史跡・博物館 福島




小峰城
白河市郭内
小峰城は白河城とも呼ばれ南北朝時代の興国元年(一三四〇)頃、結城親朝によって築かれたのがはじまりである。
現在にその姿をとどめる近在城郭は、寛永四年(一六二七)白河藩主となった丹羽長重が数ヵ年かけて小峰ヶ丘に本丸を築き、
南東に二ノ丸、三ノ丸を配置した梯郭式平山城として大改修したものである。
小峰城は奥州の関門として七家二十一代にわたり、その役割を果たしてきたが、慶応四年(一八六八)の戊辰戦争により落城して、
その大半を消失した。
酒井元之丞戦死之跡
白河市白坂
五月二十六日、白坂天王山の戦いにおいて、大垣藩銃隊長・酒井元之丞重寛は、自軍の先頭に立ち兵を指揮していたが
持っていた軍旗が、東軍の銃撃目標となり胸部に銃弾を受け陣没した。
この碑には妹のかづが詠んだ
進み出て 績を尽くしたこの神の いまは偲びて たつる石ふみ
の歌が刻まれている。
墓地は白坂観音寺にあり、大垣藩三名が合葬されている。
戊辰戦役旧大垣藩士酒井元之丞戦死之跡
戊辰の役古戦場
白河市松並
白河市九番町西端の松並は、南に水田が開け、北には稲荷山があった。
その小丘を慶応四年(一八六八)奥羽諸藩鎮定のために、薩長大垣等の西軍が大挙して三方から攻めた。
東軍の会津、仙台、棚倉の兵は、白河城の南西の山に陣し、これを迎え撃った。
この地は白河口の激戦地で、閏四月二十五日、会津兵は一旦西軍を退けたが、五月一日、再び来襲したので、
西郷頼母、横山主税等が稲荷山に陣し、迎え撃ったが、激戦数十合、弾尽き、刀折れ、戦死者数知れず、
遂に敗退のやむなきに至り、小峰城は遂に落城、城郭は焼失した。
戦後両軍は、各々戦死者の碑を建て、霊を慰めた。
この白河街道の左曲する南側に、長州藩三名、大垣藩三名の墓、北側に会津藩戦死者の墓と会津藩主松平容保の題字の銷魂碑がある。
会津銷魂碑
白河市松並
管理人メモ
横山主税は二十一歳の会津藩副総裁で、慶応三年、パリ万国博にも藩の留学生として随行した英才。
海老名衛門は軍事奉行で、仙台藩参謀坂本大炊、軍監姉歯武之進など、東軍の主だった指揮官がここで倒れた。
この地内は戊辰の役、白河口の戦いの中でも最大の激戦地であった。
この碑には会津藩江戸家老横山主税、海老名衛門、平石辨蔵等、三百四名の戦没藩士の名が刻まれている。
毎年六月第一日曜日には慰霊祭が行われている。
会津銷魂碑 会津戦死墓
田辺軍次君之墓
白河市松並
管理人メモ:会津銷魂碑そば
会津藩士田辺軍次(副総裁横山主税近習)は、戊辰の役、白河口の戦いで、東軍が敗れたのは
白河県から白坂町取締りを任命された大平八郎が、西軍の道案内をしたためであると信じ、
この遺恨を晴らすため、斗南藩から約一ヶ月を要して白坂に着いた。
白坂宿鶴屋にて、八郎を斬殺し、自らもその場で屠腹して果てた。
八郎の養子直之助は義父の仇である軍次の墓を建て、白坂観音寺に葬った。
のち会津会により、この地に改葬された。操刃容儀居士。享年二十一歳。
長州、大垣藩六人の墓
白河市松並
この墓には、慶応四年閏四月二十五日の白河口の戦いで戦死した長州、大垣藩将兵六名が葬られている。
大正四年まで薩摩藩七名の戦死者も葬られていた。
明治九年六月に明治天皇が、同四十一年九月には東宮喜仁親王が立ち寄り供養された。
棚倉藩鎮英碑
白河市南湖鏡山
管理人メモ:近くに戊辰殉難士之碑もある。
この碑は、戊辰の役による棚倉藩戦死者の霊を祀るため、明治十七年に平田文左衛門なる人物が敬義会を組織して建立したものである。
大正三年六月には旧藩士と白河の有志が白河鎮英魂保存会を作り、今日に至るまで秋の彼岸に慰霊祭を行っている。
大龍寺
白河市西郷村羽太
管理人メモ
森要蔵は千葉周作門下の四天王の一人で、会津藩と同族の飯野藩に召抱えられたことから、
次男の虎尾(十六歳)など門弟二十八人を率いて会津に向かったが、この地で銃弾に倒れた。
慶応四年七月一日、この地において合戦となり、
保科旧臣、北進一刀流千葉周作高弟、森要蔵ほか会津藩士多数戦死、ここに埋葬した。
森要蔵之墓
仙台藩士戊辰戦没之碑
白河市女石
この地は女石といい、昔は会津街道(国道二九四号)と仙台街道(国道四号)の分岐点であったが、
東軍の最前線基地として激戦が展開された。
この碑は、白河口の戦いで戦死した坂本大炊など仙台藩士百五十余名の慰霊碑であり、
傍らに明治二年、地元有志によって建立された「戦死供養塔」がある。
これは五月一日から七月十七日まで市内田町、向寺、根田、大谷地、金勝寺、飯沢、長坂等においての戦死者を埋葬したものである。
慰霊碑
管理人メモ:白河市には、上記のものを含み、東軍・西軍合わせて約千人を祀る慰霊碑がある。
小田川・薬師堂 戊辰戦死供養塔
向寺・聯芳寺 福島藩十四人碑
郭内・鎮護神山 戊辰薩藩戦死者墓
