史跡・博物館 岩手




先人記念館
管理人メモ
JR盛岡駅から南へ徒歩15分。杜の大橋を渡りすぐ。
明治以降に活躍した盛岡ゆかりの先人130人を紹介。
300円。9:00〜17:00まで。月曜日休館。駐車場あり。
盛岡城跡
管理人メモ:JR盛岡駅から東へ徒歩15分。
盛岡城は三戸から不来方に居城の移した南部信直が、慶長二年(一五九七)に嫡子利直を総奉行として築城を始めたと伝えられ、
翌慶長三年(一五九八)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められた。
城の縄張りは豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものといわれ、北上川と中津川の合流点に突き出した
丘陵に本丸、二の丸、腰曲輪などを配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪としている。
さらに、内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸地域を平坦にして堀で囲み、南部一族や藩の重臣たちの
屋敷を配置して外曲輪とした。
また、外曲輪の中津川対岸の城下を堀で囲み、武士や町人たちの屋敷街である遠曲輪が配置された。
築城工事は、北上川や中津川の洪水に見舞われながらも続けられ、築城開始から三十六年後の寛永十年(一六三三)に
南部重直が入城して以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となった。
盛岡城は、廃藩置県の後、明治五年(一八七二)に陸軍省所管となり、明治七年(一八七四)には
内曲輪の建物の大半が取り壊され、城内は荒廃したが、明治三十九年(一九〇六)に近代公園の先駆者である
長岡安平の設計により岩手公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれている。
平成十八年には開園百周年を記念し「盛岡城跡公園」と愛称をつけた。
盛岡城石垣 本丸跡、南部利祥銅像(台座のみ)
石割桜
管理人メモ:岩手県庁前。楢山佐渡の屋敷がこの辺りにあった。
報恩寺
管理人メモ
盛岡城跡から、北へ徒歩15分。
楢山佐渡が切腹した寺。
報恩寺山門 報恩寺
聖壽禅寺
管理人メモ
報恩寺から北西へ。車が無難。
南部家菩提所楢山佐渡の墓等がある。
楢山佐渡は名を隆吉、はじめは五左衛門と称した。
家は南部氏の分流で、盛岡藩士の名門、高知(一二七〇石)であった。
佐渡は十五歳で藩主に近侍し、二十三歳で国老の執政に累進、困難な内外情勢に対処し、稀有な人傑として敬慕されていた。
佐渡は一藩代表で上京、御所の守衛を勤めたが、維新政争の際、東征軍出動の挙に反対し、帰国して薩長勢抑制運動に参加し、
佐竹領秋田に進撃したが、奥羽北越同盟軍の敗退と共に敗れた。
それにより南部氏は陸奥十ヶ郡(和賀、稗貫、紫波、岩手、閉伊、九戸、三戸、北二戸、鹿角)等二十万石の領地を没収され、
佐渡は戦犯罪として、翌明治二年六月二十三日、報恩寺で処刑された。
時に三十九歳。家名断絶となった。
明治二十二年四月、楢山佐渡家の家名再興が許されて、墓碑も建てられるに至った。
楢山佐渡之碑 盛岡藩士卒戊辰戦死之碑
楢山佐渡墓 正三位南部利剛墓


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