史跡・博物館 会津
鶴ヶ城 | |
追手町1−1 (пF27−4005) | |
管理人メモ 大人400円、子供150円。8:30〜17:00まで。年中無休。 |
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南北朝の頃、芦名氏によって黒川城が築かれたが、文禄元年(一五九二)蒲生氏郷が七層の天守閣を建て外郭を築き、 黒川の地名を若松と改め、城の名を鶴ヶ城と命名した。 上杉から再蒲生、そして加藤となり寛永十六年(一六三九)加藤明成が天守閣を五層にして 北出丸、西出丸を増築して現在の城跡を完成させている。 戊辰の役には一ヶ月の籠城に堪えた。 |
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鶴ヶ城跡 | |
管理人メモ 鶴ヶ城北の北出丸大通りに甲賀町口門跡、北東の千石通り、御薬園そばに天寧寺町土塁などがある。 |
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この石垣は、郭外より若松城の郭内に入る門の石垣で、ここを界として内側を侍の屋敷とし、外側を町民の住居としていた。 郭内と郭外の間には土塁が築かれ、外濠がめぐらされていた様子が今もしのばれる。 当時、城下にはこのような門が十六ヶ所あり、特に、この甲賀町口は大手門として他の郭門より厳重な構えをとったとされている。 |
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甲賀町口門跡 | |
西郷邸跡 | |
管理人メモ:鶴ヶ城北口すぐ。 | |
戊辰の役は数多くの悲劇を生んだ。 戦役が悪化し、西軍が城下に殺到して籠城を知らせる早鐘鳴ると、家老の西郷頼母は急遽、城に入った。 妻千恵子は、夫を送り出した後、家を清め、はやこれまでと三女田鶴丸(九才)、四女常盤子(四才)、五女季子(二才)を刺し、 一族二十一人それぞれ辞世の歌を詠み自刃した。 なお、一族二十一人の墓は、鶴ヶ城南東、門田町北青木の善竜寺にあって毎年五月、その霊を弔う「なよ竹祭」がしめやかに行われている。 |
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会津戊辰戦争終結の地 | |
管理人メモ:会津酒造歴史館脇。西郷邸北すぐ。 | |
明治元年(一八六八)九月二十二日午前十時、一ヶ月の籠城戦に耐えた鶴ヶ城に、遂に降伏の旗が掲げられ、会津戊辰戦争は終結しました。 この日の正午、錦旗を擁した西軍の軍監、中村半次郎等を迎え、会津降伏式が行われました。 式はここ甲賀町通りの路上で行われたのです。 式場には、畳表に緑布を付けた物を敷き、そのうえに十五尺四方(約四.五M)の緋毛氈が敷かれました。 その上で、松平容保、喜徳公父子によって降伏の調印がなされました。 それは天皇家に忠誠を尽くした会津が、逆賊の汚名を着せられての敗戦でした。 終了後、会津藩士たちはこの日の無念を忘れぬために、その場に敷かれた緋毛氈を小片に切り刻み、 おのおの懐中深く持ち帰ったといわれています。 後にその毛氈は「泣血氈」と呼ばれ、会津人の心の奥深く刻み込まれる事となりました。 「明日よりは いづくの誰か ながむらん なれし御城に 残す月影」 開城前夜、山本八重子詠 |
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屋敷跡 | |
管理人メモ 鶴ヶ城周辺には様々藩士の家が点在している。一部を記すと、 鶴ヶ城北口東すぐ、鶴ヶ城会館前に萱野権兵衛、郡長正邸跡、そこから北へ一本入った通りに大川捨松邸跡、 さらに東のつばくろ公園に柴四郎、五郎邸跡、酒造歴史館すぐに山川大蔵、健次郎邸、 鶴ヶ城南西、裏道の民家の前に山本覚馬、新島八重子生誕の地碑、文化センター前に佐川官兵衛顕彰碑、 さらに鶴ヶ城西には日新館跡、日新館天文台跡などがある。 |
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萱野権兵衛、郡長正邸跡 | 大川捨松邸跡 |
柴四郎、五郎邸跡 | 山本覚馬、新島八重生誕の地碑 |
日新館跡 | |
会津町方伝承館 | |
大町2−8−8 (пF22-8686) | |
管理人メモ:会津若松駅から大町通りを南へ徒歩10分。無料。休館、月曜日。 | |
西軍墓地 | |
管理人メモ 会津町方伝承館前。 薩摩藩戦死者墓、長藩戦死十五人墓、大垣戦死二十人墓などがある。 |
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戊辰戦争で会津に来攻した西軍のうち、会津若松付近で戦死した将兵の墓で、 会津藩の悲惨は極まったが、西軍もまた多くの血を流さなければならなかった。 遠く故郷を離れ、戦乱の中に散っていった多くの命。 会津の山河には、会津の人々の血だけではなく、他国の人たちの血もしみこんでいる。 昭和三十二年、荒廃していた墓地を改修し、現在は西軍墳墓史跡保存会が清掃管理しいている。 |
