その1はこちらです。

「街おこし、地域おこし」は歴史おこしから(その2)

 久慈城主・備前の守(かみ)に係る議会活動報告以来、市民の関心の高さに驚かされました。
 「史実が埋もれて400年余」久慈の歴史を語る時、伝説のみでは描ききれない思いを強くし史実、再発見を懇願し再度、「久慈備前の守」戦国絵巻の精査と礼拝の為、7月に宮城県栗原市の三迫に眠る「九戸ノ神社」へ趣きました。
 時世、豊臣勢は政實以下8勇将惨殺の他、奥方や11歳の子供等まで斬首されているその一節に「何せ年端も行かぬ子供なれば、母が先に斬られると子供の心が乱れます、順序は逆くなれと子供を先に斬ってと叫び、子供の首が落ちた後、母が自ら切腹」この惨劇を悲しみ、現栗駒町三迫の常民が弔った塚祀りが起源で神社は明治初期とのこと。
 藩制時代の異国の民による400年余も弔い祀って頂いている事に声にならないお礼を申し上げると同時に自分達の、怠りはずかしめの心境は禁じえなかった。
 他方、郷土の視点から久慈城と寺について照会、800年余の法灯を誇る慈光寺は久慈氏の菩提所であったが九戸の乱に巻き込まれ久慈氏は滅亡する。のちに大川目は摂侍氏の知行地となり摂侍氏は久慈氏の氏族であることから旧縁により慈光寺を保護し、久慈家先祖代々の霊を弔う寺として現在地に再興された。
 明治になり神仏分離令と、廃仏毀釈の嵐が慈光寺に襲いかかり、当時の住職は、僧侶から神職に転じて、寺領内に八坂神社を建立。同寺は一時無住となって荒れたが、後に明治13年、有志によって旧に復され現本堂が整備された。
 長福寺は久慈氏18世・摂津守治継位牌(古牌)を蔵せると文献に伝わっている。久慈治継氏が久慈川の河口(現田屋・湊)付近に長久寺を建立。ところが、九戸政實の乱(1591年)によって久慈氏は滅び、久慈地方は三戸南部氏の直轄領となります。往時、長久寺は江戸時代前期(1611年)の津波で被災に遭遇し廃寺同然となった。
 その後、1618年キリスト教禁止が発令され宗門改めが実施されるにおよび、武士・領主が開基し保護する寺から庶民が登録する寺(寺請檀家制)へと移行を経て、長久寺にあった久慈治継氏の位牌開基を長福寺が守護されたと伝えられている。(いわてのお寺さん参照)
 今時は、久慈備前の守(久慈城主)最後の武将が眠っている場所が多くの市民に知れる事となるなど郷土に投げかけられた課題は多く、にわかに城跡整備は基より、歴代お殿様の基地の調査等「ふるさと400年余の歴史おこし」に向け、現世に生きる者がなにをなすべきか、九戸の乱から天下人秀吉に反抗へと発展した歴史の功罪を検証しながら、「藩制異国の地に眠る久慈城主の霊魂を郷土に迎える」ことや「史実の空白を取り戻す」千載一遇の時を迎えているのではないでしょうか。
 このような常道が「まちおこし・地域おこし」の民力に繋がればと期待したい。


«「街おこし、地域おこし」は歴史おこしから(その1)へ

«活動報告へ

«トップページへ戻る