史跡・博物館 京都
伊東甲子太郎外数名殉難の地 | |
下京区油小路木津屋橋上ル | |
管理人メモ 京都駅下車5分。電車で来た人が最初に向かう地かも。 京都駅前の塩川通りを左に進み、堀川通り手前の油小路通りを右。ちょっと狭い通りなので見逃さないように。 本光寺前に碑がある。住職がいたら様々な話をしてくれるので、訪ねてみるのもいいかも。 |
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伊東甲子太郎は常陸(茨城県)の出身で学問もでき、剣は北辰一刀流の名手であった。 元治元年(一八六四)に門弟ら七人を率いて新撰組に入隊し、参謀として重視された。 しかし、尊王派であった伊東は、次第に隊長近藤勇と相反するようになり、 慶応三年(一八六七)三月に同士十五人とともに新撰組を脱退して御陵衛士となり、高台寺月真院を屯所とした。 その後、薩摩藩の援助を受け、盛んに倒幕をを説いた。 しかし、新撰組との対立は深く、同年十一月近藤勇らは、伊東を招いて酒をふるまい酔った伊東をその帰路、この地で刺殺した。 この知らせを聞いた伊東一派は、直ちに駆け付けたが、待ち伏せしていた新撰組数十名の隊士に襲われ三名が斬られた。 世にこれを油小路七条の変という。 |
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島原大門 | |
上京区西新屋敷揚屋町 | |
管理人メモ:京都駅下車10分。西本願寺横の島原口を西に進む。 | |
島原は、江戸時代以来、公許の花街(歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展してきた。 寛永十八年(一六四一)官命によって、島原の前身である六条三筋町から現在の朱雀野の地に移された。 その移転騒動が、九州で起きた島原の乱を思わせたところから、一般に「島原」と呼ばれてきたが、正式地名は「西新屋敷」という。 この島原は、単に遊宴を事とするにとどまらず和歌、俳諧等の文芸も盛んで、ことに江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈した。 しかし、明治以降の島原は次第にさびれてゆき、現在では揚屋(今の料亭にあたる店)の「角屋」、 置屋(太夫や芸妓を派遣する店)の「輪違屋」、それに島原入口の「大門」、これら三箇所がわずかに往時の名残をとどめるものとなっている。 |
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角屋 | |
上京区西新屋敷揚屋町 | |
管理人メモ:久坂玄瑞の密議の角屋の碑がある。島原大門を入り直進。 | |
島原には、揚屋と置屋があり、揚屋は太夫、芸妓などを一切かかえず、置屋から太夫等を呼んで宴会を催す場である。 この角屋は島原開基以来連綿と家督を維持守成してきた揚屋である。 角屋の建物は、揚屋建築唯一の遺構として昭和二十七年国の重要文化財に指定された。 また、絵などは応挙、蕪村など、当時一流の画人の作品で、特に蕪村の「紅白梅国」の大作は重要文化財に指定されている。 江戸中期の島原には俳壇が形成されており、中でも角屋の六代目、七代目の当主は蕪村、太柢らを師として俳壇の中核として活躍していた。 幕末には西郷隆盛、久坂玄瑞などの勤皇志士たちが、軍用金調達のため時の豪商を角屋へ招いて会談を行ったところであり、 また彼等を探し求めた新撰組が乱舞した場所でもあった。 このように角屋は江戸時代の社交遊宴文化の場であった揚屋文化の余香を今に伝える。 |
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久坂玄瑞の密議の角屋の碑 | 角屋 |
壬生寺 | |
中京区壬生郷椰ノ宮町 | |
管理人メモ:市バス四条防城下車5分。角屋から北に徒歩で15分くらい。四条通りへ出てしまった方が、案内板もあるからいいだろう。 | |
新選組は文久三年(一八六三)に、この壬生の地において結成された。 現在もその屯所跡が、壬生寺正門の防城通りに残っている。 かつて壬生寺境内は、新選組隊士の兵法調練場に使われ、武芸や大砲の調練が行われていた。 また、新選組にまつわる逸話も、当時には数多く残っている。 |
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壬生寺 | 壬生寺門 |
壬生塚 | |
壬生寺内 | |
管理人メモ:有料(百円) | |
