幕末列伝 白虎隊
安達藤三郎 | |
嘉永五年、米代一之丁に四百石物頭、小野田助右衛門の四男として生まれる。 大柄で赤黒い肌。眼が大きく幼さを残す丸顔であった。 関所の守備時、騎馬が一騎通りかかった時、 藤三郎は「待て、止れ」と叫ぶなり小銃で馬上の人物の上を撃った。 馬上の人物とは新撰組の土方歳三であり、引き返して藤三郎に詫びを言い去って行ったとされる。 享年十七歳。法名は信忠院殿英山見雄居士。 |
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有賀織之助 | |
嘉永六年十一月三日、本三之丁に二百五十石、有賀権左衛門の次男として生まれる。 中肉中背で眼はやや細く、鼻筋の通った清らかな顔であった。 性格は剛胆にして素直。腕力があり剣を振れば剣鳴りがすると言われた。 藩黌日新館では三礼塾二番組に編入される。 九歳で出場した大演舞大会では、見事な薙刀捌きをみせ、満場の喝采を浴びた。 出陣時に、母いく子より「有賀家は代々忠臣の家です。 くれぐれも父上とご先祖様の名を汚すことをしてはなりませんぞ。 決して、死を恐れるではない」と厳しい戒めを受ける。 そして、母からの戒めをしっかりと守り、見事に自刃した。享年十六歳。 法名は秋峰院戦誉義道清居士。 |
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石田和助 | |
嘉永六年九月、若松城郭槻木町に医者石田龍玄の次男として生まれる。 十歳の時に藩黌日新館に入学し、毛詩塾二番組に編入される。 飯盛山退却時には傷を負っていたので「手傷が苦しければ、お先に御免」と言って、 最初に自刃し、作法通りの見事な一文字に腹を切った。 享年十六歳。法名は秋山義遊居士。 |
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石山虎之助 | |
嘉永五年三月五日、二百石、井深数馬の次男として生まれる。 温和な性格ながら勇壮俊敏。五、六歳で百人一首を全てそらんじたという、 抜群の記憶力を持っている。 十二歳で藩黌日新館に入学し、毛詩塾二番組に編入される。 退却戦で自刃している。。 享年十七歳。法名は秀了院殿義覚剣忠居士。 飯盛山で自刃した白虎隊士は最初十六人であり、この当時は虎之助の名は無かった。 しかし、十七回忌法要の時、郷士史家の調査により自刃したことが判明し一緒に連なった。 |
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伊藤悌次郎 | |
安政元年、米代四之丁に藩儒伊藤佐太夫の次男として生まれる。 身体が弱かったが、柔術、砲術に精通している。 十一歳で藩黌日新館に入学し、尚書塾一番組に編入される。 退却戦では池上新太郎が負傷していたので、津田捨蔵と共に助け遅れて来た三人の内の一人。 井深茂太郎とは親戚関係にあり大変親しく、隣で自刃している。 飯盛山のお墓には十七歳となっているが、享年十六歳。法名は仁進院忠節劔義居士。 |
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伊藤俊彦 | |
嘉永六年十二月二十日、若松城下郭外川原町堀側に伊藤新作俊亘の長男として生まれる。 性格は優しく情が深い。 痩せ型で背が高い。色白でやや口は大きいが目尻の上がった美少年だった。 飯盛山のお墓には十七歳となっているが、享年十六歳。法名は浄忠院心誉義善居士。 |
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井深茂太郎 | |
嘉永六年十月、三百石、井深守之進重教の長男として生まれる。 英才の少年で、性格は温順にして沈毅。武術の心得は相当なものであった。 十歳で藩黌日新館に入学する。 十三歳で会津最高学府止善堂入学する。 白虎士中二番隊に配属、記録係に任命される。 享年十六歳。法名は深明院殿忠道義人居士。 |
