幕末列伝 新選組
近藤勇こんどう いさみ 天保五年〜慶応四年(1834〜1868) |
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−新選組局長− 幼名は勝太郎。島崎勝太、大久保大和。 いつも笑顔で、両頬に笑窪があり実際に会うと優しい雰囲気があった。 口が大きく、自分の拳が入ったといわれる。 剣術は名人ではないが、手堅く力強く、よく性格が表れていた。 愛刀は鴻池が贈ったとされる長曽禰虎鉄。新選組では局長。 兄に音次郎(音五郎)、粂蔵(総兵衛)がおり、 姉のリセ、妹のタカ、スメもいたが姉妹は夭折している。 墓は宮川家の菩提寺龍源寺にあるが、近藤の亡骸なのかは不明である。 また京に晒された首級も見つかっていない。 |
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天保五年十月九日 | 武州多摩郡上石原村に豪農、宮川久次郎の三男として生まれる。 | |
嘉永元年十一月十一日 | 二人の兄とともに、十五歳で天然理心流、近藤周助の門人となる。 | |
嘉永二年六月 | 天然理心流目録となる。 | |
嘉永二年 | 近藤周助の養子となる。 | |
万延元年三月二十九日 | 一橋家家臣、松井八十五郎の長女ツネと結婚する。 | |
文久元年八月二十七日 | 四代目宗家として天然理心流を継ぐ。 | |
文久二年 | 長女瓊子が生まれる。 | |
文久三年二月二十八日 | 浪士組に参加し入京する。 | |
文久三年三月十二日 | 浪士組から袂を分け、会津藩御預かりとなり、壬生浪士組となる。 | |
文久三年八月十八日 | 八・一八の政変の働きにより新選組の隊名を下錫される。 | |
元治元年六月五日 | 池田屋で尊攘派を鎮圧。 | |
元治元年七月十九日 | 禁門の変で長州軍を撃退する。 | |
慶応元年十一月十六日 | 長州訊問使、永井尚志の供として広島に行く。 | |
慶応三年六月二十三日 | 新選組が直参となり、見廻組与頭格となる。 | |
慶応三年九月二十日 | 永井邸で土佐藩、後藤象二郎と会見する。 | |
慶応三年十二月十八日 | 伏見街道の墨染あたりで御陵衛士の残党に狙撃され、 右鎖骨上から上斜脊椎の肩にかけ銃創を負う。 |
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慶応四年一月 | 銃創のため、鳥羽伏見の戦いに出陣できず江戸に帰還する。 | |
慶応四年三月六日 | 甲陽鎮撫隊を結成し、甲州勝沼に出陣、 柏尾の戦いに敗れ江戸に帰還する。大久保大和と名乗る。 |
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慶応四年四月三日 | 下総流山に布陣するが、新政府軍に包囲され出頭する。 | |
慶応四年四月二十五日 | 板橋にて刑死。享年三十五歳。 | |
土方歳三ひじかた としぞう 天保六年〜明治二年(1835〜1869) |
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- 新選組副長 - 色白で撫肩の少し猫背だが、身長はすらりとしていて男っぷりがいい。 人との対応には抜け目がなく、かつ妙才なかった。 天然理心流目録。愛刀は会津十一代和泉守兼定。新選組では副長。 父の義諄は生まれる前に没し、母の恵津も六歳の時に病死している。 兄に為三郎、喜六、大作、姉に周、のぶがいる。 為三郎は盲目であったため喜六が家督を継ぎ、歳三は喜六に育てられた。 最期は函館市内の異国橋付近で戦死と伝わるが定かではない。 |
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天保六年五月五日 | 武州多摩郡石田村に豪農、土方義諄の四男として生まれる。 | |
弘化二年 | 十一歳のとき上野の呉服商松坂屋に奉公に出されるが、 番頭と喧嘩をして店を飛び出す。 |
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嘉永四年 | 十七歳のとき大伝馬町の呉服屋(質屋の説あり)に奉公に出されるが、 店の女中に手を出し辞めさせられる。 |
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安政六年三月九日 | 天然理心流、近藤周助の門人となる。 | |
文久三年二月二十八日 | 浪士組に参加し入京する。 | |
文久三年八月十八日 | 八・一八の政変で南門を守衛する。 | |
文久三年九月十八日 | 芹沢鴨らを暗殺する。 | |
元治元年六月五日 | 近藤とは別の隊の率い、遅れて池田屋に到着し尊攘派を鎮圧。 | |
元治元年七月十九日 | 禁門の変で長州軍を撃退する。 | |
慶応元年四月 | 隊士募集のため入京以来はじめて江戸に戻る。 | |
慶応三年六月二十三日 | 新選組が直参となり、見廻組肝煎格となる。 | |
慶応三年九月 | 大石鍬次郎とともに二度目の東帰。 | |
慶応四年一月三日 | 鳥羽伏見の戦いにおいて近藤の代わりに新選組を指揮する。 | |
慶応四年一月十日 | 富士山艦に乗船し江戸に帰還する。 | |
慶応四年三月六日 | 陽鎮撫隊を結成し、甲州勝沼に出陣、 神奈川方面にいる菜葉隊に援軍を要請するが失敗。 |
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慶応四年四月三日 | 下総流山に布陣するが、新政府軍に包囲され退却。 近藤救出の嘆願のため江戸へ向かう。内藤隼人と名乗る。 |
