幕末列伝 会津
松平容保 1835〜1893 |
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- 京都守護職 - 生まれ持っての蒲柳の質にも関わらず、藩祖保科正之以来の遺訓 「大君ノ義、一心大切ニ忠勤ヲ存スベシ、列国ノ例ヲ以テ自ラ処スベカラズ」 を忠烈なまでに貫き、会津悲劇また会津士魂を歴史に刻んだ 孝明天皇は容保を最も信頼し、新年の祝いで小御所に参内した時、拝謁を許され天盃を賜り、且つ純緋の御衣を下賜されている また文久三年に尊攘派から容保東下の偽勅が出された時は宸翰を賜って、死に到るまでそれを肌身離さず持っていた 天保六年、江戸で美濃国高須城主松平義建の七男として生まれる 弘化三年、会津藩主松平容敬の養子になる 嘉永五年、容敬が没し肥後守となる 万延元年、桜田門外の変後の幕府と水戸の調停に成功し権中将となる 文久二年、京都守護職に任命される 慶応二年、孝明天皇崩御 慶応三年、京都守護職辞任する 慶応三年、慶喜に従い二条条から大阪城へ下る 慶応四年、慶喜に従い軍艦開陽丸で江戸に行く 慶応四年、藩主を養子喜徳に譲り、会津へ帰国する 慶応四年、奥羽越列藩同盟成立 明治元年、鶴ヶ城開城し喜徳と共に妙国寺で謹慎 明治十三年、五第東照宮宮司となる 明治二十六年、正三位に叙せらえるが、翌日東京で没 |
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佐川官兵衛 1831〜1877 |
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- 鬼 - 「鬼佐川」と童謡で謡われる程の猛者 別選隊で淀城退却時、負傷した目を陽光から守るため両天傘をさし悠然と淀大橋を渡ったエピソードが伝えられている 山川大蔵が「人望は薩摩における西郷のようだ」と評してる程の人物 性格は直情的で信義に厚く、剣は一刀流溝口派で和歌もたしなんだ 天保二年、若松城下五軒町で物頭佐川幸右衛門の長男として生まれる 慶応四年、鳥羽伏見の戦いで別選組隊長として出陣し銃弾で胸を撃たれたが胸当により別状なし。またこの時に眼を傷つけている 慶応四年、前将軍慶喜より伏見方面の旧幕軍総督を任される 慶応四年、会津に帰還し朱雀四番士中隊隊長として各地に転戦する 慶応四年、四百石加増で若年寄になり、さらに三百石加増で千石になり家老となる 明治元年、田島在陣中に容保から親書が届き武装解除後、塩川で謹慎する 明治三年、斗南に移住する 明治六年、会津若松に帰る 明治七年、旧会津藩士の生計を立てる為、三百名を率い警視庁に入り、大警部となる 明治十年、西南戦争の熊本県阿蘇郡二重峠付近で三発の銃弾により戦死 |
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西郷頼母 1830〜1903 |
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- 諌止 - 会津の将来を考える一心で、守護職拝命また戊辰戦争時に厳しく諌止した 西軍の鶴ヶ城攻略時に会津悲劇の象徴というべき肉親婦女子十人、親戚家族十二人の全員自決を果たした 後半生は神職になり、また塾長として子弟の教育に力を注いだ 謹申学舎からは依田佐二平、依田勉三、鈴木眞一など、霊山神社からは堀江覚治、武田惣角などを輩出している 養子の西郷四郎は姿三四郎のモデルだと言われている 安政六年、城代家老となる 文久二年、藩主容保の京都守護職拝命を強く諌止する 文久三年、御免御叱として家老職を罷免される 慶応四年、家老職に復帰し、白河の口の戦いの総督に起用されるが敗退する 慶応四年、和議恭順を提言するが、受入れられず再び家老職を罷免される 慶応四年、主戦派等から命を狙われ出城し、仙台から開陽丸で函館に渡る 明治二年、五稜郭で降伏し館林藩に幽閉され、その後赦免される 明治五年、謹申学舎の塾長になる 明治八年、東白川棚倉町の都々古別神社の宮司となる 明治十三年、日光東照宮の宮司になり容保のもとで禰宜を務める 明治二十二年、福島県霊山神社の宮司となる 明治三十六年、会津の元の屋敷の近くで没。享年七十四歳 |
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秋月悌次郎 1824〜1900 |
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- 神のような人 - ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が「神のような人」と評している 幼少より学問を好み、十歳で日新館に入学 十九歳の時に松平慎斎の所で学び「要ハ道ヲ知ル外ナラズ」と教えられ生涯に大きな影響を受けた 戊辰戦争後は実戦には関わっていないが、軍事責任者のNo.2だったので重罪に問われた 文政七年、丸山四郎右衛門胤道の二男として若松城下で生まれる 天保四年、十歳で会津藩校日新館に入る 弘化三年、昌平坂学問所書生寮に入り、後に寮の舎長となる 安政三年、西国諸藩を遊歴し「観光集」を纏める 文久二年、容保が京都守護職に就任すると、公用方となり京都に上る 文久二年、薩摩藩高崎佐太郎と共に周旋し「会薩同盟」を成立させる 慶応四年、軍事奉行添役となるが、実戦には加わっていない 明治元年、戦争遂行の責任者として終身禁錮となり各地に幽閉される 明治五年、特赦があり開放される 明治五年、左院少議生となり、明治政府に出仕する 明治二十三年、熊本第五高等学校の教授となる 明治三十三年、東京にて没。享年七十七歳 |
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梶尾平馬 1842〜1889 |
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- 主席家老 - 会津藩最後の主席家老で奥羽越列藩同盟の中心人物 戊辰戦争ではプロシアのシュネル兄弟から武器購入に努めた 幼少は泣き虫で引っ込み思案な性格だったが、十歳を過ぎてから外向的で雄弁になった 天保十三年、内藤信順の次男として生まれる 文久二年、大目付となり京に上る 慶応元年、若年寄に任命される 慶応二年、家老に任命される 慶応三年、二十四歳で主席家老となる 慶応四年、「奥羽越列藩同盟」を成立させる 慶応四年、政務総督として容保を補佐する 明治四年、青森県庁庶務課課長となる 明治二十二年、根室で没 |
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