搦目 戊辰戦死之碑
本町・長寿院 慶応戊辰殉国者墳墓、白河役陣亡諸士碑
本町・永蔵寺 戦死供養塔
寺小路 戊辰役戦死之碑
大工町・皇徳寺 戦死人供養・弘前藩菊池央五郎之墓
愛宕町・関川寺 棚倉藩小池理八供養、仙台藩石川大之進之墓
八竜神 戊辰役戦死之碑
円明寺 二本松藩士慶応戊辰戦死之碑
向新蔵・常宣寺 棚倉藩阿部内膳之墓、会津藩戊辰戦死十二士之墓
巡り矢・万持寺 芸藩士加藤善三郎之墓
米山越 仙台藩斎藤善治右衛門戦死供養
小田川・宝積院 仙台藩佐々木廣之助之墓
女石 志げ之墓
田島・清光寺 宇都宮藩増淵勝蔵之墓
西郷村高助・斑宗寺 二本松藩大河原弥太郎之墓、斎藤孫吉之墓
表西村金山・正金寺 仙台藩西田林平佑英之墓、館林藩梅沢長次郎直貫之墓
矢吹町・大福寺 会津藩十人之墓、仙台藩水沢藩十七人之墓、
福島藩二人之墓、仙台藩五人之墓
矢吹町・幸福寺 仙台藩士本内幸三良直久之墓
矢吹町・澄江寺 剱邦政信士之墓
仙台藩松山隊勇戦地之碑
新地町
戊辰の役に際し、仙台藩松山隊は、初め仙台湾の警備に当たり、塩釜、松島、石巻で艦船の出入りを監視していた。
七月初旬になると、磐城方面応援のために二小隊が派遣され、八月には松山隊全軍が相馬口に出勤を命ぜられた。
八月十六日、二十日の二度にわたり仙台藩南端の要衝、駒ヶ嶺城の奪回を図ったが、成らずに九月、藩は戦を止めた。
この地は、八月二十日最後の激戦が行われ多くの戦没者を出した場所である。
駒ヶ嶺城(臥牛城)
新地町
この城は、相馬盛胤が、伊達氏への対抗を強化するため、新地のつなぎとして、永禄年間(一五五八〜一五六九)に築いたものである。
城の構造としては、南西から北東に楕円形となっており、本丸を中心に二ノ館、三ノ館、西館の四連部からなり
西から北西にかけて二重堀をまわしている。
内堀は各館を囲み、これを土橋でつないでいる。
二ノ館、本丸入口及び、西館との中間、西館南端の四ヶ所に虎口がある。
城代は藤崎摂津で、その子の治部の代の天正十七年(一五八九)に伊達政宗に攻め落とされた。
政宗はここを国境の城として重視し、亘理美濃をはじめ、黒木中務、伊達忠宗、桜田玄蓄、新田下総、冨塚長門などの重臣を城代とし、
享保三年(一七一八)から宮内主税が城代となった。
慶応四年(一八六八)八月十一日、戊辰戦争で官軍の攻撃により炎上し、その歴史を閉じた。
三春城跡
三春市
管理人メモ
三春藩は列藩同盟に加盟したが、上層部は当初から勤皇派で、棚倉藩落城後の七月二十六日に西軍へ寝返った。
その一方で、二本松藩や福島藩に四人の使者を派遣し、東軍を装った。
その使者は、帰国途中の二十七日に二本松の町民に倒された。
城跡そばに、その四人を慰霊する三春藩烈士之碑がある。
永正元年(一五〇四)田村義顕が築城したと伝えられ、以後田村氏、松下氏等の居城となる。
正保二年(一六四五)秋田俊季が五万五千石で入城し、明治維新を迎えた。
近世の城は、本丸、二ノ丸、三ノ丸を中心に形成され、本丸には表門、裏門、三階櫓などの建造物が置かれていた。
藩主は現三春小学校の場所に屋敷を構え、そこで政治を行った。
明治初年廃城となり、建造物、石垣のほとんどを失ったが遺構の保存状態は良く、
また県内で、中世から近世にかけて同じ場所に城が築かれた例も少ないため、貴重な史跡といえる。
霞ヶ城(二本松城)
二本松市郭内3
三春藩の裏切りで孤立した二本松藩は、主力を白河口に派遣していたため、農兵を含めて約五百人しか守備隊がいなかった。
しかし、家老・丹羽一学、郡代・丹羽新十郎などが「敗戦は必定だが、武士道、列藩同盟の信義のために」と主張し、徹底抗戦を決めた。
管理人メモ
城門前に二本松少年隊群像や、本丸途中に二本松藩士自刃之の地碑、山頂に二本松少年隊顕彰碑がある。
三浦権太夫之墓
管理人メモ:安達ヶ橋そば。
藩の重役に諫言して牢に入れられたが、すね毛を抜いて箸に髪の毛でくくり付けた筆を作り、獄中から藩政改革を訴える上書を提出した。
勤皇の士で、西軍の銃声を聞くと、配下の農兵五十人を解放し、敵意のないことを知らせるため、鏃の付いていない矢を放ち、自刃した。
木村銃太郎戦死之地
二本松市大壇
管理人メモ
JAストアのわき。
そばに、薩摩軍に二人で斬り込んだ、青山助之丞と山岡栄治を称える二勇士の碑がある。
大隣寺
管理人メモ:二本松観光センター隊士館の前。
二階堂衛守、岡山篤次郎の戦死之地碑二本松少年隊墓所がある。
二階堂副隊長と少年隊士岡山篤次郎は、木村隊長の首を運ぶ途中、大隣寺門前で銃撃された。
世良修三霊神碑
福島市宮町稲荷神社
管理人メモ:稲荷神社の境内の一角にある。境内からは入れない裏手にあるので注意。


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