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清水屋旅館跡 | |
管理人メモ:七日町通りにある大東銀行敷地内。 | |
この場所には吉田松陰、土方歳三など多くの歴史的人物が訪れた「清水屋」という旅館がありました。 幕末の志士たちに大きな影響を与えた吉田松陰は嘉永五年、二十二歳の時に東北各藩を歴訪する大旅行をしています。 中でも会津藩には特に強い関心を示し、二度にわたって訪れ、多くの人々と会い見聞を広めています。 松陰の旅の記録「東北遊日記」に記された七日町の宿がここ「清水屋」でした。 松陰が会津を去ってから十六年後に戊辰戦争がおこります。 会津藩と運命を共にした新撰組副長・土方歳三は宇都宮城の攻防で足を負傷し、 会津田島を経て「清水屋」に運び込まれ治療を受けています。 土方はその後、函館五稜郭まで転戦し西軍と徹底的に戦い続けたのです。 明治十五年には「清水屋事件」が起こります。 喜多方出身の自由民権運動家・宇田成一らが帝政党員に襲われ重傷を負います。 宇田成一はこの後、国事犯として捕らえられますが、明治二十五年には復権し県会議員に当選、最後まで自由党をを守り通しました。 木造三階建ての純日本旅館清水屋は、幕末から明治・大正にわたって会津の歴史を見つめ続け、 昭和初期に惜しまれながら取り壊されました。 |
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阿弥陀寺 | |
七日町4−20 | |
管理人メモ:七日町駅すぐ。清水屋旅館から駅方面に5分。標識あり。 | |
阿弥陀寺は慶長八年(一六〇三)蒲生秀行の時代、下野国に生まれた良然が開山しました。 明治元年の戊辰戦争後、会津藩戦死者の遺骸は、西軍の命で放置されたまま、さわることを許されませんでした。 幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのは、翌二年二月のことでした。 埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、阿弥陀寺には千三百柱にものぼる遺骸が埋葬されました。 春・秋の彼岸には手厚い供養会が行われています。 境内南にある「御三階」は元は鶴ヶ城本丸内にあったもので、明治三年に移築され本堂として使用されました。 内部は四階で、秘密の会議が行われたと言われます。 斎藤一は、後半生を会津人として生きた本人の希望により、ここ阿弥陀寺に眠っています。 |
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藤田家之墓(斎藤一の墓) | 御三階 |
中野竹子奮戦の地 | |
管理人メモ:阿弥陀寺北西、涙橋(柳橋)を抜け、49号を北に直進。標識あり。 | |
戊辰の役(一八六八)、西軍を迎え撃ったところで、西側には旧越後街道が通っていた。 八月二十三日には、中野竹子、優子の姉妹を中心とした婦女子隊が坂下まで出陣し、 八月二十五日には婦人の従軍が許可されたので、黒髪を断ち、薙刀をかかえ、衝鋒隊に加わり、 城下にせまる長州、大垣藩の兵士とここで遭遇し、激しい戦いが展開された。 竹子は辞世の 「武士の 猛き心にくらぶれば 数には入らぬ 我が身ながらも」 と詠んだ短冊を、薙刀に結びつけ奮戦したが、敵の銃撃に会い、壮烈な戦死をとげた。 時に二十歳であった。墓は会津坂下町の法界寺にある。 |
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中野竹子殉節之地 | 中野竹子像 |
如来堂 | |
神指町中四合 | |
管理人メモ:中野竹子奮戦地北西。七日町駅から車で10分。標識あり。 | |
慶応四年(一八六八)九月四日、山口次郎こと斎藤一ら新撰組隊士が守備した如来堂が、 新政府軍によって襲われ、隊士が全滅したとされる場所である。 近藤勇亡き後、会津に入った土方歳三率いる新撰組は母成峠防衛の任となるが、西軍の攻撃の前に敗走した。 庄内へ援軍を求めて会津を離れようとする土方に対し、山口は会津藩主・松平容保への恩義から 「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」 と、会津に残留して徹底抗戦を主張した。 会津を去った土方とは対象的に、山口は二十名(十数名とも言われている)ばかりの隊士たちとともにこの地に宿陣していたが、 西軍の襲撃を受けて全滅したとされている。 しかし数名の隊士が乱戦のなかを脱出し、生存していた。 ここ会津で隊長として新撰組を率いた山口においては会津藩が降伏開城した後、藩士とともに斗南藩に移り、 苦渋をともにしたのち、大正の世まで生き抜いたのであった。 |
