神秘体験1 人類みな一体!? 〜全てが私であること〜


神秘体験1 あなたが私であること

人類みな一体!?
すべてが私であること


99/05/10

大学生になって4年目かその翌年頃の話です。

夜景の名所と言われる新宿のとこか高いビルから東京の街を眺めたくて、私は夕暮れ時を狙って一人でNSビルへ入っていきました。

その日の日暮れは、特に辺りが夕焼けに染まることもなく、ただ空は煙ったように暗い水色に変わってゆき、やがて暗青色になり、そして夜がやってきました。
下のほうでは車たちがライトを点し、ぽつぽつと遠いマンションの窓にも明かりが見え、いつものようにただぼーっと煌く夜景を眺めていました。(いいですねぇ、一人夜景を見る女子大生。でも端からは小学生しか見えなかった可能性が大きいです)

こんなに普通の、何でもないような場面で、その時、私の人生観をすっかり変えてしまうような体験が起きたんです。

ふ、と車の往来する下界がまるでおもちゃのように感じられ、信号の前で大人しく待っては青信号で素直に流れ出すそのさまは無邪気な小さい子供たちの整列した姿のように見え、言いようも無く可愛らしいものに思えました。
突如、私の中にこの地面をかき集めてぎゅぅっと胸に抱きしめたい!というせつなくて強い衝動が湧き起こりました。
その瞬間、恐ろしい勢いで眼前の空間が私の中にまるで吸い込まれるように流れ込んでくるのを感じました。そして次の瞬間には、目に見えているこの世のすべて・・・人間も、植物も、建物も・・・それらの主観がいちどきに自分の主観となったのです。
車や夜の街が「愛しい」ものに見えてから「自分の主観が拡大してしまった」ここまで、ほんの一瞬の出来事でした。

人間以外の、ゴキブリやネズミや犬猫たちの、鮮明ではないけれど明らかな自我意識や、街路樹やビジネスビルの、漠然とした意識を主観的にとらえるなどという事は、私の有能とは言えない頭で考えただけではおよびもつかないものだと思います。明らかにその時、私は「体験」したのです。

それらの「感覚」のうち殆どの強い力を人間が持っているのです。
総量に対する割合ももちろん、まるで意識の世界は人間が仕切っているかのようでした。

膨大な数の生命体と非生命体。それらをすべて包含したその時、自分は一体どれだけ巨大になったのでしょう・・・その意識と意志の全てが、明らかに同じひとつのもののさまざまな相でなかったなら、「その時の彼ら」自身でもある「その時の私」がどうやって存在できているのか説明が付きません。

それにしても、外から他人を観察するのではなく、「自分が実は他人だった」というこの感覚が想像できるでしょうか。

とても、ご想像いただくのは難しいと思います。でも想像してみていただきたい。だから、長くなりますが具体的な説明をします。
その時流れ込んできた無数の「意識」について、なんとか、紹介してみたいと思います。



 彼らは、今この瞬間にしか生きていませんでした。

しかし、彼らは記憶を持っていました。
それらの記憶は普段あえて思い出したりはしないのです。でも、今この瞬間の心境と言うのは、もっとも身近な過去の体験からくる喜びやウキウキ感、けだるさ、不安となって人の形を成しているのでした。
 そして、過去の気にかかる体験からくる「気がかりな問題」などは、何か作業をしながらでもその事に気を取られているのです。
 それらは多すぎる量であるにもかかわらず平気で私の脳に同時存在し、しかもそのままの状態で「任意の自分」に集中することもできました。

---* たとえば、車の中にいて、信号の前で待っている私。
これは比較的若い(と自分で思ってる)男性(と自分で思ってる)。
 帰ったらご飯が待っていると思っています。比較的何も考えず、青く光るはず、と前方を漠然と見ながら信号が青になるのを「わざわざ待つということもなく」待っています。今日はベージュの服を着ている、と感じています。営業の仕事をしている自分ですが、会社は普通に楽しく、時々嫌になるが、行くのが当たり前なので習慣になっており、辞める気はありません。

