史跡・博物館 熊本
熊本城 | |
熊本市本丸 | |
管理人メモ:熊本城前下車すぐ。敷地内に谷干城の像がある。 | |
天正十六年(一五八八)、肥後半国の領主として熊本に本拠を置いた加藤清正によって築かれた。 築城は慶長六年(一六〇一)に始まり、同十二年(一六〇七)に完成されたといわれる。 城郭は周囲9Km(築城当時)、広さ約98万平方メートルで、その中に天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構え。 なかでも「武者返し」と呼ばれる美しい曲線を描く石垣は有名。また自然の地形を巧みに利用した独特の築城技術がみられる。 この城は以後、加藤家二代、細川家十一代の居城となった。 明治十年(一八七七)の西南の役に際しては、薩軍を相手に五十日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮した。 しかし薩軍総攻撃の二日前、原因不明の出火により天守閣など主要な建物を焼失。 現在の天守閣は昭和三十五年(一九六〇)、熊本市によって再建されたもの。 |
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熊本城 | 谷干城像 |
神風連首領太田黒伴雄奮戦之跡 | |
管理人メモ:熊本城敷地を出て西側すぐ。 | |
西南戦争籠城将校家族非難跡 | |
管理人メモ:熊本城から北西に徒歩5分。 | |
西南戦争の際、熊本城に籠城した鎮台側の将校の妻子が、弾丸の飛来を避けるため、この空堀の中に天幕を張って避難した。 時は二月、寒気の厳しい中で司令長官谷少将の夫人久万子を中心に負傷者の手当や慰問に努め、将校の信望を集めた。 |
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横井小楠と群像の像 | |
高橋公園内 | |
管理人メモ:熊本城の東。バス市役所前下車すぐ。坂本竜馬、勝海舟、横井小楠、松平春獄、細川護久の像がある。 | |
四時軒 | |
熊本市沼山津一ー二十五ー九 | |
管理人メモ:健軍終点下車、東へ15分。分かりづらいのでタクシーのが無難。横井小楠記念館併設。 | |
幕末維新の開明思想家としてしられた横井小楠の旧居。 安政元年(一八五四)兄時明がなくなったため家督を継いだ小楠は翌年、城下からこの沼山津の地に移りすみ、 四季の眺めを楽しめるというところから「四時軒」と名づけ、自らも沼山と号した。 小楠は、明治元年(一八六八)新政府の参与となって京都に向かうまで、ここで門下生の指導に当たった。 その間に四度も福井藩に賓師として招請されたが、坂本竜馬らも彼の名声を聞いて四時軒を訪れている。 |
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花岡山 | |
熊本市春日町 | |
管理人メモ:山上に安岡県令の墓や官軍墓地がある。 | |
林桜園終焉の地 | |
熊本市 | |
管理人メモ:旧、飽託郡天明町。林桜園終焉の地の標柱がある。 | |
桜山神社 | |
熊本市黒髪五ー七 | |
管理人メモ:境内に林桜園の墓、神風連列墓などがある。 | |
神風連五士自刃之処 | |
熊本市谷尾崎 | |
管理人メモ:神風連五士自刃之処標柱がある。 | |
五士とは兼松群喜(24)、繁彦(19)の兄弟、小篠清四郎(22)、源三(18)の兄弟、高田健次郎(19)である。 五人は金峰山麓にひそんで情勢を見ていたが、再挙の望みがないことを知りここに出て、それぞれの辞世の和歌を残して死んでいった。 |
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神風連五士自刃の跡 | |
熊本市柿原 | |
管理人メモ:神風連五士自刃の跡標柱とその墓がある。 | |
五士とは樹下一雄(25)、井村波平(35)、楢崎楯雄(26)、織田寿治(20)、椋梨武毎(26)である。 | |
神風連自刃の跡 | |
熊本市松尾町平山 | |
管理人メモ:高台に神風連自刃の跡標柱がある。 | |
植野常備(36)、松井正幹(42)、古田孫市(26)の三人が自刃し、介錯をしたのが吉村義節。 | |
神風連六烈士自刃之跡 | |
宇土郡三角町 | |
管理人メモ:大岳の山頂に神風連六烈士自刃之跡の碑がある。 | |