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篠田儀三郎 | |
嘉永五年四月十五日、郭内米代二之丁に供番二百石、篠田兵庫の次男として生まれる。 幼少より正直者で通っており、一度も嘘をついた事がないと言われている。 十一歳の時に藩黌日新館に入学し、尚書塾一番組に編入される。 白虎隊では士中二番隊の嚮導(指図役・隊長代理)に任命される。隊長は朱雀隊の日向内記。 出陣した後、日向内記は食料調達の為に離れ、指揮を儀三郎に任せる。 享年十七歳。法号を賢忠軍誉英清居士。自刃前に文天祥の「零丁洋を過ぐ」を吟じる。 辛苦遭逢一経より起る 干戈落落たり四周星 山河破砕し風絮を漂わし 身世の浮沈雨を打つ 皇恐灘頭皇恐を説き 零丁洋裏零丁を嘆ず 人生古より誰か死無からん 丹心を留取して汗青を照さん |
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鈴木源吉 | |
若松城下郭外下長丁に藩医鈴木玄甫重積の次男に生まれる。 身体は大柄、面長で額の広い顔である。 槍術は宝蔵院流、剣術は真天流、砲術を特に好んだ。 十歳で藩黌日新館に入学し、毛詩塾一番組に編入される。 出陣時、兄の金次郎から祖先伝来の宝刀「冬広」を餞別として受け取り、 自刃の際それで腹を一文字に切った。 享年十七歳。法名は顕忠院達誉義勇居士。 |
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津川喜代美 | |
若松城下郭内本四丁に百石、高橋誠八の三男として生まれる。 指導性、勇気がある。 幼少時、郭内米代二之丁の百五十石津川瀬兵衛隼人の養子になる。 津川家の祖先津川茂兵衛は加藤清正に仕えた重臣。 十歳で藩黌日新館に入学し、尚書塾一番組に編入される。 享年十六歳。法名は清進院良誉英忠居士。出陣前に和歌を吟じた。 「かねてより親の教えの秋はきて 今日の門出ぞ 我はうれしき」 |
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津田捨蔵 | |
三田の会津範下屋敷に十三石三人扶持、津田範三の次男として生まれる。 身体は大柄、素朴で快活だった。 祖先は大谷刑部吉隆とされる。 退却時は負傷した石田虎之助を伊藤悌次郎と助けた。 享年十七歳。法名は清進院勇猛義忠清居士。 |
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永瀬雄次 | |
若松城下郭外城南花畑に十八石三人扶持、永瀬丈之助の次男として生まれる。 英雄豪傑が好きで、そのような名前が欲しく「利勝」と丈之助が与えた。「雄次」は通称名。 せっかちな所があり、出陣時は片方の脚絆と弁当を持たずに出て行き、途中で母親と下僕が届けた。 退却時、集中弾を浴びて重症となり、飯盛山で親友林八十冶と刺し違えようとするが、 力尽き八十冶を刺すと事は出来なかった。 享年十六歳。法名は功勲院忠誉義道居士。 |
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西川勝太郎 | |
嘉永六年正月、若松城下郭内本二之丁に三百石、西川半之丞の長男として生まれる。 祖先は西川仁左衛門重次で島原の乱では城中に一番に突入した勇士とされる。 十歳で藩黌日新館に入学し、三礼塾二番組に編入される。 指導力があり、退却時に自刃しようとする隊士を制し、 主君の生死を確認してから自刃しようと飯盛山まで退却させた。 飯盛山で天守閣が炎に包まれているのを確認すると、 「今こそ国に殉ずるべき」と言い隊士に死所を与えた。 享年十六歳。新道の家なので霊号を節顕霊神と号した。 |
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野村駒四郎 | |
若松城下郭内本二之丁に三百石、野村清八の三男として生まれる。 西川勝太郎と簗瀬勝三郎とは親友である。 十一歳で藩黌日新館に入学する。 槍術が得意で、十七歳で一旨流の切紙下免許を受ける。 自刃の際、林八十冶が永瀬雄次と刺し違える事が出来ずにおり、駒四郎が八十冶の介錯をつとめた。 享年十七歳。法名は義詮孝忠居士。 |
