史跡・博物館 高知
坂本龍馬先生誕生地 | |
管理人メモ JR高知駅南口の土佐電鉄(土電)乗車、はりまや橋で「鏡川橋、いの方面行き」乗り換え、「枡形」下車。 標識あり。 |
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日根野道場跡地 | |
管理人メモ:坂本龍馬誕生之地から上町一丁目交差点を南、堤防上の道に「日根野道場跡地碑」がある。 | |
日根野弁治が築屋敷に開いた道場。 郷士の門下生が多く、龍馬もここで十四歳から十九歳まで修行し「小栗流和兵法事目録」を受けた。 |
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河田小龍塾跡 | |
管理人メモ:日根野道場跡地から西へすぐ。水天宮付近に「河田小龍塾」があった。 | |
近藤長次郎邸跡 | |
管理人メモ:(通りを渡らずに)水天宮から北へすぐ。 | |
才谷屋跡 | |
管理人メモ 近藤長次郎邸跡から北へ、上町二丁目を西すぐ。喫茶店「さいたにや」辺りが「才谷屋跡」。 |
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坂本龍馬の本家である才谷屋は、坂本家四代(当時は大浜姓)八兵衛守之が 寛文六年(一六六六)に長岡郡殖田郷才谷村(現、南国市)より高知城下本丁筋三丁目(現、上町三丁目)に移住し 妻佐耶と二人で借家で質屋を始め、屋号は出身地の名より才谷屋とした。 後に酒造業、諸物品売買にも手を広げ、才谷屋の基礎を作った。 二代正禎は本丁筋年寄役を命ぜられ、三代直益の頃に才谷屋は、城下屈指の豪商となり、次男直清に才谷屋を継がせ、 長男直海を明和七年(一七七〇)に本丁筋一丁目(現、上町一丁目)に郷士株を取得し分家させ、郷士坂本家の祖とした。 郷士坂本家はその後、八蔵直澄、八平直足(養子)、権平直方と続き、 坂本龍馬直柔は天保六年(一八三五)十一月十五日権平直方の弟して誕生した。 |
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弘瀬健太邸跡 | |
管理人メモ さいたにやから西へ、上町五丁目の高知銀行脇を北、高知いちょう病院裏の細道に「勤王家弘瀬健太邸跡碑」がある。 |
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永福寺 | |
管理人メモ 高知いちょう病院裏の道を西へすぐ。 |
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文久元年(一八六一)に起きた井口事件の寺。 井口村永福寺前で、泥酔した上士の山田広衛が、郷士の中平忠次郎と宇賀喜久馬の身体と接触し、無礼打ちにした。 急報で駆けつけた中平忠次郎の兄、池田寅之進は山田広衛だけではなく、一緒にいた益永繁齋も斬殺。 その後、池田寅之進と宇賀喜久馬は切腹を命ぜられた。 |
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坂本家墓所 | |
管理人メモ 永福寺から北西へすぐ。駐車場あり。(駐車場から北の細道を下る) |
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この丹中山周辺には、坂本家墓所の他に下記の墓等が散在している。 だが、すべて見つけるのは難しいだろう。 ・岡上新甫の墓(乙女の夫) ・赦太郎・菊栄の墓(乙女の子) ・田口文良の墓(戊辰戦争従軍医師) ・平井収二郎の墓 ・徳弘孝蔵の墓(砲術家) ・植木枝盛誕生地(自由民権運動家) ・池田忠兵衛、陽三郎の墓(戊辰戦争参戦) ・浪越千磯の墓(勤王志士) ・石山孫六の墓(剣術家) ・藤田栄馬、琴の墓 ・廣井磐之助の墓(日本最後の仇討ちで龍馬が援助) ・弘瀬健太招魂の墓 ・池内蔵太先祖の墓 ・小畑孫三郎の墓(勤王志士) ・佐井寅次郎の墓(勤王志士) ・山川良水の墓(大目付) ・才谷屋歴代墓所 |
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坂本家墓所 | 平井収二郎墓 |
廣井磐之助墓 | |
平井収二郎、加尾誕生地 | |
管理人メモ 坂本家墓所より西へ、土讃線踏み切りの上に「平井収二郎先生誕生之地碑」がある。 |
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山田町獄舎 | |
管理人メモ:高知駅前から西へ。安楽寺の隣の薫的神社内に「山田町獄舎跡」がある。 | |
山田町にあった獄舎の一部が、薫的神社内に移転された。 平井収二郎、間崎滄浪、弘瀬健太が切腹した獄舎。 |
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武市半平太邸跡 | |
管理人メモ:はりまや橋交差点を東へ、菜園場交差点を北に行くとある横堀公園内に「武市半平太邸跡碑」がある。 | |
土佐勤王党首領である武市半平太(瑞山)は、嘉永三年(一八五〇)に長岡郡吹井村(現、高知市)から 祖母と妻の冨と共に城下の新町田淵に移り住み、安政二年(一八五五)に間口六間、奥行四間の道場を建てた。 午前は妻の叔父である島村寿之助が槍術を、午後は半平太が剣術を教えた。 この道場には百二十人ほどの門人がいたが、中岡慎太郎、岡田以蔵、久松喜代馬、五十嵐文吉ら勤王運動に 参加した者も多く、坂本龍馬もよく来ていたと言われる。 この石碑は通りの北側に設置されていたものだが、実際に邸と道場のあった場所は、ここから約三十メートル東の 道路北側付近と推定される。 |
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河田小龍誕生地 | |
