
管理人メモ
致道博物館南西、私立図書館の南。
庄内藩主酒井家の菩提寺。廟所は拝観不可。
庄内藩一番大隊隊長松平甚三郎、二番大隊隊長酒井吉之助(玄蕃)、吉之助の父酒井了明
庄内藩軍事掛(総帥)松平権十郎、権十郎の弟長沢惟和などの墓がある。
酒井家廟所 松平甚三郎之墓
涼月院酒井吉之助之墓 故荘内大夫酒井了恒君遺髪(玄蕃)
故荘内大夫酒井了明君墓
松平親懐之墓(権十郎) 正八位長澤惟和命
安国寺
鶴岡市新海町22-5 【地図】
管理人メモ
大督寺から北西すぐ。
北海道開拓大判官の松本十郎、酒井了明の兄で改革派の首領酒井右京の墓がある。
天保十年(1839)鶴岡市若葉町戸田家に生を受く。
戊辰戦役に参加のあと、故あって松本十郎と名を変え、戦後処理のため政府要人との折衝に当たる。
明治二年(1869)新政府に推挙されて、北海道開拓判官ついで大判官となり、
北海道開発初期の行政の基礎を築き、名判官と称された。
アイヌを愛し、アツシ(アイヌの着物)を着用して巡視に当たり、アツシ判官として道民にも深く慕われた。
明治九年アイヌ保護政策を主張したが入れられず、自ら官を辞し鶴岡に帰る。
帰鶴後は要職に推されても再び職につくことなく、ひたすら読書、農芸に親しみ大正五年(1916)七十八才をもって没した。
故正五位松本十郎君墓 宏徳酒井君墓(右京)
禅源寺
鶴岡市新海町23-21 【地図】
管理人メモ
安国寺から西すぐ。
酒井吉之助(玄蕃)の弟で書道家の黒崎研堂、松山藩一番隊隊長の松森胤保の墓がある。
研堂黒崎君之墓 松森胤保之墓
総穏寺
鶴岡市陽光町5 【地図】
管理人メモ
大督寺から南。郵便局脇の道から行ける。
二番大隊第三小隊長の服部正蔵、致道館助教で七連発銃の使い手宮坂顕蔵が葬られた。
正覚寺
鶴岡市山王町33 【地図】
管理人メモ
藤吉内科の南すぐ。大山庄太夫の墓がある。
庄内藩士大山庄輔(北李)の長男として文化五年(1808)江戸に生まれる。
才気に富み、先見の明と卓越した行動力で十代藩主酒井忠器の信任を集め、栄進、加増を重ねる。
やがて、江戸留守居役を十三年間にわたって務めた。
この間に起こった天保の国替え(長岡転封)事件では幕府の転封撤回に尽力し、庄内藩勝利の立役者となる。
その後も政治的手腕を発揮し、庄内に大山庄太夫ありとの名声を博するようになる。
幕末の国内外の情勢をいち早く見通し、徳川譜代大名の酒井家にあって、朝廷と幕府が協力して国難にあたるという「公武合体論」を唱える。
同志とその実現に奔走するが、藩を二分する政争に敗れ慶応二年(1866)十一月十四日、自宅拘禁中に自刃する。
死骸は塩漬けとなり、断罪を待って翌年刑場で腰折の刑に処される。享年五十九。墓所は本道の裏にある。
長円寺
鶴岡市昭和町7-52 【地図】
管理人メモ
正覚寺から内川を渡りすぐ。新発田藩士の墓がある。
高運寺
鶴岡市昭和町7-13 【地図】
管理人メモ
長円寺から東すぐ。庄内藩二番大隊軍監兼参謀の神戸善十郎の墓がある。(確認できず)
井岡寺
鶴岡市井岡 【地図】
管理人メモ
鶴岡高専から車ですぐ。カーナビには出なかったので注意。
庄内藩家老菅実秀、二番大隊第四小隊長竹内右膳、家老竹内八郎右衛門、致道館を創設した白井矢太郎の墓などがある。
