幕末列伝 薩摩




西郷隆盛
1827〜1877
- 存在 -
寡黙で朴訥。その真の大きさは会ってみなければ分からないとされる
余りにも大きいので、諦めが早いという一面がある
その存在は日本をも左右させた

文政十年、鹿児島城下加治屋町に西郷吉兵衛の長男として生まれる
安政三年、一橋慶喜を将軍継嗣にする奔走
安政五年、安政の大獄で月照に追及がかかり月照と共に鹿児島錦江湾に身を投げる
文久三年、会津藩と組み御所を武力封鎖し、尊攘七卿を追放する
元治元年、蛤御門の戦いで薩摩軍を指揮するし勝利。長州藩三家老の処分、不戦解兵などを要求
慶応二年、薩長同盟成立させる
慶応四年、江戸無血開城に奔走する

尚古集成館所蔵
大久保一蔵
1830〜1878
- 眼光紙背 -
沈着、冷静。薩摩隼人の中では異彩な人物
西郷が「陽」なら大久保は「陰」として活躍した

天保元年、西郷と同じ加治町(一説には高麗町)に大久保利世の長男として生まれる
弘化三年、記録所書役助になる
嘉永三年、お由羅騒動に巻き込まれ、免職謹慎を受ける
嘉永六年、島津斉彬が藩主になり蔵役に命じられる
安政六年、脱藩し井伊直弼襲撃の計画を立てたが島津久光に留意される
慶応二年、討幕密勅降下に尽力
慶応三年、率兵上京する
島津久光 
1817〜1887
- 玩古道人 -
終生髷を切らなかった、異常な西洋嫌い
西郷からは地五郎(田舎者)と呼ばれ、京都に憧れ続け四度も入京を果たしている

文化十四年、妾お由羅の子として生まれる
安政六年、島津斉興死後、藩の実権を握る
文久二年、大山綱良等に池田屋にて有馬新七等を鎮撫させる
文久二年、藩兵千を率いて江戸に入る
文久二年、生麦で奈良原喜左衛門が英国人斬殺
文久三年、薩英戦争で攘夷を行う
島津斉彬
1809〜1858
- 開明君主 -
父斉興が妾お由良の子久光を溺愛した為、四歳で世子にはなるが、藩主となったのは四十二歳と極めて遅い
藩主だったのは七年半だが、反射炉・精錬所などがある「集成館」の創設や、
幕府に大船建造を解禁させ蒸気船を建造したり、
将軍継嗣問題に奔走したりと、その功績は大きい

文化六年、江戸薩摩藩邸に島津斉興の長男として生まれる
文化十年、四歳で世子になる
嘉永四年、四十二歳で第二十八代薩摩藩主となる
嘉永四年、藩主としてお国入りを果たす
安政元年、江戸に参勤し、幕政に参画する
安政二年、国産初の蒸気船雲行丸の試運転に成功
安政五年、病のため急死。享年五十四歳
中村半次郎
1838〜1877
- 人斬り半次郎 -
性格は豪胆で無欲、功罪・利害に関わらず陽性で歯切れがよく、あの当時すでにシャネルの香水を好み、
娼妓達に岡惚れされるほどの伊達男だった
剣は野太刀示現流で、「抜き」を最も得意とし、瞬時も止らず、すれ違いざまに相手を斬った
また、雨だれが地面に落ちるまで三回抜き打ち出来たという逸話まである
人斬りとして名高いが、暗殺の記録は最近発見された「在京日記」にある赤松小三郎天誅の一件しかない
人斬りとして岡田以蔵などと違うのは西郷との出会い、そして憂国の情から来るものである

天保九年、薩摩国吉野村実方に中村兼秋の長男として生まれる
文久二年、島津久光の率兵入京に随行する
元治元年、西郷の下で国事に奔走する
小松帯刀
1835〜1870
- 薩摩藩城代家老 -
西郷と大久保の間に入るといささか影が薄くなるが、両人の働きは小松あってこそのものである
アーネスト・サトウが「小松は私が知っている日本人の中で一番魅力のある人物で政治的才能があり、
友情が厚く、傑出していた」と評したほどの人物
亀山社中の支援や大政奉還を平穏に終わらせた功績は大きい

天保六年、鹿児島城下に肝付兼善の三男として生まれる
安政二年、奥御小姓で近習番勤になる
安政三年、吉利領主小松相馬の養子となる
文久元年、側役になり、大久保一蔵などを登用する
文久二年、久光に従い上京し家臣筆頭として奔走する
元治元年、京都藩邸代表として禁門の変の後処理を行う
慶応二年、薩長同盟成立
慶応三年、城代家老になり、薩土同盟成立
明治元年、参議の筆頭となる
明治三年、大阪にて病没


戻る