六士とは加々見重部(40)、古田十郎(28)、田代儀太郎(26)、森下照義(24)、田代儀五郎(23)、坂本重孝(21)である。 一旦、郡浦神社の同志甲斐武雄を訪ねたが、再挙の望みがないことを知り、十月二十九日この山頂に登って自刃した。 |
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妙連寺 | |
菊池市立町 | |
管理人メモ:吉村義節の碑がある。 | |
西南之役戦跡 |
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阿蘇郡阿蘇町 | |
管理人メモ:阿蘇外輪の二重峠に西南之役戦跡の碑がある。 | |
明治十年二月二十六日、薩軍は大津から豊後街道の二重峠に進出。四月二十一日の撤退まで阿蘇地方に影響を与えた。 三月十八日、政府軍警視隊は猛攻撃を加えたが、峠の上部に布陣する薩軍が有利で、警視隊に多くの死傷者が出た。 |
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明神池 | |
阿蘇郡白水村 | |
管理人メモ:白川駅下車10分。 | |
白水村のほぼ中央に位置する湧水池で広さ752uの池のいたるところから清水が吹きだしている。 約5.070uもある湖だったのが、昭和二十八年の大水害のために、現在の形になっており、 水害以前は水を蕩々とため、絶景の地となっていた。 この湧水地には群塚神社という産神をまつった神社があり、ここの水は「誕生水」として飲むと安産に効果ありとされている。 これにまつわる話として、昔、吉田城があり、城主に子がなく、この水源で身を清め、境内にある誕生石に願いをかけた所、子宝に恵まれた。 しかし、産後の肥立ちが思わしくなく乳が足りず、日に日に痩せ細る子供たちに困り果てた奥方は、 境内にあるいちょうの木に乳房のように下がっている気根を撫でたその日から病気も回復し、乳の出もよくなり、 それ以来現在も尚、婦人の参拝する信仰が残っている。 また、日本最後の内戦、明治十年西南の役で、会津藩家老佐川官兵衛は長門屋敷にて南郷有志隊と薩軍に対する作戦会議を行い、 この水源で身を清め、群塚神社に必勝を祈願された事実が残っている。 |
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鬼官兵衛記念館 | |
管理人メモ:明神池の隣り。官兵衛愛用の徳利や刀、当時の生活用具など約四百点を陳列してある。 | |
西南役佐川官兵衛足跡碑 | |
阿蘇郡白水村 | |
管理人メモ:白水駅と明神池の中間にある。隣りには南郷有志隊留魂碑もある。 | |
西南役佐川官兵衛足跡碑 | 南郷有志隊留魂碑 |
西南の役戦跡公園 |
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阿蘇郡長陽村 | |
管理人メモ:西南戦争の戦死者之碑や慰霊碑など六基の石碑が並んでいる。 | |
西南戦争当時、二重峠に抜ける交通の要衝だった場所。 明治十年三月十八日、二重峠の頂上付近に布陣する薩軍と黒川口や峠の麓から攻め上がる政府軍警視隊が衝突。 戦闘は数時間に及んだが、警視隊側に多数の死者が出て、警視隊一番小隊隊長佐川官兵衛が戦死した。 |
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佐川官兵衛討死之地 | |
阿蘇郡長陽村 | |
管理人メモ:黒川口を望む高台にある。佐川官兵衛討死之地碑と向かい合って自然石の佐川官兵衛隊碑がある。 | |
西南役慰霊碑 | |
阿蘇郡一の宮町北坂梨 | |
管理人メモ:滝室坂を登りつめた左の丘の上。坂の上台場跡の西南役慰霊碑がある。 | |
警視隊は滝室坂の戦いに備え、根子岳と高岳を望む東外輪のこの地に陣地を築いた。 檜垣直枝が率いる警視隊を中心に坂梨有士隊、内牧有志隊、南郷有志隊からなる政府軍は、 明治十年四月十三日、鎌田雄一郎率いる薩軍第二大隊五番小隊と戦闘を繰り広げた。 慰霊碑には両軍の戦死者名が記されている。 |
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西南の役砲台跡 | |
阿蘇郡一の宮町北坂梨 | |
管理人メモ:国道57号と参勤交代道の合流点。西南の役砲台跡の標柱がある。 | |