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慶応四年四月十一日 | 下総鴻之台で大鳥圭介らの旧幕府軍に加わり参謀になる。 | |
慶応四年四月十九日 | 宇都宮城を落とす。 | |
慶応四年四月二十三日 | 新政府軍に宇都宮城を奪還される。 この戦いで足を負傷し六名の隊士と会津に向かう。 |
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慶応四年八月二十三日 | 母成峠の敗戦を聞き、庄内藩に援軍を要請しに行くが、 米沢藩に通行を阻止される。 |
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明治元年十月二十六日 | 五稜郭に無血入城する。 | |
明治元年十月二十八日 | 額兵隊、彰義隊などを率いて松前藩を攻略。 | |
明治元年十二月十五日 | 蝦夷共和国政府を樹立。 陸軍奉行並函館市中取締役兼海軍裁判局頭取に選出される。 |
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明治二年三月二十五日 | 宮古湾海戦で敗走。 | |
明治二年五月十一日 | 異国橋付近で銃弾が腹部を貫き戦死。享年三十五歳。 | |
沖田総司おきた そうじ 天保十三年〜慶応四年(1842〜1868) |
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- 一番組隊長 - 幼名は宗次郎。総司郎、惣次郎、惣二郎とも。 手紙に総二など署名されていることから「そうし」ではなく「そうじ」が正しい。 出生は不明なところが多く、天保十三年と天保十五年説がある。 父も沖田勝次郎、沖田林太郎の二説ある。母は不明。 背が高く色が浅黒い方で、少し猫背のように背を丸めていたが、いつも笑顔だった。 よく冗談をいい、ほとんど真面目になっていることがない。 新選組になってからも近所の子守や、子供相手に往来で鬼ごっこをやっていた。 酒は呑んだが、女遊びはあまりしなかったらしい。 剣は天賦の才があり、突きの三段仕掛けが一技にしか見えなかったほどの腕前。 剣術を教える時は短気になり、近藤よりも恐れられていた。 新選組では助勤、一番組隊長、撃剣師範。 姉にはミツとキンがおり、幼くして父母を失った沖田は姉ミツに育てられた。 この肖像画は姉ミツの長男芳次郎の次男沖田要がモデルとなって描かれたもので、 ミツが孫の要に総司にどこか似ていると言ったらしい。 |
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天保十三年 (天保十五年) |
江戸麻布の奥州白河藩下屋敷で奥州白河藩士、 沖田勝次郎の長男として生まれる。 |
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嘉永三年 | 九歳(十二、三歳の説あり)で天然理心流、近藤周助の門人となる。 | |
安政五年八月 | 八坂神社の献額の中に沖田惣次郎藤原春政の名があり、 十七歳で免許皆伝となっている。 |
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文久二年七月中旬 | 多摩方面に出稽古に出かけ、麻疹にかかり重態となる。 | |
文久三年二月二十八日 | 浪士組に参加し入京する。この頃、総司と名乗る。 | |
文久三年七月十八日 | 大阪力士と乱闘になる。 | |
文久三年八月十八日 | 八・一八の政変で南門を守衛する。 | |
文久三年九月十八日 | 芹沢鴨らを暗殺する。 | |
元治元年六月五日 | 池田屋で尊攘派鎮圧時、肺患により昏倒する。 | |
元治元年七月十九日 | 禁門の変で長州軍を撃退する。 | |
慶応元年二月二十三日 | 山南敬助を介錯する。 | |
慶応三年六月二十三日 | 新選組が直参となり、見廻組格となる。 | |
慶応四年一月 | 肺結核ため、鳥羽伏見の戦いに出陣できず江戸に帰還する。 | |
慶応四年五月三十日 | 千駄ヶ谷池尻橋の植木屋平五郎方で肺結核にて病死。 享年二十七歳(二十五歳)。 |
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芹沢鴨せりざわ かも 天保元年〜文久三年(1830〜1863) |
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- 巨魁隊長 - 芹沢光幹、下村継次、木村継次。 出生年月は不明だが、天保元年頃とされる。常陸水戸芹沢村にあった芹沢城城主の末裔とされる。 色白で背の高く、恰幅のいい人物で、酒に酔ってないことはなかった。 武田耕雲斎に師事し、天狗党になったというが定かではない。 江戸の戸ヶ崎熊太郎門下で神道無念流皆伝。新選組では近藤の上で巨魁隊長と称していたようだ。 浪士組上京中の本庄宿で大篝火を焚くという事件を起こすが、創作のようだ。 八・一八の政変で、見張番所の会津藩兵に見咎められ顔先に槍を差し出されると、豪胆にもその槍の穂先を鉄扇で扇ぎたてた。 十八日に八木邸で暗殺されるが、十六日という説もある。下手人は不明だが土方、沖田ら四、五人とされる。 |
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天保元年 | 常陸水戸で芹沢貞幹の三男として生まれる。 | |