壬生塚に祀られている隊士 近藤勇 局長 没年 慶応四年(一八六八)四月二十五日 芹沢鴨 局長 没年 文久三年(一八六三)九月十八日 平山五郎 副長助勤 没年 文久三年(一八六三)九月十八日 河合耆三郎 勘定方 没年 慶応二年(一八六六)二月十二日 阿比原栄三郎 副長助勤 没年 文久三年(一八六三)四月六日 田中伊織 没年 文久三年(一八六三)九月十三日 野口健司 副長助勤 没年 文久三年(一八六三)十二月二十八日 奥沢栄助 伍長 没年 元治元年(一八六四)六月五日 安藤早太郎 副長助勤 没年 元治元年(一八六四)七月二十二日 新田革左右衛門 平隊士 没年 元治元年(一八六四)七月二十二日 葛山武八郎 伍長 没年 元治元年(一八六四)九月六日 |
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芹沢鴨之墓 平山五郎之墓 | 河合耆三郎之墓 |
野口健司他之墓 | 近藤勇胸像 |
新徳寺 | |
中京区防城通り綾小路下ル | |
管理人メモ:壬生寺正面にある。 | |
浪士組宿所。清川八郎が浪士組一同を集め、上京の目的は攘夷の先鋒であると告げた。 | |
新徳寺門 | 新徳寺 |
八木邸 | |
中京区防城通り綾小路角 | |
管理人メモ:壬生寺から徒歩1分。すぐ分かるだろう。 | |
八木家は、壬生村きっての旧家で、かつて壬生郷士の長老をつとめていた。 また、幕末には新撰組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり、旧壬生屯所として知られている。 建物は、長屋門が束に開き、その奥に主屋が南面して建つ、当家に残る普請願から長屋門は文化元年(一八〇四) 主屋は文化六年の造営と知られる。 主屋は、西端に土間を奥まで通し、土間に沿って居室を三室ずつ二列に配する。 入口は土間部分に開くほか、東南隅に式台を備えた本玄関を配し、その北に仏間、奥座敷を一列に並べて格式ある構成をとっている。 長屋門の概観は、腰に下見坂を張り、与力窓や出格子窓を開くなど、昔のおもかげをよく残している。 文久三年(一八六三)春、将軍家茂の上洛警護のため、清川八郎率いる浪士組が入洛したが、 その宿舎の一つとして使われたのが、当時壬生郷の郷士宅であった当屋敷であった。 浪士組は、在京二十日余りで再び江戸に戻ったが、当所に分宿していた、芹沢鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三らは、 引き続き京都の警備のため残留し、京都守護職松平容保の支配に属して「新選組」と名のった。 当初、新選組は、当屋敷に「新選組宿所」の標札を掲げ、隊員はわずか十数名で発足したが、次第に隊員が増加し、付近の農家にも分宿した。 以後、市中の治安維持に努め、元治元年(一八六四)の池田屋事件で一躍その名を轟かせた。 翌年の慶応元年(一八六四)四月、屯所は西本願寺に移された。 |
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八木邸門 | 八木邸 |
前川邸 | |
中京区防城通り綾小路下ル | |
管理人メモ:八木邸正面。 | |
浪士組入洛時には幕府役人が泊まった。その後、新撰組の屯所となった。 山南敬助、野口健司などがここで割腹している。 |
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光緑寺 | |
中京区四条大宮西入北側 | |
管理人メモ 四条大宮交差点を南に行き、1つ目の通りを右。非常に分かりにくい場所にある。 有料(百円)。墓所には山南敬介、松原忠治、沖田家(総司ではないだろう)縁者などの墓がある。 |
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山南敬介藤原知信墓 | |
松原忠治他の墓 | 沖田家縁者の墓 |
二条城 | |
中京区二条城通堀川西入ル | |
管理人メモ 電車、バスなどで二条城前下車すぐ。壬生寺からなら約1キロ。徒歩でも大丈夫だろう。 二条城東にある京都国際ホテル前には橋本左内寓居址や福井藩邸跡もある。 |
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慶長七年(一六〇二)、徳川家康の命により、奉行板倉勝重が差配、市中の多数の労役者の力によって着工され、翌三年に完成した。 京都の守護と上洛の際の宿所がその目的で、二条新御所などと呼ばれ、はじめは小規模のものであった。 家康が征夷大将軍の拝賀および二代秀忠の将軍宣下は、この二条城で行われた。 その後も、造営は続けられ、伏見城の遺構をここに移し、寛永三年(一六二六)三代将軍家光が、ここに後水尾天皇を迎えた頃、 その規模はもっと拡大され、五層の天守閣もそなえていた。 しかし、寛延三年(一七五〇)雷火のため天守閣を焼失、また天明八年(一七八八)には市中の大火にあい、本丸殿舎、櫓の多くを焼失した。 文久三年(一八六三)十四代将軍家茂が入城、攘夷の実行を誓い、 また慶応三年(一八六七)には十五代将軍慶喜が、この城中で大政奉還を決意し、上表の使者を出している。 明治四年、二の丸内に京都府庁が設置され、明治十七年宮内省に属し、二条離宮と改称、 明治二十六、七年には、本丸御殿跡に京都御所にあった桂宮御殿が移築され、本丸御殿と呼称されてる。 |