管理人メモ:はりまや橋バス停の東すぐに「河田小龍誕生地碑」がある。 | |
板垣退助先生誕生之地 | |
管理人メモ はりまや橋交差点を西、大橋通交差点から南の天神橋通りに入り、 二本目の道を東すぐの高野寺前に「板垣退助先生誕生之地碑」がある。 |
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後藤象二郎先生誕生之地 | |
管理人メモ 板垣退助誕生地から天神橋通りを南、土佐教会の前に「後藤象二郎先生誕生之地碑」がある。 |
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旧山内家下屋敷長屋跡 | |
管理人メモ 後藤象二郎誕生地から南、天神大橋を渡らずに西に行き、三翠園温泉の突き当たりを北。 鷹匠公園入り口に「山内容堂公邸跡碑」、その前が「旧山内家下屋敷長屋跡」となる。 |
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この長屋は元治元年(一八六四)山内容堂が家臣七人の屋敷地を召し上げて 下屋敷(散田邸)を設けた際に、同時に建てられたと推定される。 幕末の風情を感じさせる建物で、本格的な武家屋敷としては全国的に数少なく、 昭和五十四年二月三日に国の重要文化財に指定された。 |
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旧山内家下屋敷長屋跡 | 山内容堂公邸跡 |
福岡孝弟先生誕生之地 | |
管理人メモ 旧山内家下屋敷長屋跡から北西へ、グランド通り交差点を北すぐに「福岡孝弟先生誕生之地碑」がある。 |
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高知城 | |
管理人メモ 福岡孝弟誕生地から北東へ、高知県庁の東に「高知城」がある。 敷地内には「板垣退助銅像」もある。 |
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高知城 | 高知城近影 |
板垣退助銅像 | 板垣退助銅像近影 |
武市瑞山先生殉節之地 | |
管理人メモ:高知城の東、四国銀行の角に「武市瑞山先生殉節之地碑」がある。 | |
吉田東洋先生記念之地 | |
管理人メモ:武市瑞山殉節之地から東へ、帯屋町交差点北すぐに「吉田東洋先生記念之地碑」がある。 | |
本名正秋。通称元吉。十五代藩主山内豊信(容堂)に信任され、安政改革を推進し、文武館を建設。 「海南政典」を編纂したが、公武合体策を堅持したため、武市瑞山率いる土佐勤王党の刺客により 文久二年四月八日この地で暗殺された。 |
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桂浜 | |
管理人メモ 高知駅から南へ、車で三十分ほど。 「坂本龍馬銅像」、「大町桂月記念碑」、「高浜虚子の句碑」、「吉井勇の歌碑」、「高知県立坂本龍馬記念館」等がある。 |
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坂本龍馬銅像 | 坂本龍馬銅像近影 |
高知県立坂本龍馬記念館 | |
管理人メモ 500円。9:00〜17:00まで。年中無休。 長宗我部元親の浦戸城跡で、山内一豊も高知城に移るまで住んだ。 |
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武市半平太旧宅 | |
管理人メモ JR高知駅南口の土佐電鉄(土電)乗車し、はりまや橋で下車。 はりやま橋バス停から「前浜方面行き」のバスに乗り、「瑞山神社前」バス停で下車。 車なら瑞山神社でナビ。 「武市半平太旧宅」、「瑞山神社」、「武市瑞山小楯之墓」、「武市冨之墓」がある。 |
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旧宅は元藁葺き式平屋建ての典型的な郷士住宅で、間数は六室、客室は八畳で 柱に瑞山が文字を記した痕が認められる。 旧宅の右手には瑞山神社が建てられており、境内に 「花依清香愛 人以仁義栄 幽囚何可恥 只有赤心明」という彼の遺詠を記した記念碑がある。 (花は清香に依って愛せられ、人は仁義を以って栄ゆ。幽囚何ぞ恥づべき、只赤心の明かなるあり。) 墓地は神社右手の小丘にある。 |
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武市半平太旧宅 | 瑞山神社 |
武市半平太小楯之墓、武市冨之墓 | |
岩崎弥太郎生家跡 | |
管理人メモ 安芸市。車が無難。岩崎弥太郎生家跡でナビ。 無料。8:00〜17:00まで。年中無休。駐車場あり。 「岩崎弥太郎生家跡」、「三菱紋の土蔵」、「岩崎弥太郎誕生之地碑」がある。 |
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岩崎弥太郎生家跡 | 岩崎弥太郎誕生之地碑 |
岩崎弥太郎銅像 | |
管理人メモ 車が無難。江ノ川上公園でナビ。駐車場あり。 江ノ川上公園内に「岩崎弥太郎銅像」がある。 |
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中岡慎太郎生家跡 | |
管理人メモ 北川村。車が無難。中岡慎太郎館でナビ。 500円。9:00〜16:30まで。火曜日休館。駐車場あり。 |
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中岡慎太郎生家跡 | 中岡慎太郎館 |
中岡慎太郎銅像 | 中岡慎太郎顕彰碑 |
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