文久三年二月二十八日 | 浪士組に参加し入京する。 | |
文久三年三月十二日 | 浪士組から袂を分け、会津藩御預かりとなり壬生浪士組を結成する。 | |
文久三年七月十八日 | 大阪の力士と乱闘になる。 | |
文久三年八月十二日 | 大和屋を焼き討ちにする。 | |
文久三年八月十八日 | 八・一八の政変の働きにより新選組の隊名を下錫される。 | |
文久三年九月十八日 | 八木源之丞邸で暗殺される。享年三十四歳(三十二歳、三十八歳)。 | |
新見錦しんみ にしき 天保七年〜文久三年(1836〜1863) |
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- 謎 - 親見と署名されていることから「にいみ」ではなく「しんみ」が正しい。 田中伊織。出生は不明で、水戸浪士とだけ伝わる。 岡田助右衛門の門下で神道無念流皆伝とされているが根拠はない。 壬生浪士組となってからも文久三年四月以降の記録は皆無であり不明である。 新選組では局長、副長。 最期は隊規を犯し、祇園の貸座敷、山緒で切腹したという説があるが、この頃、局中法度も軍中法度も存在しないので創作だろう。 ほとんどのことに関して謎の人物である。 |
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天保七年 | 水戸で生まれる。 | |
文久三年二月二十八日 | 浪士組に参加し入京する。 | |
文久三年三月十二日 | 浪士組から袂を分け、会津藩御預かりとなり壬生浪士組を結成する。 | |
文久三年九月十六日 | 死亡する。享年二十八歳。 | |
山南敬助さんなん けいすけ 天保四年〜慶応元年(1833〜1865) |
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- 新選組総長 - 三南、三男と書かれているいることから「やまなみ」ではなく「さんなん」が正しい。敬介、啓輔、啓助、啓介とも。 出生は不明で奥州仙台産、松平陸奥守元家来などある。 新選組でも文久三年の芹沢鴨暗殺から慶応元年に脱走するまで、 元治元年正月付に書かれた山南直筆の年賀状しか資料が存在せず不明である。 背はあまり高くなく、色白で愛嬌のある顔をした温厚な人物。学問もあり、剣術も達者。 北辰一刀流免許皆伝だが、近藤と立ち合い敗れた為、弟子入りしたとされる。新選組では副長、総長。 一説には小野派一刀流であり、こちらの説の方が興味深い。 愛刀は赤心沖光とあるが、このような刀は存在しない。 最期は明里という二十一、二歳の島原遊郭の元天神が前川壮司邸の窓越しで、 監禁されている山南との別れを惜しんだという哀話が残っている。 |
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天保四年 | 陸奥仙台の剣術師範、山南某の次男として生まれる。 | |
万延元年 | 天然理心流試衛館の食客となる。 | |
文久三年二月二十八日 | 浪士組に参加し入京する。 | |
文久三年七月十八日 | 大阪の力士と乱闘になる。 | |
文久三年八月十八日 | 八・一八の政変で南門を守衛する。 | |
文久三年九月十八日 | 芹沢鴨らを暗殺する。 | |
元治元年 | 病を患い、面会もできないほどとなる。 | |
慶応元年二月二十二日 | 新選組を脱走し、沖田総司に大津宿で発見される。 | |
慶応元年二月二十三日 | 脱走の罪により、切腹。享年三十三歳(三十歳)。 | |
伊東甲子太郎いとう かしたろう 天保六年〜慶応三年(1835〜1867) |
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- 新選組参謀 - 鈴木大蔵、宇田兵衛。 性格温和にして敏達、しかも慷慨義侠の心がある。美男子で教養高く和歌にも通じる。 水戸に遊学し弘道館、金子建四郎に入門、神道無念流にも学ぶ。北辰一刀流皆伝。 水戸学、国学により尊攘思想となる。武田耕雲斎と交流があったいうが定かではない。 鈴木三樹三郎の兄で、幼年期は父、専右衛門の閉門蟄居により祖母の実家で三樹三郎と暮らす。 新選組では参謀、文学師範。 新選組内でも勤王活動を始め、薩摩藩脱藩の富山弥兵衛の入隊をとりなし、 六角獄舎に繋がれてた長州藩元奇兵隊総官の赤根武人らの釈放にも尽力した。 一時は近藤よりも勢力があった。 |
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天保六年 | 常陸国新治郡中志築に志築藩郷目付、鈴木専右衛門の長男として生まれる。 | |
文久元年 | 江戸深川佐賀町の北辰一刀流、伊東誠一郎道場の塾頭を務める。 | |
文久元年 | 伊東誠一郎の娘ウメと結婚し、誠一郎死後、道場を継いで伊東姓になる。 | |
元治元年三月末 | 水戸天狗党の挙兵援助を、知人の忠告を聞き入れて断念する。 | |
元治元年十月十五日 | 旧知の藤堂平助の勧めにより新選組に入隊する。 この時、伊東大蔵という名を干支にちなんで甲子太郎と改名。 |
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慶応元年十一月十六日 | 長州訊問使、永井尚志の供として広島に行き諸藩士と交わる。 | |
慶応二年二月十一日 | 広島出張の際に老中小笠原長道に会い、長州の寛大な処置を進言する。 | |
慶応三年三月十日 | 九州遊説のおり孝明天皇の御陵衛士を拝命。 | |