荘内大夫菅先生之墓(実秀) 南山竹内君墓(右膳)
故太夫南樓竹内君墓(八郎右衛門)
専念寺
鶴岡市大山2-41-48 【地図】
管理人メモ
大山駅からでも遠いので車が無難。
桑名藩士八名の墓がある。
桑名藩家老吉村権左衛門を殺害した山脇隼太郎などが謹慎した寺。
専念寺 桑名藩主名義士の墓域
新徴組墓地
鶴岡市湯田川乙 【地図】
管理人メモ:貯水池の裏すぐ。
幕末混乱期の文久二年(1862)幕府は江戸市中取締りのため浪士を募り、
翌三年この浪士隊百五十名を新徴組と改名し、庄内藩に預け、その任に当らせた。
慶応四年(1868)三月、庄内藩の江戸引きあげに伴い、新徴組隊士とその家族も随行、
藩では湯田川の宿屋と民家三十七軒に仮分宿させた。
戊辰戦争において、新徴組は鳥海山を越え秋田領の矢島を攻め、また新潟県境の関川で戦う。
墓地には、湯田川在住中に没した隊士及びその家族二十名の墓がある。
新徴組御本部跡
鶴岡市湯田川乙
管理人メモ:隼人旅館前に碑がある。
庄内藩が江戸取締の際、文久三年(1863)その配下となった浪士組織、
新徴組の組士百三十六名とその家族三百十一名が慶応四年(1868)三月、庄内に移住してきたので、
藩では湯田川温泉の宿屋と民家三十七軒に分宿させ、二年ぐらいの間居住した。
この隼人旅館は組役所(本部)で、鶴岡城から係役人が出張して監督に当たっていた。
その後、明治三年(1870)藩では新徴組のために鶴岡城下大宝寺地内に百棟の住宅を建て新徴屋敷と称し一同を住居させることになった。
新徴組士は戊辰戦争に従軍して勇戦奮闘したり、また明治五年創業の旧藩士三千人による松ヶ岡開墾には六十五名が参加したが
次々と離脱して現在では組士の末裔三戸が残っている。
松ヶ岡開墾場
鶴岡市羽黒町松ヶ岡29 пF0235(62)3985 【地図】
管理人メモ
開館時間9:00〜16:30。一般450円、学生350円。毎週月曜休館日。
松ヶ岡記念館松ヶ岡本陣庄内農具館新徴屋敷などがある。
松ヶ岡開墾は明治五年旧庄内藩士三千人が一丸となり、徳義を本とし産業報告の至誠を天下に示そうとして創業、
明治七年まで、三百十一ヘクタールの桑園を造成。
明治十年まで、大蚕室十棟を建設して養蚕事業を開始。
鶴岡に明治二十年、製糸工業と、昭和十年、絹織物工場を創設した。
昭和五十八年、先人の偉業顕彰のため、現存蚕室の一棟に、松ヶ岡開墾の資料を展示し松ヶ岡開墾記念館とした。
松ヶ岡記念館 松ヶ丘本陣
庄内農具館 新徴屋敷
清河神社
立川町清川 пF0234(57)2104 【地図】
管理人メモ
開館時間9:00〜17:30。一般400円、学生300円。毎週月曜休館日。
清河神社、清河記念館、清河八郎像、清河八郎碑、御殿林などがある。
清河神社 清河記念館
清河八郎像 清河八郎碑
御殿林
幕末の志士、清河八郎の誕生の地として知られるここ清川には、荘内戊辰戦争清川口古戦場となった御殿林がある。
慶応四年(1868)総督府(奥羽鎮撫総督九条道孝)は、荘内追討を布令した。
副総督沢為量、参謀大山格之助ひきいる政府軍は、四月十四日岩沼を発し、笹谷峠ー山形ー天童ー尾花沢ー新庄ー本合海を経て、
二十四日未明土湯に上陸し、早朝清川腹巻岩を占拠した。
