♪自ら動く事能う者

 人を傷つけてしまう。人に悲しみを増やす存在である。世界の負になる。

 いつもではないけれど、でも、そういう存在であることも否めない。

 自分自身を振り返ってそれを思うとき、私は”人”をやめて”そこにいる”ことを芯とするもの、そこにいるだけでよいもの、になりたくなったりします。(特になりたいのは植物、ですね...)先日も何だかそんな思いに囚われてしまって、だからこそ逆に、「私にも、誰かの楽しみを増やしたり、世界をよいほうに傾けたときだって...ある...はず...。」と自分をもりたてようとしていたのですが...

でも、考えて見ると、実は...

私のなりたい植物や、鉱物、小物達...みんな、マイナスの要因になることなしに、周りを包み、幸福を与え、世界をよりよく心地よいものにできるもの達....なのですよね。愕然、というほどではありませんが、なんだか淡くも深いショックを受けました。

私.....植物でいたほうが、「誰も傷つけないで」幸福を増やす分...よいのではない?

 そんな時に、あるお話に出会いました。「手違いでさらわれた赤ん坊が村のはずれのマリア像の元に置き去りにされた。マリアは弱る赤ん坊を見ながら、なにもすることが出来ない。探し回る村人達に声をかけることすらも。」というものです。ここはまだお話の途中なのですが、(赤ちゃんはちゃんと無事に助かります)マリアが自分の無力さを悲しむ場面にきたここで、なんだか、私は、助けられたのです。

 マリア像が人の心を癒せるように、私は赤ん坊が捨てられているのを見たら抱き上げて守ることが出来る。私は回りを傷つけないもの達とはまた違うもの、つまり「自ら動くこと能うもの」であるおかげで、それらが世界にしたくても出来ないよいことを増やすことが出来るはず。

うまくいえないのですけれど、完璧なものなんてない。どちらがよいとか、わるいとかではなくて、彼等は彼等で、私は私で、できることできないこと、してしまうことしないでいられること、することしないこと、されてしまうことされないこと......役割が、違う。

だから、私は、私でいて、それで、なにか、よくなるように、したい。

そんなふうに、また、わらうことができるようになった、きょうこのごろです。


ていと あ ていと うかんではきえるあわのように