慶応三年三月二十日 | 新選組から分離し御陵衛士を結成。 | |
慶応三年十一月十日 | 坂本竜馬に身の危険を知らせに行くが、聞き入れられず。 | |
慶応三年十一月二十二日 | 近藤暗殺を謀るが、斎藤が離反し失敗に終わる。 | |
慶応三年十一月十八日 | 七条油小路南の本光寺門前で新選組に暗殺される。享年三十三歳。 | |
永倉新八ながくら しんぱち 天保十年〜大正四年(1839〜1915) |
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- 二番組隊長 - 出生はまだ不明な点がある。戸籍謄本では天保十年九月十二日、長倉勘治の次男とあり、 自伝では天保十年四月十一日、松前藩江戸定府取次役、永倉勘次の一人息子とあり、 明治十六年一月の樺太郡月形村戸長役場の記録では弘化四年生まれとある。 剣を神道無念流の岡田十松と心形刀流の坪内主馬に学ぶ。島田魁とは坪内道場からの知り合い。 近藤をして「真剣で立ち会ったらわからないが、道場の稽古では歯が立たない」と言われた。 天然理心流食客で、新選組では助勤、二番組隊長、撃剣師範。 戦後は剣術師範や道場を開いたりした。 晩年は近藤、土方の顕彰碑を立てたり、また現代に貴重な資料を残してくれた。 |
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天保十年四月十一日 | 江戸下谷三味線堀り松前藩邸の長屋で松前藩江戸定府取次役、 永倉勘次の子として生まれる。 |
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嘉永六年 | 新道無念流二代目、岡田十松の門人となる。 | |
安政三年 | 新道無念流免許皆伝となる。 | |
安政四年 | 脱藩する。 | |
文久三年二月二十八日 | 浪士組に参加し入京する。 | |
文久三年七月十八日 | 大阪の力士と乱闘になる。 | |
文久三年八月十八日 | 八・一八の政変で南門を守衛する。 | |
元治元年六月五日 | 池田屋で尊攘派を鎮圧。 | |
元治元年七月十九日 | 禁門の変で長州軍を撃退する。 | |
元治元年八月下旬 | 近藤が増長した為、松平容保に建白書を提出する。 | |
慶応三年六月二十三日 | 新選組が直参となり、見廻組格となる。 | |
慶応三年十一月十八日 | 油小路事件で御陵衛士と戦う。 | |
慶応四年一月三日 | 鳥羽伏見の戦いにおいて二番隊を指揮する。 | |
慶応四年一月十二日 | 順動丸に乗船し江戸に帰還する。 | |
慶応四年三月六日 | 甲陽鎮撫隊に加わり、甲州勝沼に出陣、 柏尾の戦いに敗れ江戸に帰還する。 |
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慶応四年四月十一日 | 近藤、土方と決別し旧友、芳賀宜道の靖共隊を結成し副長となる。 その後、小山、宇都宮、田島、会津と転戦する。 |
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明治三年三月 | 旧松前藩医、杉村松柏の養子となる。 | |
明治八年五月 | 杉村家を相続する。 | |
明治十五年 | 北海道樺太集治監の剣術師範に招聘される。 | |
明治十九年 | 剣術師範を辞職する。 | |
大正二年三月十七日 | 小樽新聞に六月十一日まで七十回にわたり「永倉新八」を連載する。 | |
大正四年一月五日 | 小樽市で病没。享年七十七歳。 | |
斎藤一さいとう はじめ 天保十五年〜大正四(1844〜1915) |
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- 三番組隊長 - 山口一、山口二郎、一戸伝八、藤田五郎。 出生と新選組入隊までの経緯も不明。一月一日の深夜(二日)に生まれたので「一」と名付けたとされる。 江戸生まれか播磨生まれ。本名は山口一だが、なぜ斎藤姓になったかも不明。 剣は一刀流とされるが、これも不明。溝口派一刀流、または無外流(山口一刀流)とされる。 酒豪で酒を飲むと目付きが鋭くなり、すぐに赤く顔に出たようだ。 新選組では助勤、三番組隊長、撃剣師範。 会津籠城の際、旧幕府軍は仙台に移行と決まるが、「今更、会津を見捨てるのは誠の義にあらず」と 会津に残り如来堂の戦いで戦死したとされた。 以降、警視庁創設当初から入庁し、警視庁退職後は東京教育博物館、 女子高等師範学校の看守や書記などで警備を務めた。 臨終時には床の間に座布団を重ね、端座し息を引き取った。 写真では中央右の座っている人物。 |
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天保十五年一月二日 | 明石藩足軽、山口祐助の次男として生まれる。 | |
万延元年 | 江戸関口で旗本と口論となり殺害、京に逃げる。 | |
文久三年 | 新選組に入隊する。 | |
文久三年七月十八日 | 大阪の力士と乱闘になる。 | |
文久三年八月十八日 | 八・一八の政変で南門を守衛する。 | |
元治元年六月五日 | 池田屋で尊攘派を鎮圧。 | |
元治元年七月十九日 | 禁門の変で長州軍を撃退する。 | |
元治元年八月下旬 | 近藤が増長した為、松平容保に建白書を提出する。 | |
慶応三年三月二十日 | 新選組を脱退し、間者として御陵衛士に加わる。 | |
慶応四年一月三日 | 鳥羽伏見の戦いにおいて殿を務め軽症を負う。 | |
