史跡・博物館 秋田
千秋公園 | |
管理人メモ JR秋田駅から西へ、徒歩10分。 御隅櫓:100円。9:00〜16:30まで。冬季休館。 佐竹資料館:100円。9:00〜16:30まで。年末年始休館。 |
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この公園は、秋田二十万石佐竹氏の居城、久保田城の城跡である。 久保田城は、慶長七年(一六〇二)常陸から国替となった初代秋田藩主佐竹義宣が翌八年に築城したもので、 天守閣と石垣のない城であった。 明治二十三年(一八九〇)城跡を秋田市が佐竹氏から借り受けて公園としたが、明治二十九年(一八九六)秋田県に移管され、 造園家長岡安平の設計により整備された。 昭和二十八年(一九五三)再び秋田市に移管、継続的に整備、管理されてきたが、昭和五十九年(一九八四)に、 十五代佐竹義榮氏の遺志により秋田市に寄贈されて、市民の公園となった。 千秋公園の命名者は、秋田県出身の漢学者狩野良知で、「秋千」の由来は、秋田の秋に長久の意の千を冠し、 長い繁栄を祈ったものと言われている。 |
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久保田城御隅櫓 | 久保田城表門 |
秋田藩最後の十二代藩主佐竹義堯公を敬慕する旧家臣団が中心となり、戊辰の役後五十年にあたる 大正四年(一九一五)公の銅像をここに建立した。 銅像は太平洋戦争の最中、国の金属回収策のため、その姿を消した。 市民の有志はこれを惜しみ、昭和二十八年(一九五三)旧銅像の原型として残されていた小型像を泰安して往時を偲んでいた。 市制百周年(一九八九)に、その記念事業として銅像を復元した。 |
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佐竹義堯銅像 | 佐竹義堯銅像近影 |
佐竹資料館 | |
全良寺 | |
管理人メモ:秋田市八橋本町6-5-30。車が無難。 | |
明治元年(一八六八)の戊辰戦争における秋田藩と援軍の薩摩、肥前、筑前、新庄など計十六藩の新政府側の 戦死者を葬っており、当時内務省が定額の修繕費を支出して管理していた官修墓地である。 全良寺十一世大内海山和尚が墓石の建立を発願し、石工辻源之助の協力を得て、両者ともに多額の私財を費やして、 明治二十八年(一八九五)に完成したものである。 当初は五百二十三基を建立したが、後に遺族がそれぞれの故郷に改葬したので、現在は三百二十三基が弔われている。 この墓地内に眠る戦死者は、十五歳から六十三歳におよび、多くの犠牲を払った明治維新を偲ばせている。 |
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官修墓地 | 薩藩戦死者墓 |
西来院 | |
管理人メモ:秋田市寺内神屋敷11−6。車が無難。仙台藩殉難碑がある。 | |
仙台藩殉難碑 | |
天徳寺 | |
管理人メモ:秋田県秋田市泉三嶽根10-1。車が無難。16:00に閉門してしまうので注意。 | |
天徳寺は、秋田藩主佐竹氏の菩提寺で、境内には代々の墓と御霊屋がある。 佐竹義人が、夫人をを弔うために常陸に創建したもので、佐竹氏の転封によって久保田に移し、当初は楢山に建てられた。 寛永元年(一六二四)の焼失に伴い、翌二年に現在の地へ移された。 延宝四年(一六七六)に再び火災にあったが、総門、山門、御霊屋は残った。 総門は、寛永元年の火災で残ったものを移築したもので、境内で最も古い建築物であり、山門とともに平成七〜十年に復元整備を行っている。 |
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天徳寺総門 | 天徳寺山門 |
秋田市内の史跡 | |
秋田市には上記の史跡の他に、下記の史跡がある。(管理人未確認) | |
平田篤胤先生誕生之地碑 | 秋田市土手谷地公園 |
平田篤胤大人終焉之地碑 | 秋田市南通亀の町 |
平田篤胤之墓 | 秋田大学の裏手 |
雷風義塾址碑 | 秋田市南通 |
秋田藩砲術所跡 | 秋田市中通6 |
神明社 | |
管理人メモ JR角館駅から南西へ、徒歩20分。浜田謹吾銅像、戊辰日露戦役記念碑がある。 |
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戊辰戦争時、奥羽二十七藩は団結して佐幕をとなえ、勤皇の秋田藩は、その総攻撃を受けた。 九州諸藩から援兵が派遣されたが、秋田南部は既に陥落、分藩角館が防衛の最前線となっていた。 この戦いに、大村藩の援兵三百余名が角館に到り、激戦二十日余にして死守したが、戦死者も多かった。 大村藩少年鼓手、十五歳の浜田謹吾もその一人だった。 遺体の着衣の襟元には、母チカの一首があった。 ふた葉より 手くれ水くれ待つ花は 君がためにそ 咲けよこのとき 子を思い励ます門出の歌にこもる切なる母の心情に、万人涙したと伝えられる。 |
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大村藩少年鼓手 浜田謹吾銅像 | 浜田謹吾銅像近影 |
戊辰日露戦役記念碑 | |
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