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林八十冶 | |
嘉永六年一月六日、若松城下郭外川原町三番丁に十石三人扶持、林忠蔵の長男として生まれる。 忠孝の人物で、沈毅。退却前には木陰で立ちながら居眠りをするという豪胆さを持っている。 藩黌日新館では二経塾二番組に編入される。 自刃の際、親友の永瀬雄次と刺し違えようとするが、雄次が力尽き野村駒四郎に介錯を頼み、 見事に腹を切った。 享年十六歳。法名は義光院剣誉忠勇清居士。 |
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間瀬源七郎 | |
嘉永五年六月十四日、若松城下郭内本二之丁に三百五十石、 間瀬新兵衛利貞の二男四女中の末弟として生まれる。 色白で容姿端、子供の時より小姓役になる。性格は温和で恭謹。 十歳で藩黌日新館に入学し、三礼塾二番組に編入される。 十六歳で会津最高学府止善堂に入学する。 出陣時は通常はダンブクロだが、源七郎は紫縮緬紐の義経袴と鷹匠足袋に草鞋、 頭には韮山笠というりりしい若武者姿であった。 享年十六歳。法名は勇猛院忠誉義進居士。 |
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簗瀬勝三郎 | |
嘉永五年六月一日、若松城下郭内本二之丁に三百五十石、簗瀬源吾直淳の三男として生まれる。 簗瀬家は藩祖保科正之助に仕えた家老柳瀬三佐衛門正真以来、秀でた人物が傑出している。 祖父、父と共に学者だが、勝三郎は武術が好きで馬術は大場儀助に、弓術は一瀬五右衛門に、 槍術は内田判之助に、剣術は長坂源吾にと、武術全般を会得していた。 西川勝太郎、野村駒之助とは親友である。 十歳で藩黌日新館に入学し、三礼塾二番組に編入される。 フランス式陸軍調練では、それをいち早く取り入れた。 享年十七歳。法名は忠壮剣光居士。 |
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簗瀬武治 | |
若松城下郭内本三之丁に百五十石、簗瀬久人の次男として生まれる。 非常におとなしい性格で色白、女性のようであった。しかし勇敢であり、 弓術では飛んでいる鳥を射る事ができるくらいの腕を持っている。 十一歳で藩黌日新館に入学し、三礼塾二番組に編入される。 享年十六歳。法名は武勇院殿義戦居士。 |
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飯沼貞吉 | |
安政元年三月二十五日、郭内大町通りに四百五十石、飯沼時衛の次男として生まれる。 幼名は頴悟。 十歳で藩黌日新館に入学し、二経塾一番組に編入される。 十五歳で会津最高学府止善堂に入学する。 慶応四年に歳を一歳偽り、白虎士中二番隊に配属される。 自刃の際、短刀で咽喉を刺したが急所から外れ人事不省となるが、 戦死者の遺品を狙う泥棒に担がれ戸ノ口堰の水路まで行き水を飲み、 八ヶ森山中にて捨てられる。 その後、茸を取るために山中に来た百姓渡辺佐平に発見され、袋山の岩屋に運ばれる。 貞吉を手当てしたのは町医者三木住庵だが技術及ばず、 同宿してた長岡藩軍医某に助けられた。 貞吉は後年その軍医某を探したが判らなかったらしい。 明治五年に工部省の技術教場に入学し、卒業後、逓信省に入り電信建築技師として働く。 日清戦争には歩兵大尉として従軍し、帰還後は逓信省に戻り、 仙台逓信管理局長の初代公務部長となる。 昭和六年二月に没。享年七十八歳。 お墓は仙台市に置かれていたが、昭和三十三年に髪の毛と歯が飯盛山に移された。 辞世の句 「すきし世は夢か現か白雲の 空にうかへるここちこそすれ」 |
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