田原坂 | |
鹿本郡植木町 | |
管理人メモ 現在は公園になっている。 敷地内には田原坂資料館、弾痕の家、薩摩塚、美少年像、西南の役戦役者慰霊之碑、 戦没者名簿、田原坂崇烈碑などがある。 |
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「雨は降る降る、じんばは濡れる、越すに越されぬ、田原坂、 右手に血刀、左手に手綱、馬上ゆたかな、美少年」民謡で全国に知られる田原坂。 明治十年、国内最後の内乱「西南の役」での最大激戦が、この一見平凡に見える長い坂の攻防をめぐって繰り広げられました。 熊本鎮台のおかれた熊本城から植木町「田原坂」までの約十五キロメートルは台地で続き「田原坂」はその北端にあります。 戦国の名将加藤清正はこの道を意図的に深く掘り込んだうえに、曲がりくねった凹道とし城北防衛の要地としていました。 当時、大砲や軍事物資を載せた馬車の通る広い道はこの道しかなく、田原坂の強行突破を計る官軍は、 左右の高い土手や正面の雑木林から姿の見えない薩軍に銃撃され、 退却しようとすると前後に回り込んだ薩摩兵に切り込み攻撃を受けこの坂を抜くことはできず、 何の変哲もないわずか一.五キロメートルのこの坂を巡って、三月四日から十七昼夜にわたる激しい攻防戦が展開されたのです。 三月二十日、現在、薩軍墓地がある柿木台場が陥落したことにより、田原坂道方面を守る薩軍が背後からの攻撃を受け敗走するに至り、 最後まで、官軍は田原坂本道を抜くことはできなかったのです。 |
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田原坂 | 弾痕の家 |
薩摩塚 | 美少年像 |
西南の役戦役者慰霊之碑 | 戦没者名簿 |
田原坂崇烈碑 | |
薩軍美少年の墓 | |
鹿本郡植木町 | |
管理人メモ:バス荻迫下車。 | |
民謡「田原坂」に唄われた美少年モデルの一人、束野孝之丞の墓。その戦歿碑等があり、 君ハ日州庄内ノ人、西南没僅年十五才ニシテ薩軍ニ投ジ奮戦此地ニ没ス、 時ニ明治十五年二月二八日義軍遂ニ敗レシモ君カ英霊ハ永ク此地ニ眠ラン と刻まれている。 |
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植木学校記念碑 | |
鹿本郡植木町 | |
管理人メモ:植木小学校校庭正門近くに植木学校記念碑がある。また近くに植木学校跡の碑もある。 | |
明治八年四月、正院手永会所跡に開校した植木学校の記念碑で城下・城北の若者が自由民権運動を唱え起こした学校である。 ルソーの「民約論」を教典とし、ミルの「自由之理」や「万国広報」「万国史」等の西欧の先進的な学問を学んだ。 また各地で演説会や戸長征伐を指導、鹿児島私学校と気脈を通じ放課後には撃剣の練習や死傷者の運搬の練習もしたという。 当時の文明的中学は日本において慶応義塾とこの植木学校のみであった。 また天下の志士植木学校を訪ぬと記録にある。 進歩主義により反明治政府の立場をとり西南戦争では「熊本協同隊」を結成して薩軍に加わり、 山鹿をはじめ各地に転戦,隊長以下幹部を選挙で選び、士族以外の隊員も入隊できた特異な部隊であった。 |
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薩軍弾薬庫跡 | |
鹿本郡植木町 | |
管理人メモ:現在の植木交番が西寺。 | |
薩軍の植木での拠点となっていた真数寺と西寺。薩軍弾薬庫はこの西寺にあった。 三月二十日、田原坂で敗退した薩軍は植木へと退却、それを追う官軍とのあいだで激しい戦闘が繰り広げられる。 このような状況の中、突如として大音響を立てて火薬庫が爆発、西寺を吹き飛ばした。その大爆発の理由は未だに不明となっている。 |
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乃木大将記念碑 | |
鹿本郡植木町千本桜 | |
明治十年二月二十二日、乃木少佐率いる歩兵第十四連隊は向坂で薩軍と遭遇。 この地に二月二十二日、午後十時、植木から退却した乃木少佐は、点呼のあと十四連隊旗と河原林少尉の不明を知り 自決を図ったといわれる。 |
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