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長命寺 | |
管理人メモ 日新小そば。標識あり。 佐川官兵衛、谷干城らが奮戦した。 |
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百年の弾痕今だ尚消えず 秋風何かを語る長命寺の畔 無名の万骨苔台に鎮まり 香煙新に迫る忠魂の前 |
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戊辰戦役会津藩士戦死者之墓 | |
秀長寺 | |
材木町1 | |
管理人メモ 西若松駅、北西すぐ。佐川官兵衛の歌碑と供養塔がある。 秀長寺から通りを一つ北に行くと、住吉川原の戦があった住吉神社がある。 さらに南に行き、材木町二丁目にはスネル邸があるが、個人宅となっている。 |
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佐川官兵衛歌碑 | 住吉川原戦場跡 |
本光寺 | |
管理人メモ:秀長寺から南へ、高田橋通りを抜けた先。寺から少し離れた墓地に長岡藩士殉節之碑がある。 | |
明治元年戊辰戦役の際、越後長岡藩士、山本帯刀隊長外に四十三名が八十里越の難所を越えて会津鶴ヶ城下に至り、 九月八日未明に会津藩士四百余人と強力力戦苦闘、一旦西軍を潰走させたが、濃霧の為、飯寺河原に於て孤立。 敵の重囲に陥り、遂に全員戦死されたのである。 後日、飯寺村民の手により供養の碑が建てられ厚い法要が営まれた。 昭和三十一年十月、会津史談会並に有志の篤志により新に殉節の碑が建立され、 昭和三十四年九月、長岡藩士弔霊会(昭和三十八年八月長岡藩士殉節顕彰会と改名)を設立し、以来毎年法要が営まれている。 |
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長岡藩士殉節之碑 | |
御薬園 | |
花春町8−1 (пF27−2472) | |
管理人メモ 大人310円、高校生260円、小中学生150円。8:30〜17:00まで。年中無休。 |
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旧会津藩主松平氏の別荘で、もと藩の薬園のあったことから「御薬園」の名で親しまれている。 庭園の築造年月は明らかではないが、江戸時代中期の作庭手法をよく伝えている。 中央に池を広くとり、中島をおき茶亭を設けて楽寿亭を称する。 池の奥、右に男滝、左に女滝がある。 後方に低い築山を設けて、東山連峯の風景を豊かにとり入れ、また石敷路をたどって池畔をめぐる風致も変化に富んでいる。 江戸時代の大名庭の形式による山水庭として優れた庭園であり、文化財保護法による名勝として保護されている。 |
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飯盛山 | |
飯盛1−5−1 | |
白虎隊十九士之墓 | 飯沼貞雄之墓 |
凌霜隊之碑 | 戸ノ口堰洞穴 |
白虎隊記念館 | |
管理人メモ:飯盛山中腹。大人400円、高校生300円、小中学生200円。8:00〜17:00。年中無休。 | |
白虎隊伝承博物館 | |
管理人メモ:飯盛山下。大人300円、高校生200円、小中学生150円。8:00〜17:00。年中無休。 | |
旧滝沢本陣 | |
一箕町滝沢122 | |
管理人メモ:飯盛山北すぐ。大人300円、高校生250円、小中学生150、子供100円。標識あり。 | |
旧滝沢本陣は、江戸への主要な街道であった旧白河街道筋に位置し、会津藩主参勤の滝沢峠越えに備えられ、 延宝年間(一六七三〜一六八〇)に滝沢組郷頭であった横山家に設けられた。 以後、歴代藩主の参勤交代、領内巡視、藩祖保科正之を祀る土津神社への参詣に際し、休憩所として使用された。 戊辰の役のときは、本営となり、慶応四年(一八六八)八月二十三日、藩主松平容保が白虎隊士中二番隊に、 敵を迎え撃つべく戸ノ口原への出陣を命じたところでもある。 |
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天寧寺 | |
東山町石山天寧208 | |
管理人メモ 武家屋敷の北。飯盛山通りから東山通りを入ってすぐ。標識あり。 近藤勇之墓、萱野権兵衛之墓、郡長正の墓あり。整備されていない山道なので、それなりの靴で。 |