慶応四年三月六日 | 甲陽鎮撫隊に加わり、甲州勝沼に出陣、 柏尾の戦いに敗れ、近藤、土方と別れ会津に向かう。 |
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慶応四年閏四月二十五日 | 白河城の戦いで、負傷している土方に代わり新選組隊長として戦う。 | |
慶応四年八月二十一日 | 母成峠の戦いで会津に敗走する。 | |
慶応四年九月五日 | 如来堂の戦いで敗走し、斗南に配流となる。 | |
明治五年 | 警視局に入る。 | |
明治七年 | 松平容保らが仲人となり会津藩大目付、高木小十郎の娘、時尾と結婚する。 | |
明治九年二月十五日 | 長男、勉が生まれる。 | |
明治十年五月 | 西南の役で豊後口に出征し、勲章を受ける。 | |
明治十二年十月四日 | 次男、剛が生まれる。 | |
明治十九年七月一日 | 三男、龍雄が生まれる。 | |
明治二十四年四月 | 警視庁を退職し、高等師範学校に奉職する。 | |
明治三十二年四月 | 高等師範学校を退職し、女子高等師範学校書記を務める。 | |
明治四十二年 | 女子高等師範学校を退職。 | |
大正四年九月二十八日 | 胃かいようにより病死。享年七十二歳。 | |
松原忠司まつばら ちゅうじ 不明〜慶応元年(不明〜1865) |
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- 四番組隊長 - 出生は不明。播州小野か大阪浪士とされる。坊主頭なので、僧であった可能性もある。 坊主頭に鉢巻を締め、大薙刀を持ち「方今の形勢、累卵の如し、天下の有志これを知るや否や」と声高らかに闊歩していたとされる。 新選組では助勤、四番隊隊長、柔術師範。 慶応元年夏、祇園からの帰り道に紀州浪人、安西某と口論となり酔った勢いで殺害。 酔いが冷めると責任を感じ、亡骸を壬生天神横丁の安西某の家に運ぶと、病気の子供と妻女がいた。 亡骸を見て取り乱した妻女に真実を語ることができずに、同情から面倒を見るようになった。 それが土方の耳に入り「人妻に横恋慕するために、夫を斬殺した」と誤解されることになり、 切腹を図るが篠原泰之進に止められ一命は取りとめた。 しかし土方とは上手く行かず、安西の妻とは深い仲に発展していく。 さらに腹の傷が悪化して自暴自棄となり、平隊士に落とされた挙句、安西の妻と無理心中した。 最期は上記のような話があるが、創作と思われる。 恐らくは、なんらかの失策により切腹させられたようである。また切腹傷の悪化により死亡の説もある。 |
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文久三年 | 第一次隊士募集で新選組に入隊する。 | |
文久三年八月十八日 | 八・一八の政変で南門を守衛する。 | |
元治元年六月五日 | 池田屋で尊攘派を鎮圧。 | |
元治元年七月十九日 | 禁門の変で長州軍を撃退する。 | |
慶応元年九月一日 | 切腹する。 | |
武田観柳斎たけだ かんりゅうさい 不明〜慶応三年(不明〜1867) |
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- 五番組隊長 - 竹田、観柳才、福田要、福田広。 出生は不明。出雲母里で生まれたとされる。医生。甲州流軍学者。 若い頃は陽明学を学んだ勤皇家で、佐幕派の母里藩で入牢しているようだ。脱獄して江戸へ逃亡後、福島伝之介に学ぶ。 新選組では五番組隊長、文学師範。近藤からは軍師として信頼される。 池田屋事変では枡屋喜右衛門の捕縛に尽力、戦闘でも天井に潜伏した志士を捕殺する。 元治元年八月下旬、近藤の増長に永倉、斎藤、原田らが反発し、松平容保に建白書を提出したおりには、生命を賭して和解させた。 甲州流軍学は一時期、新選組の基本方針となるが、慶応二年以降は洋式軍制に移り存在感がなくなる。 閑職に追いやられ伊東らに接近するが、多弁で独善的な為、敬遠され除隊処分となる。 最期は、倒幕運動を行なった為、新選組によって暗殺される。 また薩摩藩に接近した罪により、鴨川銭取橋で斎藤に暗殺されたという説もある。 |
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文久三年十月 | 新選組に入隊する。 | |
元治元年六月五日 | 枡屋喜右衛門を捕縛。池田屋で尊攘派を鎮圧。 | |
元治元年六月十日 | 明保野亭事件で指揮官として出勤。 | |
元治元年七月十九日 | 禁門の変で長州軍を撃退する。 | |
元治元年八月下旬 | 近藤と永倉の対立を、生命を賭して和解させる。 | |
慶応元年八月八日 | 蹴上村奴茶屋で金策強談の薩摩藩士を捕殺。 | |
慶応元年十一月十六日 | 長州訊問使、永井尚志の供として近藤らと広島に行く。 | |
慶応三年六月二十二日 | 油小路竹田街道にて、新選組に暗殺される。 | |
井上源三郎いのうえ げんざぶろう 文政十二年〜慶応四年(1829〜1868) |
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- 六番組隊長 - 真摯篤実な性格で、地味ではあったが、新選組での役割は大きく、温厚な人柄で隊士からも慕われていた。 普段は無口でおとなしいが、一度思い込んだらテコでも動かないところがあった。 天然理心流免許皆伝。新選組では助勤、六番組隊長。 井上家は甲州武田家の家臣だった家柄で正徳三年以降、代々、八王子千人同心を務めた。 最期は鳥羽伏見の戦いで一緒に参戦した甥の井上泰助により、首と刀を寺の門前に埋めたとされるが、寺の名前は不明。 |