---*たとえば、この私は、女で、「主婦」「奥さん」というのが自分だと感じていて、夫がいる、と認識していますが、これからやがてここに来るのだ、と当たり前のように思っていて、アパートで料理を作りながら坊ちゃん刈りの男の子(自分の子供ですが)がプラスチックのおもちゃのトラックで廊下で遊んでいるので気にかかっています。

---*その子もまた自分です。今日は学校だか幼稚園だかで、いいことがあったという事が記憶に残っていますが思い出したり考えてはいません。でも、そのために今の機嫌はいいのです。ガタガタと青と黄色のプラスチックのトラックが床とぶつかる振動は面白く心地よく、右後方に部屋が広がっていること、左に母親の脚も感じます。

書けばきりがない事は想像に難くないと思います。

ある大きめのビルの私は、音で表すなら低い音で「ずももももー」と地底を這うような重くて太い意識をもっており、あるネズミの私は左の方に黒くて大きい壁があり右前方に明るめの世界が開けておりべつに何か食べたいとも思わず壁の位置から見て平行に近いけれど斜めに近づく方へ一直線に駆けていて、ある若いGパンを履いた私は必死に女の子を口説こうとナンパしていました。

このように、一人一人のだれもが同時に存在していました。一人一人のだれもが私でありました。意識をそこに持っていけば過去の体験や記憶は全て背負いつつ程良く忘れたその人自身になり、意識を持っていかなければたいしてその自分は味わわずに終わってしまいます。丁度、見えている景色のうち注視しているものと無視しているものがあるように。
私はこの体験以来、この世の全てはつながっている、いえ、同じ物だったのだと思うようになりました。
そして、なんだかこの事を多くの人に伝えたほうがいいように思いました。伝えなくても何の問題もなく、伝えても何の害も無い事だと。
ただ、この体験がとても参考になると感じてくださる方が現代には多いのではないか、という思いが「私」とは同じだけれど別の視野を持った自分にあり、時々私の中で暴れ出して居ても立ってもいられなくなったりするのです。あせっているのです。困るから焦るのではなく、待ちきれないと気が急いているのです。早く知らせたい。はやくはやく、知らせることは目的でなくても良い、少なくとも表現したい・・

まるで、出口を見つけた火山のマグマが吹き出すように、私というホワイトホールを見つけてほとばしろうとする何かがあるのを感じました。その何かを言い表すなら、水のようなものです。
揺らめかずに水のように吹き出す湯気のようです。お湯を沸かすときに空気が透明なのに「見える」気がする、水飴のような透明色。
暑い日にアスファルトの上で揺らめく空気のレンズの色。
とにかく透明なものです。吹き出したら散って混ざって消えてなくなってしまうような、透明な空気。

それが後頭部から頭頂を出口にして垂直に上へ吹き出しています。

私はこの時知った事を、この時までに知った事とあわせて、いくつかの本にしようと思いました。出版しなくちゃ!誰もが見られるような状態にしなきゃ!そんな決意めいたものが生まれました。

そして実はそれこそが、このホームページの不思議のコーナーを作った原因にもなっているんです。

いかがでしたか。

この話の体験が、不思議のコーナーを作らせたということを「へー、ふーん」と納得してくれた方や「この時から狂ってたのかー」と同情してくれた方、様々だと思います。

でも、考えてみると、この「私の目に見える範囲の全てと主観が重なる体験」の前に、「ポッキーと常磐線」の話が起きてるんですよね。
まるで、この時のための予行練習としてまず一人にシンクロしてみたとでも言わんばかりに。

時間軸的には「ポッキーと常磐線」の話から今回の話までの間は3年くらい経っています。日にちをちゃんとつけとけば良かったのですが、まさか人に話す時が来るとも思っていなかったので・・・。今思えば、大学の初めの頃と終わりの頃に起きたんでしょうね。。(「ポッキーと常磐線」では高2って思って書いてるんですが、私は日記をあっちのメモ帳やこっちのルーズリーフに書き散らすので、日記につけたのかどうかも判らなくなってるんです)

この先の感覚と言うのも体験しましたが言葉に書いて説明することは難しく、また入り口はこの体験談で十分かと思います。このHPは1996年に作り始め、97、99、2002、2006と移転したり補足をつけたり誤字や誤表現を直したりしておりますが、本文は変わっておりません。


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