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二条城門前 | 本丸御殿 |
京都所司代上屋敷跡 | |
中京区丸太町猪熊通下ル | |
管理人メモ:二条城の北に位置する。徒歩5分。二条城の敷地からみて、ちょうど真ん中辺りの道。 | |
北は丸太町通り、南は竹屋町通りに京都所司代上屋敷があった。 京都所司代の名称、役職は室町幕府の侍所にはじまり徳川幕府にうけつがれた。 徳川時代の所司代は関ヶ原合戦の直後設けられ、皇室、公家の監視、京都諸役人の統率、 京都町方の取り締まり(町方はのち京都奉行がおこなった)さらに近畿八か国の訴訟処理、 西国三十三か国の大名の動静監視など強い権限をもつもので幕府の老中につぐ最高要役職であった。 初代奥平氏のあと二代、三代は板倉勝重、重宗父子が任じられ、とくに重宗は名所司代のほまれ高く、京都市政の根本法規を制定した。 文久二年(一八六二)京都守護職が設けられると所司代はその管轄下に属し、王政復古によって廃止された。 |
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木屋町通り | |
管理人メモ 三条駅下車5分。木屋町通り全域。 御池通り北側に兵部大村益次郎公遣址 あとは京都ホテルから木屋町通りを南下した順番に記載。 桂小五郎像(京都ホテル西側)。 加賀藩邸跡。 佐久間象山寓居之跡。 武市瑞山先生寓居之跡。 佐久間象山先生遭難之碑 大村益次郎卿遭難之碑。 池田屋騒動之址(三条通りを西)。 坂本竜馬寓居之跡・酢屋(木屋町通り西、京劇会館前)。 彦根藩邸跡。 土佐藩邸跡 本間精一郎遭難之地。 1つの通りだが、これだけ探すのに3往復はした。 他にも桂小五郎・幾松寓居之跡(木屋町通り二条下ル)や、吉村寅太郎寓居之址(木屋町通り三条上ル)がある。 繁華街で、人はもちろん自転車、車、看板などなど障害物がありすぎて簡単には見つからないだろう。 早朝、できれば昼前には回っておきたい。 |
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兵部大村益次郎公遣址 | 桂小五郎像 |
加賀藩邸跡 | 佐久間象山寓居之跡 |
武市瑞山先生寓居之跡 | 佐久間象山先生遭難之碑 大村益次郎卿遭難之碑 |
池田屋騒動之址 | 坂本竜馬寓居之跡(酢屋) |
彦根藩邸跡 | 土佐藩邸跡 |
本間精一郎遭難之地 | |
河原町通り | |
中京区河原町通り蛸薬師下ル | |
管理人メモ 坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋跡)、中岡慎太郎寓居之地がある。 四条駅下車5分。木屋町通りの西。 近江屋跡から通りの反対側を南に行った場所に中岡慎太郎寓居之地がある。 この近くに古高俊太郎寓居之跡もある。 |
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徳川慶喜大政奉還劇の大作者坂本龍馬は京都市内では河原町三条下る伐木商酢屋喜兵衛方に下宿していたが 遭難十日前に醤油商近江屋新助方を宿とした。 龍馬はもっとも幕府側から狙われていた大物で新選組、見廻組の追求が急になり藩邸の堀内慶助らが気をきかせて 近江屋を選んだのが仇になった。 慶応三年(一八六七)十一月十五日午後六時ごろ中岡慎太郎が訪ねてきた。 二十三時間後に刺客に襲われ額を横に斬られ二の太刀は右の肩から左背骨にかけ、三の太刀で更に前額部を裂かれ 悲痛な一言を残して倒れた。 中岡もその時に刺客に斬られ十七日の夕に息をひきとった。 |
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坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋跡) | 中岡慎太郎寓居之地 |
梅田雲浜邸址 | |
中京区烏丸通り押小路下ル | |
管理人メモ:二条城と河原町の中間辺り。近場に史跡はほとんど無いので、時間がある時に行きたい。 | |
高台寺月真院 | |
東山区河原町五二六 | |
管理人メモ 御陵衛士屯所跡の碑がある。月真院自体は現在非公開。 高台寺を下りた場所。四、五条駅の中間を東へ1キロほど。徒歩でも行けないことはないが、他の交通機関を使ったほうが無難。 向かい側には山岡鉄太郎が宿所とした圓徳院があり、南に行くと西郷隆盛と僧月照が密議をこらした春光院がある。 |
