史跡・博物館 東京・墨田区
回向院 | |
墨田区両国 2-8-10 | |
管理人メモ:JR両国駅西口から南へ徒歩5分。 明治二年(一八六九)上総川津村(現千葉県勝浦市川津)の沖で沈没した肥後の軍艦の溺死者供養のため 富岡文吉らが建立した溺死四十七人墓や天狗党事件で処刑された榊原新左衛門らの義士墓がある。 |
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溺死四十七人墓 | 義士墓 |
勝海舟生誕の地 | |
管理人メモ:両国公園内に勝海舟生誕之地碑がある。 | |
勝海舟は、文政六年(一八二三)一月三十日、本所亀沢町の父小吉の実家である男谷家に生まれました。 幼名は麟太郎と言います。 幕臣とは言っても下級武士だったため、苦しい生活を強いられました。 それでも少年時代は剣を島田虎之助に学び、向島の弘福寺に参禅するという日々を送る一方、 蘭学者永井青崖について蘭学や兵学について学びました。 その後、弘化三年(一八四六)に赤坂に転居するまでは本所入江町(緑四丁目二十四番)で暮らしていました。 嘉永六年(一八五三)幕府に提出した開国後の方針を述べた意見書が採用され、世に出ました。 万延元年(一八六〇)には、日米修好通商条約批准のため軍艦咸臨丸艦長として太平洋を横断、アメリカとの間を往復しました。 慶応四年(一八六八)三月、徳川幕府倒壊後の処理を一身に担い、新政府側の中心人物である西郷隆盛と会見し、 その結果、江戸城無血開城を果たして江戸の町を戦禍から救いました。 海舟は、成立間もない明治政府の土台作りにも手を貸し、参議兼海軍卿、枢密顧問官などを歴任し、伯爵となりました。 明治三十二年一月十九日、七十七歳で病没しましたが、養子相続手続きの関係で秘され、 二十一日に死去が報じられたために、官報や大田区洗足池畔の墓石にも二十一日と刻まれています。 |
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江川太郎左衛門英龍終焉之地 | |
管理人メモ 緑町公園西向かい道端に江川太郎左衛門英龍終焉之地碑がある。 |
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江川太郎左衛門は、享和元年(一八〇一)伊豆韮山に生まれ、やがて父の後を継いで伊豆の代官となりました。 主な業績は、韮山に大反射炉の築き、品川台場の築造や砲台を築いて海防に備えたこと等があります。 幕政多難の折、幕政に大きく貢献し、代官としても農民たちのために善政を行いました。 |
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能勢妙見堂 | |
墨田区本所4-6 | |
管理人メモ 紅葉橋西すぐ。 勝海舟が九歳の時、犬に睾丸を噛まれ、父小吉が能勢妙見堂で水を被り回復を祈ったとされる。 勝海舟胸像がある。 |
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能勢妙見堂 | 勝海舟胸像 |
妙緑寺 | |
墨田区吾妻橋2-2-10 | |
管理人メモ 吾妻橋交番前交差点すぐ。 本堂右側の細道に薩摩藩江戸屋敷老女小野嶋の墓がある。 |
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小野嶋之墓 | |
勝海舟銅像 | |
管理人メモ:墨田区役所の広場前。 | |
勝海舟銅像 | 近影 |
藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑 | |
管理人メモ 墨田公園道沿い。墨田公園は水戸藩下屋敷跡。 |
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江戸末期の尊王攘夷論者として知られた水戸藩士藤田彪(東湖)の 「和文天祥正氣歌(ぶんてんしょうのしょうきのうたにわす)」が刻まれた漢詩碑です。 弘化二年(一八四五)十一月、藤田東湖はこの地にあった小梅の水戸徳川下屋敷に幽閉されているときに次の詩を作りました。 「天地正大の気、悴然として神州に錘まる。秀でては富士の獄となり、巍々として千秋に聳ゆ(下略)」と、 五言七十四句の中に天地自然の美しさと日本古来の国体を賛美した内容で、通称「正気の歌」の名で有名です。 中国宋時代の忠臣文天祥も敵に捕まり、故国を賛美した「正気之歌」を作詩したことから、同じ境遇の東湖は同名の漢詩を作りました。 東湖は、文化三年(一八〇六)水戸に生まれ、彰考館編修として攘夷論を水戸学としてまとめあげました。 また、徳川斉昭の腹心として藩政改革に活躍したことでも知られています。 安政二年(一八五五)の大地震のときに、五十歳で不運な死を遂げましたが、この漢詩は水戸の尊攘派のバイブルとなり、 さらには幕末の志士たちに大きな影響を与え、明治維新の原動力になったといわれています。 |
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長命寺 | |
墨田区向島5-4-4 | |
管理人メモ:成島柳北の碑がある。 | |
成島柳北は幕末明治の随筆家であり、実業家です。 天保八年(一八三七)江戸に生まれ、十八歳のとき、家職を継いで侍講に進み、将軍家茂のために経書を講じました。 慶応元年以降、次第に重んぜられ外国奉行となり、会計副総裁に進み、幕政に加わりました。 幕府崩壊ともに職を退き向島の地に暮らしました。 同五年東本願寺の法主に従い訪欧、翌年に帰朝後、公文通誌が朝野新聞と改題され、 紙勢を拡張する機会に社長として迎えられ、雑録欄を担当して時事を風刺し、大いに読者を喜ばせました。 また、外遊の折、修得した生命保険制度の知識を生かし、日本の生命保険制度の草分けである「共済五百名社」の創立に協力。 明治十七年(一八八四)十一月三十日、四十八歳で没しました。 |
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白髭神社 | |
墨田区東向島3-5-2 | |
管理人メモ:岩瀬忠震の墓碑がある。 | |
江戸時代末期の外交家。文政元年(一八一八)江戸に生まれました。 名は忠震(ただなり)で、鴎所(おうしょ)の号は隅田川の辺に住んだことに由来します。 幕府の徒頭設楽貞夫の弟三子で天保十一年(一八四〇)旗本岩瀬忠正の養子になりました。 嘉永二年(一八四九)老中阿部正弘から目付に抜擢されました。 鴎所は昌平坂学問所で漢学を学ぶにとどまらず蘭学も学び、当時、外国の事情認識においては鴎所が一番といわれました。 幕府の鎖国政策を非難したほか、砲台を築き軍艦を造り、講武所と蕃所調所を設け海軍伝習を始めるのにも参画しました。 後に将軍徳川家定の継嗣選定の問題で、新任の大老井伊直弼と対立したため、安政六年八月に官位を奪われ、蟄居を命ぜられました。 その後向島に隠居し、もっぱら読書文芸にふける悠々自適の生活を送りましたが、文久元年(一八六一)七月十六日、四十四歳で歿しました。 |
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榎本武揚銅像 | |
管理人メモ:鐘ヶ淵陸橋南すぐ。都営住宅の前に榎本武揚銅像がある。 | |
榎本武揚銅像 | 近影 |
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