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新撰組隊長近藤勇は、戊辰の役で奮戦中、千葉で力つき、ついに薩長の手に捕らえられ、首をはねられました。 遺体は東京三鷹市の龍源寺に埋葬されましたが、首は京都の三条大橋下流にさらされました。 しかし何者かが持ち去り、この地に埋めたと言われています。 このお墓は、会津藩の手によって建立されましたが、それは会津藩主松平容保公が京都守護職中、新撰組はその支配下にあり、 挺身幕府のために力をつくしたからです。 また、土方歳三など一行が会津に来て、戦闘に参加した際、この墓を参詣したと伝えられています。 墓石には「貫天院殿純忠誠義大居士」の法号と、その上に丸の三つ引きの近藤家の家紋が彫られています。 毎春四月二十五日の命日には、墓前際が執り行われています。 |
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近藤勇之墓 | 会津士魂の碑 |
萱野権兵衛之墓 | 郡長正之墓 |
会津武家屋敷 | |
東山町院内 (пF28-2525) | |
管理人メモ 大人850円、中高生550円、小学生450円。8:30〜17:00。年中無休。 |
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西郷邸 西郷家は、会津藩松平家譜代の家臣で、代々家老職を務めた千七百石取りの家柄であった。 江戸時代中期の和様建築の粋を集めた、豪華かつ壮大なこの家老屋敷は、 敷地面積二千四百坪、建築面積二百八十坪を誇り、三十八室もの部屋を擁していた。 四脚門や式台玄関、それに冠振りぐしに九曜の紋章を付けた鬼瓦などは、格式高い西郷家ゆえに許された特権であった。 佐々木只三郎の墓 会津藩士佐々木源八の三男として生まれ、旗本佐々木矢太夫の養子となる。 文久三年、京都の治安のため、幕府が結成した浪士組の取締役として上洛。 いったん江戸に戻るが、京都見廻組与頭として再上洛した。 当時「小太刀をとっては日本一」を言われ、坂本竜馬、中岡慎太郎の襲撃も只三郎によって行われたと言われている。 慶応四年、鳥羽伏見の戦いでは見廻組を率いて出陣したが、負傷し紀州の紀三井寺で没した。 早乙女貢氏等の御厚志により、昭和五十年八月、墓石をこの地に運び冥福を祈ることとなった。 |
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西郷邸 | 佐々木只三郎之墓 |
会津藩主松平家墓所 | |
管理人メモ:武家屋敷から南すぐ。標識あり。整備されていない山道なので、それなりの靴で。 | |
正三位松平容保之墓 | |
建福寺 | |
管理人メモ:御薬園から小田山通りを南に行った、花見ヶ丘にある。細い裏路地しかないので注意。 | |
建福寺は信州高遠に開創されたが、保科正之に随って、最上・会津と移ってきた。 長岡藩家老河井継之助の遺骨を最初に埋葬したところである。 |
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河井継之助埋骨地参道碑 | 建福寺 |
善龍寺 | |
管理人メモ:建福寺南。団地の裏方にある。 | |
西郷頼母夫妻の墓は生前から保科家歴代の墓所、この善龍寺に用意されていたが、祖先の墓石の何よりも小さく、その人柄が偲ばれる。 正面に保科八握髯翁墓、室飯沼千恵子位、右側面には命日の明治三十六年四月二十八日が刻まれる。 西郷頼母はよく時局の大勢を洞察し、会津藩の将来を考え職を賭して、藩主松平容保の京都守護職就任を強く諫止。 戊辰の役では会津の幸福を願い非戦恭順を主張した憂国の士である。 戊辰の役は、会津藩にとって、最大の悲劇であった。 多くの婦女子は、藩のために戦い悲業の死をとげたのである。 この碑は、戊辰の役に殉じた名前の解る二百三十三名の、婦女子の偉業を留め、霊を慰めたものである。 「なよ竹の 風にまかする身ながらも たまわぬ節は ありとこそきけ」 碑の歌は、か弱い婦女子の心をたまわぬ竹の節になぞらえながら、会津婦女子の精神の強さを、うたいあげたものである。 |
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西郷頼母、飯沼千恵子墓 | なよ竹の碑 |
会津藩校日新館 | |
河東町高塚山 (пF75-2525) | |
管理人メモ:大人600円、中高生500円、小学生450円。9:00〜16:00。年中無休。 | |
白虎隊奮戦の地 | |
管理人メモ: 滝沢旧道から49号へ入らず、南の裏道にある。 さらに一本南の砂利道には二十二士の墓、北東の猪苗代湖北岸には十六橋、強清水を抜け戸ノ口に入ると戸ノ口原古戦場碑もある。 |
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白虎隊奮戦の地 | 戊辰役殉難会津藩二十二士之墓 |
母成峠古戦場 | |
管理人メモ 母成グリーンライン有料道路に入り20分ほど。母成峠古戦場碑がある。 さらに北すぐに、戊辰戦役殉難者慰霊碑がある。 |
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