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慶応三年(一八六七)六月から十一月にかけて熱烈な勤皇主義者で孝明天皇の御陵衛士伊東甲子太郎ら十五名が屯所とした所である。 伊東は常陸(茨城県)の出身で学問もでき剣は北辰一刀流の名手であった。 新撰組に入り、その参謀となったが、隊長近藤勇との意見があわず 慶応三年三月、新撰組と別れ、同志十四名をつれて御陵衛士に任命され月真院を屯所とした。 それからは薩摩藩の援助を受け各藩を廻って盛んに勤皇を説いた。 しかし、新撰組との対立は深く慶応三年十一月十八日、伊東は新撰組に謀殺され、さらに同志三名を斬られて御陵衛士の活動は終わった。 |
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霊山 | |
東山区清閑寺霊山町 | |
管理人メモ 高台寺から上り5分。主な墓を記載しておく。 | |
明治元年五月、明治天皇の御沙汰書に基づく太政官布告により、近代日本の礎となった維新の先駆者千四百柱の霊が祀られた。 しかし、戦後は心をかける人もなく、荒れるがままの状態だった。 これを憂いた故松下幸之助氏(当時松下電器産業会長)の発唱で明治百年の昭和四十三年に霊山顕彰会が創設され 霊域を整備、復旧するとともに、新たに約千八百柱を合祀し現在三千二百柱が霊山祭神として祀られた。 |
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坂本龍馬・中岡慎太郎之墓 | 坂本龍馬・中岡慎太郎の像 |
内閣顧問勲一等贈正二位木戸孝允之墓 | 贈正二位木戸孝允妻岡部氏松子墓 |
吉村寅太郎之墓 | 様々な維新先駆者之墓 |
霊山歴史館 | |
東山区清閑寺霊山町一(075-531-3773) | |
管理人メモ 高台寺から上り5分。霊山の麓。 | |
昭和四十五年秋に維新先覚者たちの資料などを展示する場として、霊山歴史館が開館した。 近代日本史を切り拓いた先人たちの進取の精神を学ぶ、我が国唯一の総合資料館として、動乱の幕末、維新史を紹介している。 |
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翠紅館跡 | |
東山区高台寺 | |
管理人メモ:霊山歴史館を下り5分。非公開。 | |
幕末の頃、西本願寺の別邸で翠紅館と呼ばれる屋敷があり、たびたび志士たちの会合の場所となっていた。 文久三年(一八六三)正月二十七日には、土佐藩武市半平太、長州藩井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、 ついでに同年六月十七日にも長州藩桂小五郎、久留米藩真木和泉守らが集まった。 この数年前から攘夷運動は次第に高まり、藩幕府の政治勢力となりつつあったが、これら各藩志士代表者の会議で 攘夷の具体的な方法が検討された。 世にこれを翠紅館会議という。 同年八月十三日には、孝明天皇の大和行幸の詔書が出されて攘夷運動は頂点に達した。 しかし、八月十八日に政変が起こって攘夷派は失脚、代わって公武合体派が主導権を握り、幕末の政局は混迷の度を加えていった。 |
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円山公園 | |
東山区高台寺下河原町 | |
管理人メモ 高台寺月真院より北に10分。 幕末の頃には茶席が多く、その一つの料亭左阿彌で新選組近藤勇などが豪遊した。 公園の南東部に坂本龍馬・中岡慎太郎像がある。 円山公園から東に行くと水戸徳川関連で原市之進、頼三樹三郎などの墓所がある長楽寺があり、 西に行き八坂神社を抜けると、池田屋騒動の際、土方歳三が隊士を率いて集まったり、 沖田総司が喀血して引き上げた祇園会所跡がある。 |
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京都御苑 | |
上京区京都御苑三 | |
管理人メモ 丸田町、今出川駅下車5分。広大な土地なので自転車で回るのがお勧め。 明治維新まで歴代天皇の皇所。御所内に入るには許可証が必要。許可証の交付は最低でも1日かかる。 元治元年(一八六四)に長州藩と会津藩・薩摩藩との間で激戦が行われた蛤御門(御苑西中央)や 文久三年(一八六三)五月、攘夷派の急先鋒であった姉小路公知が暗殺された猿ヶ辻(御所北東)がある。 |
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京都御所 | |
蛤御門 | 猿ヶ辻 |