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文政十二年 | 日野宿北原に八王子千人同心、井上藤左衛門の三男として生まれる。 | |
弘化年間 | 天然理心流、近藤周助の門人となる。 | |
万延元年 | 天然理心流免許皆伝となる。 | |
文久三年二月二十八日 | 浪士組に参加し入京する。 | |
文久三年八月十八日 | 八・一八の政変で南門を守衛する。 | |
文久三年九月十八日 | 芹沢鴨らを暗殺する。 | |
元治元年六月五日 | 池田屋で尊攘派を鎮圧。 | |
元治元年七月十九日 | 禁門の変で長州軍を撃退する。 | |
慶応三年六月二十三日 | 新選組が直参となり、見廻組格となる。 | |
慶応四年一月五日 | 鳥羽伏見の戦いで六番隊を指揮したが、銃弾により戦死。享年三十八歳。 | |
谷三十郎たに さんじゅうろう 不明〜慶応二年(不明〜1866) |
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- 七番組隊長 - 出生年月は不明。備中高梁に備中松山藩士、谷三治郎の長男として生まれる。谷万太郎と昌武の兄。 剣は直心流、神陰流。新明流とも。種田流槍術を学び「谷の槍は千石もの」と言われたが、万太郎の子孫に伝わる話では剣だけのようだ。 新選組では助勤、七番組隊長、槍術師範。 禁門の変後の残党狩りで、西本願寺の道場で剣術を教えていた中田九一郎を捕縛し 「新選組は見かけほどに強い隊士がおらず、いつも自分が先頭に立たされてしまう」などと語ったとされる。 慶応二年三月、田内知の介錯に失敗し、信用を失うという話があるが、田内が切腹したのは慶応三年であり創作である。 最期は斎藤一に暗殺された、浪人に酒の上で殺されたなどの説があるが、明らかになっていない。記録では急病死とある。 |
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安政三年 | 御近習役を務めていたが失策により、お家断絶。大阪に行く。 | |
文久三年 | 新選組に入隊する。 | |
元治元年六月五日 | 池田屋で尊攘派を鎮圧。 | |
元治元年七月十九日 | 禁門の変で長州軍を撃退する。 | |
慶応元年一月八日 | ぜんざい屋事件で足に軽傷を負う。 | |
慶応二年四月一日 | 急病死する。 | |
藤堂平助とうどう へいすけ 天保十五年〜慶応三年(1844〜1867) |
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- 八番組隊長 - 南部与七郎。魁先生という渾名がある。 出生は不明。江戸生まれ。伊勢津藩藤堂和泉守の落胤ともいわれる。 小兵であったが、なかなか剣術を使い、学問もあった。 神田お玉ヶ池千葉周作道場で北辰一刀流を学び目録。のち天然理心流試衛館道場で近藤の内弟子となる。新選組では八番組隊長。 池田屋事件では庭先で戦ったが、垣根から一人の志士が撃ち込んで来て、眉間を斬られ貧血状態の重傷となる。 藤堂の刀はささらの如くであったと近藤が手紙に書いている。 慶応三年三月、伊東が御陵衛士を拝命し、新選組を離脱すると藤堂もこれに従う。 油小路の変では、全身十数ヶ所の深手を負い、溝の中に仰向けに倒れて絶命したという。 永倉は近藤から「まだ若い有為の人材であるから、できるならば助けたい」と言われやり過ごすが、 三浦常三郎が後ろから袈裟掛けに斬りつけた、また振り向いたところを額から鼻にかけて斬り込まれたという説がある。 その亡骸は二日間放置され、二十日の夜に新選組が引き取り、光緑寺に埋葬された。 |
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天保十五年 | 江戸で生まれる。 | |
文久三年二月二十八日 | 浪士組に参加し入京する。 | |
文久三年八月十八日 | 八・一八の政変で南門を守衛する。 | |
元治元年六月五日 | 池田屋で尊攘派鎮圧時、額を斬られ重傷を負う。 | |
元治元年七月十九日 | 禁門の変で長州軍を撃退する。 | |
元治元年秋 | 江戸に入り、伊東甲子太郎に新選組への入隊を勧める。 | |
慶応三年三月二十日 | 新選組から分離し御陵衛士に加わる。 | |
慶応三年十一月十八日 | 七条油小路にて、新選組に斬殺される。享年二十四歳。 | |
鈴木三樹三郎すずき みきさぶろう 天保八年〜大正八年(1837〜1919) |
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- 九番組隊長 - 三木荒次郎、三木三郎。伊東甲子太郎の弟。 幼年期は父、専右衛門の閉門蟄居により祖母の実家で兄、甲子太郎と暮らす。 のち寺内増右衛門の養子になるが、酒の失策で離縁され鈴木姓を名乗ることが許されず、三木荒次郎と名乗る。 その後、甲子太郎の江戸道場で修業したとされる。 神道無念流。新選組では九番組隊長、諸士取調役兼監察。 油小路の変では見張り役だった為、逃走に成功し薩摩藩邸で保護を受けた。 鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍に属し、赤報隊に加わるが離脱した後、帰京し投獄される。 釈放後は軍曹となり、会津に出陣するが終戦の為、帰京。 維新後には司法、警察畑を歩んだ。 |
