幕末列伝 遊撃隊
伊庭八郎 1844〜1869 |
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- 隻腕の美剣士 - 早くから「伊庭の小天狗」と噂され、野津鎮雄をして「幕軍さすがに伊庭八郎あり」とまで言わせた剣術の使い手 その剣は岩をも断つと言われた 「色白にして眉目秀麗俳優の如き好男子」、また「極く優しい美男子」と語られるくらいの美剣士である 食通でもあり、荒井鎌吉という上野広小路「鳥八十」の料理人を連れて転戦した 弘化四年、心形刀流剣術八代目の伊庭軍兵衛秀業の長男として生まれる 元治元年、御書院番松平駿河組となる 元治元年、三百俵、十人扶持、奥詰めとなる 慶応二年、奥詰め及び講武所剣槍方が遊撃隊に改編され、遊撃隊に入隊する 慶応三年、将軍慶喜の護衛として大阪に下る。伏見に布陣する 慶応四年、鳥羽伏見の戦い。胸部に被弾し吐血する 慶応四年、旧幕軍退却に反対するが江戸退却を余儀なくされる 慶応四年、上野寛永寺に謹慎中の慶喜の護衛をする 慶応四年、請西藩主林昌之助の協力により、遊撃隊を結成する 慶応四年、上野で彰義隊と新政府軍の戦い 慶応四年、小田原藩と戦闘し和睦が成立するが、小田原藩がすぐに敵対する 慶応四年、箱根山崎の戦い。左腕を負傷し切断する 慶応四年、榎本艦隊の美加保に乗り蝦夷地に向かうが、台風のため座礁。自殺を決意するが説得される 明治元年、函館に到着し旧幕軍に加わる 明治元年、遊撃隊隊長となる 明治二年、木古内の戦いで胸部に被弾し函館病院に収容される 明治二年、五稜郭で没。享年二十六歳 |
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林忠崇 1848〜1940 |
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- 脱藩藩主 - 上総請西三代目藩主で、将軍慶喜の冤罪を晴らそうと藩主ながら脱藩している 請西藩士は約八十名だが、その内約六十人が脱藩した藩主についてきた 九十四歳と長命で日本最後の藩主である 剣は愛洲陰流、月進流で宝蔵院流槍術も学んでいる。 馬術、砲術も巧みで、また和歌や絵画などにも才能があり早くから閣老の器と注目されていた 嘉永元年、請西藩主林忠旭の四男として生まれる 慶応三年、叔父の林忠交が急死した為、請西藩第三世藩主となる 慶応四年、撒兵隊の福田八郎右衛門、江原鋳三郎が共同戦線を求めるが拒否する 慶応四年、伊庭八郎、人見勝太郎と同調し協力を即決。請西藩士約六十人と共に脱藩し遊撃隊を結成する 慶応四年、駿府、勝山、岡崎、館山などの脱藩藩士を加え二七五名となり、箱根の関を占領する 慶応四年、旧幕軍艦長崎丸に乗り小名浜に上陸し東北諸藩と共同戦線を結び各地を転戦する 明治元年、仙台藩降伏後、蝦夷行きを志すが仙台藩の勧めによって降伏する 明治元年、東京に護送される。領地は没収され請西藩は廃藩される 明治四年、赦免され東京府士族に編入される 明治六年、東京府中属となり公務に付く 明治二十七年、華族になり従五位に叙せられる 明治三十七年、日光東照宮の神職になる 昭和十六年、次女ミツが経営する東京都豊島区高田南町のアパートで没。享年九十四歳 |
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人見勝太郎 1843〜1922 |
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- 智勇の人 − 剣は一刀流で江川流砲術なども学んでいる 儒学を得意とし十九歳の時の孟子の御前講義では白銀三枚を賜っている 降伏後は茨城県令なども勤め、利根運河会社を設立し実業家としても成功している 箱根の早雲寺にある遊撃隊士の墓の建立者である 天保十四年、二条城詰め鉄砲奉行組同心人見勝之丞の長男として生まれる 文久三年、将軍家茂上洛時、孟子の御前講義をする 慶応三年、遊撃隊に入隊する 慶応四年、請西藩主林昌之助の協力により、遊撃隊を結成する 慶応四年、上野の彰義隊に呼応する為に第一軍を率いて出陣する 慶応四年、小田原藩と戦闘し和睦が成立するが、小田原藩がすぐに敵対する 慶応四年、旧幕軍艦長崎丸に乗り小名浜に上陸し東北諸藩と共同戦線を結び各地を転戦する 明治元年、松前奉行となる 明治二年、五稜郭の戦いで負傷し函館病院に収容される 明治二年、東京に護送され芝増上寺に拘禁される 明治九年、勧業寮七等出仕で明治政府に仕える 明治十三年、茨城県令になる 大正十一年、老衰のため没。去年八十歳 |
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