ただちに政府軍は、腹巻岩山上より清川村に対し、攻撃を開始した。
これに対し荘内軍は、かねてからこの事あるのを察知し、布陣しており松平甚三郎を総大将に、水野弥兵衛を士大将として、
御殿林を中心に、ただちに応戦した。
しかし、政府軍の急襲により苦戦となり、婦女子は狩川に避難したが、午後には援軍が到着し、奇襲戦法なども功を奏し、戦況は逆転した。
午後三時頃、荘内軍は腹巻岩の要地を奪還し、政府軍を撃退した。
激戦の結果、荘内軍戦死者十三名、負傷者十八名、政府軍戦死者十二名、負傷者五十名余といわれる。
歓喜寺
立川町清川
管理人メモ
清河神社から徒歩5分。
清河八郎の墓、清川口の戦いで守備に当たった平林甚五兵衛陣所碑戊辰之役荘内藩陣没者顕彰碑戊辰役英魂碑
天保飢饉義民十五名之慰霊碑などがある。
清秀院殿忠正明義居士(清河八郎) 平林甚五兵衛陣所碑
戊辰之役荘内藩陣没者顕彰碑 戊辰役英魂碑
天保飢饉義民十五名之慰霊碑
天保の飢饉の影響で、飢餓となった村を救うため、十六名の義賊が斉藤家(清河八郎実家)の預かり米を奪った。
それは藩米なので、斉藤家は義賊を捕らえられない場合、当主は打ち首、家族は獄門の処分となった。
しかし、当時四歳であった清河八郎が、偶然蔵にいて、義賊たちの声や体格を覚えており、十六名の義賊は捕らえられ、
十五名は鶴岡郊外で処刑され、村は飢餓となり、斉藤家は村人から恨まれることになった。
本間家旧本邸
酒田市二番町12-13 пF0234(22)3562
江戸時代中期以降、大地主として全国に知られていた本間家の邸宅である。
本家三代、光丘翁が庄内藩主のために幕府の巡見使宿舎として、明治五年(1768)建築し献上した。
その後、本間家の本宅として昭和二十年、春まで居住していた。
正玄関は、藩主、県知事、菩提寺の住職のみ使用し、一般には使用しなかった。
母屋桁行き三十三.六m、梁行十六.五m、平家建、書院造り、棧瓦葺で、旗本二千石の格式をもつ、長屋門構えの武家屋敷である。
三烈士墓碑
酒田市相生町2-4-20 【地図】
管理人メモ:妙法寺前の公園の中。幕末に関係あるらしいが、三烈士が誰なのか読み取れず。
光丘神社
酒田市日吉町 【地図】
管理人メモ
日本一の大豪商本間家三代光丘を祭った神社。神社裏手をちょっと進むと官軍墓地
また日和山公園内に、庄内に入った吉田松陰の碑もある。
神社や碑ともに公園内の散策が必要。
光丘神社 吉田松陰の碑
官軍墓地
明治維新の最後の戦いとなった庄内戊辰戦争は明治元年四月開戦、酒田町兵三百八十六名も出陣、
庄内軍は約六百名の戦傷死老者を出し、九月二十三日庄内藩の降伏で幕を閉じた。
まもなく庄内には約四万五千人の官軍が入り、四千が酒田に進駐した。
その内、雲州(島根県)、肥州(佐賀県)二千余人は酒田で越年し、翌二年八月に引き上げた。
約一年にわたる進留中、八名の病没者を出し、上日枝神社社司齋藤清澄の好意でこの地に墓をたてていたが、
引き上げに際し清澄の盛大な慰霊祭をおこなった。
南洲神社
酒田市飯森山2-304-10 【地図】
管理人メモ
大通り脇の細道にあるので、見逃し注意。
徳の交わり(菅実秀と西郷隆盛)の像、南洲翁遺訓の碑敬天愛人の碑などがある。
南洲神社 徳の交わり
南洲翁遺訓 敬天愛人


戻る