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天保八年七月十二日 | 常陸国新治郡中志築に志築藩郷目付、鈴木専右衛門の次男として生まれる。 | |
元治元年十月十五日 | 伊東甲子太郎とともに、新選組に入隊する。 | |
慶応三年十一月十八日 | 油小路の変で逃走し、伏見薩摩藩邸で保護される。 | |
慶応四年一月 | 鳥羽伏見の戦いで薩摩軍として参戦、のち赤報隊に加わり三番隊長として指揮する。 | |
明治二年 | 京で永倉新八と会い、襲撃を企てるが未遂に終わる。 | |
明治十七年 | 坂田警察署長を退職する。 | |
大正八年七月十一日 | 茨城県石岡市で天寿を全うする。享年八十二歳。 | |
原田左之助はらだ さのすけ 天保十一年〜慶応四年(1840〜1868) |
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- 十番組隊長 - 佐之助。 なかなか怜悧な男で、かつ容姿万端、美男であった。 目上の者に対して傲慢でおとなしく言うことを聞かず、万事逆らうことがあり、憎まれたことがあったようだ。 気短でせかせかした男で、二言目には斬れ斬れと怒鳴っていたが、いい男。 郷里へ帰った頃、事情があって切腹を図り未遂に終わるが、その腹の傷跡が後まで残っていた。 また、裸で褌一つに頬冠りをして、オランダ銃隊が使う太鼓を革帯で肩から下げ、バチでドンドン鳴らしながら歩いた奇行も伝わる。 酔っ払うと着物の前を広げて腹を出してぺたぺたと叩きながら、 「金物の味を知らねえ奴なんぞとは違うんだ、この切腹の跡を見ろ」 と言って、左の方から真一文字に腹を半分ばかり切った傷跡を出しては見せていた。 種田流槍術。天然理心流試衛館道場食客。新選組では十番組隊長。 鳥羽伏見の戦いの前には、妻マサに当座の生活費だとして二分金ばかりで二百両を渡した。 上野戦争で銃創を負い、その二日後に死亡するが、 生き延びて満州に渡り馬賊の頭目となり、明治四十年頃、郷里の松山に現われたという伝説が残っている。 |
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天保十一年 | 伊予松山で松山藩中間、原田長次の長男として生まれる。 | |
安政二年 | 江戸定府目付役、内藤家の小使いになる。 | |
安政四年 | 郷里の松山へ帰り、若党になる。 | |
文久三年二月二十八日 | 浪士組に参加し入京する。 | |
元治元年六月五日 | 池田屋で尊攘派を鎮圧。 | |
元治元年七月十九日 | 禁門の変で左肩に軽傷を負う。 | |
元治元年八月下旬 | 近藤が増長した為、松平容保に建白書を提出する。 | |
慶応元年三月 | 仏光寺の町人、高嶋屋長兵衛の次女、菅原マサと結婚する。 | |
慶応二年 | 長男、茂が生まれる。 | |
慶応二年九月十二日 | 三条制令事件で軽傷を負う。 | |
慶応三年十一月十八日 | 油小路事件で御陵衛士と戦う。 | |
慶応三年十二月 | 次男が生まれるが、八日で早世する。 | |
慶応四年一月三日 | 鳥羽伏見の戦いで敗走し、江戸に帰還。 | |
慶応四年三月六日 | 甲陽鎮撫隊に加わり、甲州勝沼に出陣、 柏尾の戦いに敗れ江戸に帰還する。 |
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慶応四年四月十一日 | 近藤、土方と決別し芳賀宜道と靖共隊を結成し副長となる。 | |
慶応四年四月十四日 | 日光へ進軍中の下総山崎宿で靖共隊から離脱し、江戸に帰還する。 | |
慶応四年五月十五日 | 上野戦争で負傷する。 | |
慶応四年五月十七日 | 本所猿江町の神保山城守邸で死亡。享年二十九歳。 | |
山崎烝やまざき すすむ 不明〜慶応四年(不明〜1868) |
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- 監察 - 丞、蒸、進、晋とも。 出生は不明。阿波徳島生まれ、または大阪の鍼灸医、林五郎左衛門の息子とされる。林信太郎とは従兄弟とされる。 性質温厚にして、よく学び、黙々と事に耐える。 香取流棒術とされるが創作だろう。新選組では助勤、諸士取調役並監察。 池田屋事変では薬屋に扮し、内部から手引きしたとされるが創作である。 慶応元年閏五月、松本良順が屯所に訪れた時、救急医療法を学び「我は新選組の医者なり」と笑って語った。 鳥羽伏見の戦い前は銃創を負った近藤や肺結核である沖田の看病をした。 最期は鳥羽伏見の戦いで重傷を負い、大阪の京屋忠兵衛方まで送られ死亡したとされるが、 淀、または橋本で戦死、また江戸帰還中の船の中で死亡の説もある。 |
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文久三年 | 新選組に入隊する。 | |
慶応元年閏五月 | 松本良順に救急医療法を学ぶ。 | |
慶応元年十一月十六日 | 長州訊問使、永井尚志の供として近藤らと広島に行く。 | |
慶応三年四月十九日 | 前大納言、中山忠能を訪ねるが、門前払いを受ける。 | |
慶応三年六月二十三日 | 新選組が直参となり、見廻組格となる。 | |
慶応三年九月十四日 | 天皇側近、鷲尾隆聚の臣下、本多勘解由、山岡将曹を捕縛に行くが逃げられる。 | |
慶応四年一月三日 | 鳥羽伏見の戦いで戦死。享年三十五歳(三十六歳)。 | |
島田魁しまだ かい 文政十一年〜明治三十三年(1828〜1901) |
