「兼業農家」という言葉があります。何か不思議な言葉だと思いました。「兼業会社員」とか「兼業医師」とは言いません。せいぜい「サイドビジネス」と言われるだけです。勿論、農業がそれだけで生計を立てることが困難な職業になっているからであることは言うまでもありません。しかし、農業以外には「兼業○○」と言われないのは、それだけではなく、職業は一つであるという暗黙の前提があるからでしょう。実際、ほとんどの人が一つの職に就いています。公務員に至っては兼業を禁止されています(今のところ)。しかし、「兼業農家」という言葉を見ると、職業が複数でありうる可能性が考えられます。
『モンドラゴン』(ヘンク・トマス、クリス・ローガン 御茶の水書房 1986)という本を読んだ時、違和感がありました。「モンドラゴン」はバスク地方の小さな町の名で、そこには大きな協同組合(町の生産高の数割を占める)があります。そこは普通の企業よりサボタージュや遅刻が少なく、労働者が経営に参加し、労働者間の賃金の格差も一定範囲内に制限されています。同じ町にある工場の賃金はその協同組合の影響で上昇しています。しかし、たぶんそこでの作業そのものは普通の工場とそれほど違いはないでしょうし、工場を離れればさらに違いは小さいでしょう。私自身がそこで働くことを考えてみる時、そこが魅力的には思えませんでした。「モンドラゴン」はひとつの理想に向かっているのかもしれませんが、そこで変わるのは「労働」だけではないか、というのが私の抱いた違和感の原因のように思えます。「労働」が変わっても、「生活」はそれほど変わらないのでは・・・。
仕事・趣味・家事などと、一日を分割して説明することがあります。しかし、例えば、料理は家事ではあるけれど同時に趣味でもあるし、畑は今のところ単なる趣味ですが、余った野菜を売れば仕事になる可能性もあります。自転車は移動の時間=ムダな時間にしかカウントされないでしょうが、私にとってはそれ以上の時間です。一つの行為に多重の意味を与える時、仕事・趣味・家事などと分割することにどれほどの意味があるのか疑問です。
秋山憲治は「”新しい労働”の位置」(『社会学評論』Vol.49 p238-253 1997)の中で、労働者協同組合・シルバー人材センター・ボランティア活動などを掲げて新しい労働と称し、従来の職業労働と対置し、その「構造と動向は、職業労働と非職業労働との境界の不明確化を示している」と述べています。
就職してから目が悪くなりました。昼間ずっと室内の冷房のある所にいると、冷害の年もあまり実感のないままに過ごしてしまいます。一日中事務ばかり、というのは不健康なものです。かといって、一日中肉体労働で頭を使わないというのも考えられません。
専業の農家というのもいいとは思えません。全収入を農業から上げるにはかなり大規模にやらなければなりません。そのために高価な大型機械(しかも、ものによっては年に数日しか使わない)を借金をして買うことになります。新聞のあるコラムではそれを「重装備農業」と呼んでいました。私がやりたいのは、兼業の「軽装備農業」のようです。
頭を使う仕事と体を使う仕事をバランスよく織り交ぜて、2つから4つ程度の仕事を持てれば面白いのではないかと思います。1つの収入源だけに頼ると社会変動や気候変動に対して安定性を欠くと同時に、その1つにしがみつかざるを得なくなります。また、「一番好きなことは仕事にしない方がいい」などと言うことがありますが、嫌にならない程度、負担にならない程度の仕事にすればいいのではないでしょうか。そのためにも仕事をいくつか持つことは有効でしょう。そして、その中に非営利セクター的なものを入れられたら最高ですね。そうなった時、労働時間は単なる24時間の中に溶け出すでしょう。仕事であって趣味・楽しみ・自己実現・ボランティアでもあるような感じです。1日24時間という生活の時間をどうコントロールするかが問題になります。
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