大久保利通旧邸 | |
上京区石薬師通中筋西入ル | |
管理人メモ:京都御苑の石薬師御門を出て直進。ちょっとした裏通りなので見逃しやすい。 | |
横井小楠殉節地 | |
上京区寺町通り丸太町下ル | |
管理人メモ 京都御苑のちょうど南東の通り。 この通りを南に行くと間部詮勝寓居之跡(寺町通り二条下ル)や南東に行くと木戸孝允邸址(土手町通り竹屋町上ル東)がある。 |
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京都守護職屋敷跡 | |
上京区下立売通り新町西入ル | |
管理人メモ 京都御苑の西、京都府庁正面右寄りに京都守護職屋敷跡の碑がある。 左京区岡崎西天王町には、京都守護職屋敷の正門が残っている。 |
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相国寺 | |
上京区今出川通烏丸東入ル | |
管理人メモ 京都御苑の北、5分。同志社大学一帯。今出川御門から出れば分かるだろう。 坂本龍馬、中岡慎太郎が長州の武器斡旋の為、西郷隆盛を訪ねた場所。 薩摩京屋敷の二本松邸門、相国寺内北西に長藩士戦亡霊塔、相国寺出て東側に薩藩戦死者墓がある。 |
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薩摩二本松邸門 | |
長藩士戦亡霊塔 | 甲子役 戊辰役 薩藩戦死者墓 |
宝鏡寺 | |
上京区寺の内通り堀川東入ル | |
管理人メモ 相国寺より西へ10分。堀川通りに出た方が分かりやすいだろう。通称、人形寺。 百々御所と呼ばれ代々皇女の入る尼寺。和宮が幼い頃、この寺で教育を受けたとされ遺品がある。 |
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宝鏡寺門 | 宝鏡寺 |
金戒光明寺 | |
左京区黒谷町一二一 | |
管理人メモ 市バス岡崎神社下車5分。バスかタクシーが無難。 文久二年(一八六二)会津藩主松平容保が金戒光明寺の庫裡を宿陣とした。会津本陣。 塔頭西雲院東側に会津藩殉難者墓地がある。 |
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光明寺門 | 光明寺 |
会津藩殉難者墓地 | 会津藩殉難者墓地内部 |
岩倉具視隠棲地 | |
左京区岩倉上蔵町 | |
管理人メモ 岩倉駅から北に約1キロ。実相院前にある。 文久二年(一八六二)岩倉具視が尊攘派の糾弾により隠棲した旧宅。志士の遺品などが残っている。 |
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天竜寺 | |
右京区嵯峨天竜寺芝ノ馬場町 | |
管理人メモ 嵐山駅下車すぐ。禁門の変の折り、長州藩兵の結集所になった。塔頭松巌寺には坂本龍馬の銅像がある。 |
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御香宮 | |
伏見区桃山御香宮門前町 | |
管理人メモ 伏見桃山駅下車10分。 鳥羽伏見の戦いで薩長は御香宮から伏見奉行所に砲台を撃ち込んだ。新選組なども多数の死者が出ている。 境内に戊辰戦争の碑がある。 御香宮から南へ5分、団地の一角に伏見奉行所跡がある。 |
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寺田屋 | |
伏見区南浜町 | |
管理人メモ 中島書駅下車5分。有料(300円)。宿泊も出来る。 寺田屋騒動の旅館。船宿の面影をとどめており、二階は当時のまま。坂本龍馬が襲われた部屋も残っている。 東側に有栖川宮熾仁親王直筆の薩摩九烈士遺蹟表と川田剛撰文の殉難碑があり、正四位坂本龍馬忠魂碑もある。 |
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法伝寺 | |
伏見区下鳥羽三町 | |
管理人メモ 淀駅下車10分。 鳥羽街道に面し、戊辰戦争では激戦が繰り広げられた。 会津藩使用の短銃、太刀、砲弾などが残されており、寺門の脇に戊辰東軍戦死之碑がある。 |
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宝積寺 | |
乙郡大山崎町 | |
管理人メモ 山崎駅下車10分。 通称宝寺。元治元年(一八六四)七月、真木和泉らは天王山に立てこもり、新選組、見廻組、薩摩藩兵の攻撃を受け自刃した。 寺右奥から天王山へ上る途中に、真木和泉ら十七烈士の墓がある。 |
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