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- 怪力無双 - 新選組一の巨漢。身長六尺余(百八十二センチ)体重四十貫(百五十キロ)で、 よく相撲取りに間違えられた。 酒は一滴も飲めず、大福餅が好物で二十〜三十個は平らげたという大の甘党。 心形刀流、坪内主馬道場で学び、永倉とはここで知り合った。 新選組では調役並監察、二番組伍長。 鳥羽伏見の戦いでは、重武装で土塀に飛びつけない永倉を軽々と引き上げた。 鳥羽伏見敗戦後、東照大権現と書かれた旗印を腹に巻きつけ戦い続けた。 土方の最期に付き添ったという話があるが、弁天台場で奮戦しているので創作である。 五稜郭降伏時にはただ一人、佩刀で恭順に望んだ。 帰京後は雑貨屋、仏具屋の店員などをして、明治九年剣術道場を開くが 明治十九年頃には門人も減り、夜は西本願寺の守衛もしていた。 |
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文政十一年一月十五日 | 濃州厚見郡雄綱村に郷士、近藤伊右衛門の次男として生まれる | |
天保十二年八月 | 木曽川の氾濫による御用材流出の責任を取って、父母が自殺する。 | |
弘化四年 | 尾張藩、遠藤家の奉公に入る。 | |
安政四年 | 心形刀流、坪内主馬の門人となる。 | |
文久三年 | 脱藩する。 | |
文久三年 | 新選組に入隊する。 | |
文久三年七月十八日 | 大阪の力士と乱闘になる。 | |
元治元年六月五日 | 池田屋事変で探索及び戦闘を行う。 | |
元治元年八月下旬 | 近藤が増長した為、松平容保に建白書を提出する。 | |
慶応元年八月十五日 | 市中巡察で知り合った、西村定七の娘、さくと結婚する。 | |
慶応二年三月 | 長男、魁太郎が生まれる。 | |
慶応二年九月十二日 | 三条制令事件で土佐藩士を捕殺する。 | |
慶応三年十一月十八日 | 油小路事件で御陵衛士と戦う。 | |
慶応三年十二月十八日 | 伏見街道の墨染あたりで御陵衛士の残党に狙撃された 近藤の馬の尻を槍で叩いて逃す。 |
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慶応四年一月 | 鳥羽伏見の戦いで敗走し、江戸に帰還。 | |
慶応四年三月六日 | 甲陽鎮撫隊を結成し、甲州勝沼に出陣、 柏尾の戦いに敗れ江戸に帰還する。 |
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慶応四年四月三日 | 下総流山に布陣するが、新政府軍に包囲され退却。 | |
慶応四年四月十一日 | 下総鴻之台で大鳥圭介らの旧幕府軍に加わる。 | |
慶応四年四月十九日 | 宇都宮城を落とす。 | |
慶応四年四月二十三日 | 新政府軍に宇都宮城を奪還される。 この戦いで足を負傷した土方を背負って退却した。 |
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慶応四年閏四月二十五日 | 白河城の戦いで負傷する。 | |
慶応四年八月二十一日 | 母成峠の戦いで敗走する。 | |
明治元年十月二十六日 | 五稜郭に無血入城する。 | |
明治元年十月二十八日 | 土方と共に松前藩を攻略。 | |
明治二年三月二十五日 | 宮古湾海戦で敗走。 | |
明治二年五月十五日 | 弁天台場で降伏する。 | |
明治二年十一月二十日 | 名護屋藩お預けになる。 | |
明治四年九月二十八日 | 次男、柳太郎が生まれる。 | |
明治五年六月 | 解放され、帰京する。 | |
明治七年六月 | 長女、と免が生まれる。 | |
明治九年 | 剣術道場を開く。 | |
明治九年八月 | 三男、清次郎が生まれる。 | |
明治十一年十二月 | 四男、富三郎が生まれる。 | |
明治十七年 | 五男、末之烝が生まれる。 | |
明治三十三年三月二十日 | 西本願寺境内で病没。享年七十二歳。 | |
篠原泰之進しのはら たいのしん 文政十一年〜明治四十四年(1828〜1911) |
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- 近藤勇銃撃 - 篠原泰輔、篠塚友平、秦河内、秦泰之進、秦林親。 要心流剣法、良移心倒流柔術。新選組では諸士取調役兼監察、柔術師範。 維新後は弾正台に出仕して実業界へ進む。 晩年は敬虔なクリスチャンとなった。 |
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文政十一年十月二十日 | 筑後国生葉郡高見村に石工、篠原元輔の長男として生まれる。 | |
安政五年 | 江戸に出府する。 | |
文久三年 | 神奈川奉行支配下で横浜外国人居留地の警備の任につく。 | |
文久三年 | 加納鷲雄の紹介で伊東甲子太郎と出会う。 | |
慶応元年五月十日 | 伊東甲子太郎らに遅れて、新選組に入隊する。 | |
慶応二年二月十一日 | 広島出張の際に伊東と共に勤皇活動を行なう。 | |
慶応三年三月二十日 | 新選組から分離し御陵衛士に加わる。 | |
慶応三年十一月十八日 | 油小路の変で逃走し、伏見薩摩藩邸で保護される。 | |
慶応三年十二月十八日 | 阿部十郎らと伏見街道の墨染あたりで近藤を銃撃する。 | |
慶応四年一月 | 鳥羽伏見の戦いで薩摩軍として参戦、のち赤報隊に加わる。 | |
明治四十四年六月十三日 | 死亡する。享年八十四歳。 |
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