幕末列伝 佐賀
江藤新平 1834〜1874 |
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- 司法卿 - 明治政府では江戸鎮台民政兼会計営繕判事、東京鎮将府会計局判事、会計官出張判事、佐賀藩参政・権大参事、 制度局取調掛、文部大輔、左院副議長等を歴任し司法卿となる 近代司法制度の創始者 判事や検事、弁護士や公証人等を設け司法の充実と独立に尽力した人物である 勤王論者・枝吉神陽の影響で勤皇に傾倒した 天保五年、肥前国佐賀郡に手明鑓・江藤助右衛門の長男として生まれる 文久二年、鍋島直正が攘夷に立上らないので脱藩し上京する 文久二年、上京後、桂小五郎の仲介で姉小路公知に面会し「姉小路公知殿との問答始末」をまとめる 文久二年、鍋島直正に帰藩を命じられ永蟄居に処される 慶応三年、蟄居を解かれ郡目付となり、藩主鍋島直大に先行して上京する 慶応四年、戊辰戦争が始まると総攻撃反対を意見し、西郷隆盛により小笠原唯八と共に江戸に潜入する 明治五年、司法卿になる 明治六年、「民法仮法則」を完成させる 明治六年、征韓論に敗れて下野する 明治七年、板垣退助等と「民選議員設立建白書」に署名し自由民運動を開始する 明治七年、大久保利通の臨時裁判により除族の上、梟首される |
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鍋島閑叟 1814〜1871 |
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- 軍備強化 - 藩主時代は直正で隠居後に閑叟と称する 閑叟の正室は十一代将軍・徳川家斉の娘だったので公武合体に周旋した 時代の流れを無視し日和見主義でありつづけ、態度を示したのは大政奉還が発せられてからである 藩内では質素倹約により藩債の整理、オランダから大砲を輸入、また独力で反射炉、 アームストロング砲の製造に成功する等、藩政に手腕を振るっている 文化十一年、鍋島斉直の子として生まれる 天保元年、十七歳にして肥前佐賀藩の家督を継ぐ 嘉永五年、日本初の反射炉を建設し洋式銃砲の鋳造を始めた 文久二年、上洛し公武周旋に尽力する 文久三年、世界でも最新鋭のアームストロング砲の製造に成功 慶応四年、戊辰戦争では新政府軍に参加し砲兵の威力を持って勝利に導いた 明治二年、蝦夷地開拓使長官となるが赴任しなかった 明治四年、江戸にて没。享年五十八歳 港区立港郷土資料館蔵 |
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大隈重信 1838〜1922 |
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- 早稲田創立者 - 慶応四年の「浦上四番崩れ」会談の時にイギリス公使パークスと張合ったほど豪放な人物 明治政府では徴士参与職、外国事務局判事、外国官副知事、大蔵大輔等を歴任 工部省の開設や電信・鉄道等を建設し参議となる 参議になると食客四、五十人をかかえて「築地の梁山泊」とまで言われるほど贅沢な生活をしている 天保九年、佐賀城下に鉄砲組頭・大隈信保の子として生まれる 元治元年、長州征伐の際、藩主鍋島直正を動かして幕府に中止を提言するが受入れられなかった 慶応元年、長崎に「致遠館」を設立する 慶応二年、副島種臣と共に脱藩し京都へ行き徳川慶喜に大政奉還を促すが捕縛され送還される 明治三年、参議になる 明治十三年、参議専任となる 明治十四年、薩長勢力と衝突して参議辞任に追込まれる 明治十五年、下野の後に立憲改進党総理となる 明治二十二年、来島恒喜が投げた手榴弾により片足を切り落とす 明治三十三年、板垣退助と共に憲政党を結成し、日本初の政党内閣を誕生させた 大正十一年、胆石症により没。享年八十五歳 港区立港郷土資料館蔵 |
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副島種臣 1828〜1905 |
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- 義祭同盟 - 実兄である勤王論者・枝吉神陽の影響を多大に受け勤王に傾倒した 神陽が没してからは藩校の指導的地位になり子弟に勤王思想を浸透させた 明治政府樹立後は外交で優れた手腕を発揮した 書をよくした能書家としても知られる 文政十一年、佐賀藩国学者・枝吉神陽の次男として生まれる 嘉永三年、兄の神陽を中心とした政治結社「義際同盟」に江藤新平、大隈重信等と参加し藩政改革を推進する 文久四年、「致遠館」が設立した際には学生監督になる 慶応三年、大隈重信と共に脱藩し京都へ行き徳川慶喜に大政奉還を促すが捕縛され送還される 明治六年、政界を去る |
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