そして旅は始まった

荒い波が切り立った崖にぶつかり、這い上がるように上に伸びては、砕ける。そのし ぶきのかかる辺りに、若い男が必死でしがみついていた。 上までは身の丈ほどを残すのみだったが、 彼は命綱の一つも身につけてはいなかっ た。もっとも、水の神官である彼は、落ちても無傷で済むだろうが。〜今張りついて いる所まで、押し上げてさえもらったのである〜  農作業はともかく、ロック・クライミングなどした事のない彼の指は傷だらけだった し、幾度目だったか滑り落ちたときに擦りむいた頬からは血が滲んでいた。 (顔の傷を見たら、神官長が悲しむかな。まあ、好都合か)  いかにも女性受けの良さそうな端整な神官長の顔を思い浮かべた途端、猛烈に腹が 立って、勢いで残りを登り切った。  肩で息をしながら、自分が張りついている大理石の神殿を眺め上げていた。  ”風の宮”三国一の美貌と、それ以上にその巫力の強大さを歌われる風の巫女王の 住まう聖地。  美しき巫女王の”お願い”に色爺・・・・もとい神官長は、よりによって水の宝玉”緑 ”を’貸し’だしたのだ。「貴女の緑玉の瞳に勝る宝などございませぬが」などと言 って。挙げ句、返してもらえないからといって・・・・・・。  結局一番若い自分がいつも割を食うんだ。あの爺さん方は! 一年前の旅の時だって 、半日も待ったんだぞ、自分は。それを・・・・忘れて花町でできあがっていただと? ふざ けんな! 自分は陰間やこそどろになるために、 水の神殿に上がった訳じゃないんだ。 壁伝いに歩いていって、 念のため人が居ないのを確認してから窓から中に入り込む 。もっとも奥宮には通常誰も居ないはず。外に対して開かれるのは祭りの時のみ。 此 処になければ、あとは神官の私室に探しにいくしかない。 ・・・・が、進退窮まってしまった。居たんですよ。人が。 しかも女の子。 あぁ・・終わ りだぁ。この子が「きゃあ、誰かぁ」なんて叫び声を上げちゃったり、その声で護衛 官が飛んで来ちゃったりして・・・・一巻の終わ・・・・らない? 立ち尽くしちゃってる自分に音も立てずに歩み寄って来たその子は、でっかい緑の 目でじいっと見つめ上げ(いやあ、照れちゃう)、 がしっと両腕を掴むと 『私を連れて、逃げて!』 と叫んだ。 腰までのプラチナブロンドの少女は、もう5歳くらい上だったら、駆け落ちを考えて もいい位可愛いのだけれど・・・・ちが〜う!! 今の叫び声で表宮が動く。扉の向こう側でざわめきが聞こえる。この際少女は無視 して窓から身を乗り出しそのまま海へ・・・・と、上着を引っ張られて実に無様な恰好で 窓枠の上にこけたのである。 急いで振り向けば、少女が"もう、死んでも離さないわっ"って感じで裾を引っ掴んで いるのである。一瞬、頭のなかは真っ白。 上着を残す訳にも行かず、ええい仕方ないと ばかりに少女を引っ張り上げて、 そのまま真下の海へと頭からダイブ。 言霊に反応し た海水が一気に盛り上がり、 自分たちを受け止めると、ゆるやかに着水させた。もう、 後は一目散。 後ろを振り向く余裕なし。必死。でも犯人はバレバレ。 絶体絶命乗り越えて、ようやく水の神殿に帰ったら、表宮に風の神殿からの使いが 来ていた。〜当然だ。 陸路は海路の三分の一しか無いんだから〜神官長はのらりくら りと追求をはぐらかしていたが、いよいよ逃れられないと見るや、自分に責任をなすり 付けてきた。(この狸爺) 『何も持っていませんよ。何ならこの場で脱ぎましょうか』 やや湿りけがあるという程度の上着を脱いで手渡してやる。ついで、両手を上げて 確認させる。(顔の傷が怪しかったり) 連れてきた少女は、何処に消えたのか見当たらない。この場合好都合ではあるけれ ど。 結局、何処を探しても宝玉は見つからない。思い切り、疑いの眼差しを残したまま風 の神殿の使いは帰っていった。貸し出した方なのにこんなに疑われるのは、やっぱり 普段の神官長の行動の所為だろう。ところで少女はどこへ行ったのだろう。もしかす ると彼女が宝玉を持っているのかも。 いや、絶対そうだ。 やっと静かになったと思えば、今度は神官長が詰め寄ってきた。 『どこだ?』 『何のこと?』 『水の宝玉に決まっておろう』 『無かった』 『なんだと・・・?』 『無かったんですよ。 台座に』 『もう一度、 言ってみなさい』 神官長のこめかみに血管が浮いてくる。(そんなに怒るのなら貴方がやって下さい) その時、神官長の袖をツンツンと引っ張る者がいる。連れてきた少女だった。 『わたし。 私』 『おまえは誰だ』 にらみ付ける様な神官長の視線にひるみもせず、にっこり笑顔。 『水の宝玉』 限界まで来ていた神官長の血管がぶち切れた。 『いい加減にしろ!誰かこの子供をつまみだせ!!』 『ひどーい。 本当なのに』 言いざま、少女は宝玉へと姿を変えた。 取り合えず、神殿には普段の生活が戻った。表面上は。  が、ただでさえこじれていた人間関係は、もうこれ以上は無いと言うくらいにネジ 曲がり・・・・。 田舎へ帰って家業を継ぐという名目で、 神官を辞めた。(もっとも帰っても、 姉が家 を継いでいている場所なんてなかったが) 当座の食料を餞別に貰い、旅支度を整えると神殿を出た。 街を抜け、行く宛もないので都に向かうことにして・・・・・・それにしてもうるさい。 『とっとと帰れ!台座に納まってろ!迷惑だ!』 いつの間にか荷物に紛れ込んで付いてきたらしい。 今は少女の姿であったが、細い指 でマントをしっかり掴んで口を尖らせている。 『えー。だってつまんないもん。貴方についてく。大丈夫。ほら、食事はいらないし、 やなら石になってるから。ね?』 いつか石になっている時に売り払ってやろうと決意して、ここは諦める。 『・・・・しょうがないな』 そして(疫病神つきの)旅は始まった。
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