雲間の太陽に似て


 		

 
「キムチが食べごろになったから取りにきてね」
  昨晩、 義姉から電話があった。
一日に三本しか来ないバスの朝の便に乗るべく、 急いで身支度をして
バス停に向かう。

 傘をさしてバスを待つ。
 鼠色の空は重くのしかかる様だったけれど朝にブルトーザーで除雪
された道にはたいした雪が積もった様子はない。風はなく、静かに寒
さが体温を食んでゆく。さしていた傘の上で、いつのまにか重さを主
張する様に傘骨をたわませていた雪を何度か振り落とす。
 長靴のなかの爪先も、手袋の中の指先も、しびれる様に感覚の無く
なってしまったころ、予定時刻より30分ほど遅れて、雪の壁の中から
待望のバスが姿を現す。
 後ろの自動ドアが開いて、誰も乗客の無い車内をさらけ出す。急い
で乗り込むと、ざらついた声で機械が整理券を取るように告げる。
「遅れて、もうしゃけね。(申し訳ない)ちっと、なだれがあってそ。
(雪崩があったもので)」
マイクを使うでもなく、運転手があやまる。
「しょうがねあすけ。(仕方がないことだもの)気にしねたっていあ
ね。(気にしなくてもいいじゃないですか)」
暖房の送風口の近くを探して腰を下ろした。
 暑いくらいに効かせた暖房で、指先が針で刺される様な痛みを伴っ
て血管が開いてゆく。長く細いため息を一つついて、肺のなかの冷
たい空気をすべて押し出すと、温かい空気を深く吸い込む。
 乾いた木の床に、凍みついた髪の毛から、畳まれた傘の先から、
次々と溶けだした雪が流れ落ちて水たまりを作る。車がカーブを
曲がり、坂を上り下りするたび、水は勝手気ままな模様を描く。

  すっかり温まった体を、 嫌々ながら車外に運び出す。バス停の脇の
雪の壁を一部切り崩して、 雪の階段をこしらえてある。身の丈よりも
高いそれを、 滑らない様に登ってゆく。
  かんじきで踏み固められた雪道の脇を  目印の棒が5m置き位に雪か
ら突き出していた。一度消えかかった道の上を  新しい足跡が続いて
いた。兄の家の玄関まで。

  こたつの上の煎茶の茶碗で掌を温めながら肩の力が抜けてゆく。
「わざわざ迎えに出てくれてたが? わりっけね。(悪かったね)」
「中々来ねえし、どーしたあろーと思ったが。(どうしたのだろうと
思ったの)」
「どっかで雪崩があったみてえだっけ。(雪崩があったようで)」
  義姉はふうんと言う顔をした後、 にっこりと微笑んだ。
「今年はねえ。キムチの出来がいいあそ。(良いのよ)うんめもん
いっぺ入れたすけ。(美味しいもの沢山入れたから)」
そういって、台所に立ってキムチを取り出しにゆく。
「かきに、えびに、いかに、三つ葉に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
呪文のように言いながら台所の床板を上げて、 半分地中に埋まって
いる大きな瓶からキムチを取り出す。途端に部屋中にニンニクの匂
いが充満した。
「ばーかげにつくったあだねえ。(すごく沢山作ったのねえ)よいじゃ
ねっけろに。(容易じゃなかったでしょうに)」
ケラケラッと笑う。
「下漬けした白菜絞るのに洗濯機つかったすけ、すっけでもねあん。
(そんなでもないですよ)」
こわばった私を見て付け足す。
「ちゃんと洗ってるし、ネットは二重にしてるすけ、だいじょぶだっ
て。大体、向こうじゃ漬けるときは近所中が集まって、おしゃべり
しながらやらあすけ、一日仕事でね。一人じゃ無理だあね」

  電話がなる。
電話に出た義姉は早口の韓国語でしゃべりだす。時々英語が混じる。
  ひとしきり話終えて戻ってきた義姉を前にして呟く。
「二カ国語をしゃべれるってすごい」
義姉が少し目を見開く。
「最初はぜんぜん。もう、悪口言われても笑っているしかねっけし。
便所に入って、"もう帰る!!"って何度も泣いたよ」
自分の失言に言葉を探す私を見て、
「だけど。 今は幸せよ」
そう胸を張って言った彼女は、 見とれるくらいに綺麗に笑った。

  昼のバスに遅れないように兄の家を出た。 雪はいつのまにか止んで
いる。鈍色の雲の間から差し込む陽光が、 近くて遠かった雪山を青い
陰を従えて浮かび上がらせる。
  やがて黒と灰色だけで構成されていた世界に、 束の間の色が戻って
ゆく。一面のきらめきの中を帰途についた。



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